2011.10.17
対ミャンマーODA再開と二重為替問題 ―― チャット高とアジアの激変
10月14日、外務省は、対ミャンマー(ビルマ)ODAの再開を表明した玄葉光一郎外務大臣の談話を公開した。この談話では、民主化運動に参加して投獄されている約2000人の政治囚のうち、1割程度が釈放されたことなどをあげ、「民主化の前進」と評価をしている。だが、ODA再開の是非やアウンサンスーチー氏の動向が注目されるなか、国内情勢の激動についてはほとんど報道されない。今回はそうした定型的な報道では取り上げられることのない事情に少し触れてみたく思う。
空前のチャット高
現在、ミャンマー国内の政治情勢は、空前のチャット高にゆらいでいる。ミャンマーの通貨であるチャットは、政府が公式に使用する「公定レート」と市場で流通している「実質レート」が、にわかには信じがたい水準で乖離していることで知られている。長期にわたる国内経済の疲弊、戦後幾度も強行された廃貨令など複合的な要因により、極度のインフレーションが進行してきたためだ。
実際、市井の市場で流通している実質レートは、現在1ドル=約800チャットである。ミャンマーに滞在された経験がある方は、急速にチャットが高騰していることに驚かれると思う。ほんの2年ほど前までは、実質レートが1ドル=1000チャット以上になることなど、誰も想像していなかった。
チャット高の要因と政治的混乱の話をする前に、ミャンマーの異様な為替事情を簡単に解説しておきたい。
公式レートと援助レート
ミャンマー政府が公式に他国間で使用している公定レートは、1ドル=約6チャットである。この公定レートが実際使われる場面は限定的だが、在ミャンマー大使館でパスポートを更新するのが端的な例となる。
パスポートの更新手続きを行う場合、日本国内では各都道府県の申請窓口で、海外にいる場合は在外公館で、約16000円を収入印紙代として負担する必要がある。しかし、二重為替が慣行化しているミャンマーでは、ほとんどタダ同然でパスポート更新をすることができるのである。これは、旅行者のあいだでは一般に口コミで流通している話だ。
旅行者としてミャンマーに行くときは、通常はドルを持っていく。ミャンマー国外でチャットを入手することはきわめて困難だ。旧首都であるヤンゴンの国際空港から、市街地までのタクシーはドル払いができる。滞在するホテルやマーケットには大抵両替商がおり、個々に多少の価格差異はあるが、そこで実質レートでドルとチャットを両替するのである。
公式レートの6チャットと、実質レートの800チャットの間には、約130倍以上もの「差額」がある。あまりに大きすぎる差額だ。これを国際援助に適用した場合、巨額の使途不明費がミャンマー政府のポケットに入ってしまうことになる。
妥協策として、国連をはじめとする国際援助機関は、「援助レート」を慣行として用いている。日本のJICAや国際援助団体がODAの枠組みで援助を行う際も、このレートを使用している。援助レートは1ドル=約450チャットだ。だが、これでも、実質レートとのあいだに2倍近い差額が生じる。
すなわちミャンマーでは、公式レート、実質レート、援助レートと、1つの通貨に対して3重の価格がついているのである。公式レートが使用されることは今日ほぼなくなったため、実質レートと援助レートの二重為替制度で国内経済を運用してきた。これまでは暗黙の了解事項として、あまり表沙汰には取り上げられてこなかった問題だ。
ミャンマー政府の政治的妥協
ミャンマー国内の情報筋によれば、今後IMFが何らかのかたちで介入を行い、実質レートと援助レートの差を漸進的に解消することが決定されているという。そうなれば、世銀をはじめとした国際援助機関はミャンマーに援助、投資を行う際の不透明性が解消され「お墨付き」ができる。
この事実は、ミャンマーの軍事政権がこれまで固持してきた為替体制に対して、大きな政治的妥協を行っているということを意味する。これまで為替の差額で得てきた利益を、捨てようとしているからだ。
ミャンマー国内経済の事情を、日本のマスメディアが扱うことはほとんどないに等しい。しかし、ミャンマー政府の「政治的」動向の背景には、グローバリゼーションと経済の変動に対応しなければもはや体制を維持することができないという危機感がある。
