2016.11.08

トルコにおけるもう1つのクルド政党――フューダ・パルとはどのような政党か

今井宏平 現代トルコ外交・国際関係論

国際 #クルド#クルド人の風景#フューダ・パル

シリーズ「クルド人の風景」では、日本で報道が少ないクルド地域について、毎月専門家がやさしく解説していきます。(協力:クルド問題研究会)

2015年選挙で躍進したクルド系政党

トルコでクルド系政党というと、昨年の2度の選挙で10%以上の得票率を獲得し、大国民議会で議席を得た人民民主党(HDP)を思い出される方も多いのではないだろうか。

トルコのクルド系政党は1990年(1990年6月に人民労働党が設立)に初めて立ち上げられ、その後、解党と結党を繰り返してきた。クルド政党ではなく、クルド系政党と呼ぶのは、クルド人が中心であるが、クルド人以外の議員や支持者も含まれるためである。

トルコの選挙における特徴の1つに、総選挙で10%以上の得票率を獲得できない政党は議席を得ることができないという足切り条項がある。この足切り条項のため、2015年の2度の選挙に至るまで、クルド系の政党は独立候補として選挙に参加し、選挙後に再結成するという戦略を採ってきた。しかし、2015年の選挙でHDPは独立候補ではなく党として選挙に参加し、見事議席を獲得したのだった。

HDPに至るまで、これまでクルド系政党として国政に参加してきたのは、世俗的なクルド人の政党であった。しかし、クルド人は決して一枚岩ではなく、言語、宗教観、宗派などが非常に多様である。

事実、宗教に熱心な多くの保守的なクルド人は、親イスラーム政党(トルコの国是である政教分離と世俗主義を尊重・遵守したうえでイスラームの理念を政治活動により実現しようとする政党)であり、2002年11月から2016年11月現在に至るまで14年間(2015年6月7日~11月1日は除く)単独与党の座を維持する公正発展党(AKP)に投票している。AKPが「最大のクルド系政党」と言われる所以はここにある。

だいぶ前置きが長くなったが、本小論ではHDPとは異なり、一部の保守的なクルド人たちによって立ち上げられた政党、フューダ・パル(Huda-Par)について検討してみたい。

クルド地域におけるイスラーム主義組織

クルド人が多く住むトルコ東部および南東部において、最初に設立されたイスラーム主義組織は、クルディスタン・イスラーム党であった。1979年に設立されたこの党の中心となったのは、党首となったサウジアラビア在住のムハンマド・サーレフ・ムスタファ(Muhammad Saleh Mustafa)や、トルコ東部のヴァン県出身でその後シリアに渡り、シリアのムスリム同胞団のクルド人支部の設立者の一人となったサイド・ハヴァ(Said Havva)であった。しかし、クルディスタン・イスラーム党は党運営をめぐる内部対立で機能不全に陥った。

クルディスタン・イスラーム党に次いで台頭したクルド系イスラーム組織がトルコ・ヒズブッラーである。トルコ・ヒズブッラーは、レバノンのヒズブッラーと異なり、スンナ派の過激派組織である。1980年代にヒュセイン・ヴェリオール(Hüseyin Velioğlu)を中心に立ち上げられ、当初は書店などで関係者間の会合を重ねていたが、1988年からテロ行為を行うようになった。

長年(1984年~2016年11月現在)トルコ政府と抗争を繰り広げている世俗的なPKKとは、クルド人中心の非合法武装組織という共通点がありながら、クルド人の中心都市であるディヤルバクルをめぐって争うなど、その抗争は熾烈を極め、双方合わせて約700人が死亡したとされる。また、トルコ・ヒズブッラーは、発足当初、ライバル関係にある他のクルド系イスラーム組織のメンバーを拉致し、拷問を加えるなど、残忍な手口を使ってその殲滅を目指し、トルコにおける唯一のクルド系イスラーム組織となることを目指した。

しかし、2000年1月17日にイスタンブルのトルコ・ヒズブッラーのアジトに警察が踏み込み、ヴェリオールを殺害、2名の幹部が逮捕された。その一年後、トルコ・ヒズブッラーはヴェリオール殺害の報復として、ディヤルバクル県警の責任者とそのボディーガード5人を殺害した。この犯行を受け、ディヤルバクル県警はその実行犯たち、さらに多くのトルコ・ヒズブッラーの幹部を逮捕した。この一連の事件により、トルコ・ヒズブッラーはその影響力を低下させていった。

武装闘争が先細る一方で、2000年代半ばに開かれたトルコ・ヒズブッラーの会合には少なくとも5万人の参加者が集まった。ビンギョル県、バトマン県、ビトリス県、ディヤルバクル県など、限られた一部の地域でトルコ・ヒズブッラーは民衆から支持を得ていたのだ。武力闘争を牽引してきた幹部たちの多くが逮捕されたことにより、2000年代を通して、トルコ・ヒズブッラーは武装闘争から政治運動へとその力点を移していった。そして設立されたのがヒズブッラーという語と同じく、「神の党」を意味するフューダ・パルである。

トルコ・ヒズブッラーからフューダ・パルへ

フューダ・パルは2012年12月7日に設立された、トルコにおいてはかなり新しい政党である。設立時のメンバーは45人で、メフメット・ヒュセイン・ユルマズ(Mehmet Hüseyin Yılmaz)が党首となった。2016年11月現在、やはり設立時からのメンバーであるゼケリヤ・ヤプジュオール(Zekeriya Yapcıoğlu)が党首を務めている。

フューダ・パルは設立後に行われた2014年の地方選挙には党として、2015年の6月の総選挙では独立候補として参加した。しかし、6月の選挙で単独与党が出ず、連立交渉も決裂したことから同年11月に再度実施された総選挙には参加しなかった。2014年の地方選挙では、大差があるものの、ディヤルバクル県、バトマン県、ビトリス県でHDP、AKPに次いで3番目の得票数を得た。トルコ全体では0.19%の得票率であった。2015年6月の総選挙では独立候補で出馬した全員が落選した。

このように、フューダ・パルは選挙でまったく勝てていない。とはいえ、これまでクルド系政党といえば世俗主義の政党のことを指していた。そのため、宗教に熱心な保守的クルド人が投票する政党はクルド系政党ではなく、イスラーム系の政党であるAKP以外になかったのである。

しかし、保守的なクルド人が常にAKPの政策を支持しているわけではなかった。例えば、AKPとPKKは2013年