チャット高は当然、国内の輸出業者に大きな打撃を与える。チーク材やヒスイ原石をはじめとした天然資源は、ミャンマーの輸出産業の要でもある。赤字に窮した経済界に応えるかたちで、政府は7月に半年間の暫定的な法人税引き下げ(10%から7%)を発表した。しかしそれでも為替相場の急激な高騰による収支の赤字は解消されず、輸出業界からの不満の声は高まるいっぽうであった。このような国内事情が、二重為替制度を廃止し、実勢相場に移行する政治的決断をミャンマー政府に迫らせたとみられる。
チャイナパワーとの蜜月の終焉
アジア経済の激動への対応も、軍事政権の大きな政治的妥協の要因である。これまで、「軍事政権は中国に守られている」というのがミャンマー情勢に対する典型的な見解であった。たしかに、市場は中国製の製品であふれ、ヤンゴンの街中ではCCTVをはじめとする中国系のテレビチャンネルを皆が観ている。ヤンゴン国際空港のイミグレーションには、ビルマ語、英語、そして中国語の表示がある。
しかし、昨今のミャンマー政府の動向や、国内で発行されている日刊紙を細かくみてゆくと、自国経済に対する危機感が垣間見れる。とくに、個人レベルで中国側から大量に流入してくるビジネスに、警戒感を抱きはじめている。
インド、ロシア、そして欧米諸国ともチャンネルを持つことで、チャイナパワーの独占市場からある程度自立して、対等な関係性をもちたいと志向する傾向。それはミャンマーにかぎったことではない。ASEAN全体が、自国の国内産業の相対的地位向上を模索しているようにも見える。そうしたなか、明らかにミャンマー政府は、従来とは比較にならないほどに、ASEANとの協議を重要視するようになった。
ミャンマー情勢の今後のシナリオとしては、「フィリピン化」してゆくのではないかという感触がある。つまり、格差が激しいままに経済成長が模索され、一部の都市圏では「民主化」が謳われ、少数民族問題や紛争、難民問題は温存したまま、事態が進行してゆく可能性が高い。
アンタッチャブルな「棄民」
「ロヒンジャ」と呼ばれる少数民族をご存じだろうか。ミャンマー人のいる場で、ロヒンジャの話題を持ち出すのは最大のタブーである。国籍すら持てない、存在を認識されない「棄民」だ。
ヤンゴンに立ち並ぶ商店には、最近「876」という看板や表示が掲げられている場所がよく見られるようになったという。8+7+6=21。「21世紀」を意味するこの看板は、ムスリムであるという証である。ミャンマー国内に居住しているムスリムは、主に5つのグループにわかれている。「パンディー」と呼ばれる回教徒系、「パシュー」マレー系、インド・パキスタン系、ラカイン州の一部に先住するグループ、そして「ロヒンジャ」だ。
多民族国家であるミャンマーの市井で、ムスリム系の住民に対する反発は古くから強い。そのなかでも、もっとも苛烈な偏見にさらされているのがロヒンジャだ。
ミャンマーとバングラデシュのあいだ、チッタゴン地域には「壁」がある。国境のナフ川沿い、数十キロメートルにわたって、ミャンマー政府が壁を建設している。この壁は、バングラデシュ側に流出しているロヒンジャ難民への差別の象徴だ。
バングラデシュ側には、約5万人のロヒンジャ難民が居住するキャンプが4つ点在する。2つは公式、もう2つは非公式のキャンプだ。さらには、キャンプの外には約20万人のロヒンジャが生活している。バングラデシュ側でも、ロヒンジャへの反発心は強い。彼らは住む土地も国籍も持たぬ、アジアのなかで忘れ去られた「ステートレス・ピープル」なのだ。経済問題の傍らには、こうした難民問題が横たわっている。
対ミャンマーODA再開という政策に対して、メディアではアウンサンスーチー氏とNLDの動向ばかりが取り上げられる。しかし、今回垣間見た為替や少数民族の問題などをとっても、ミャンマーという1つの国が抱えている問題はどこまでも重層的なように、アジア情勢は今日、政治面、経済面、あらゆる側面で急速に変動している。一面的なアジア観から脱却せねばならない。
推薦図書
戦後の東南アジアの「ナショナリズムの時代」を、精緻な資料分析とともにとらえなおす。「植民地」の宗主国である日本とイギリスに対し、ビルマのナショナリスト・エリートたちがときに苛烈に、ときにしたたかに、多様な顔を使い分けて応じた姿が描き出される。いまだ一面的なアジア観、従属論を脱する、丁寧な歴史研究のお手本。若干重たい学術書だが、今日のビルマ、東南アジア情勢を論ずるのには必須の一冊。
プロフィール
大野更紗
専攻は医療社会学。難病の医療政策、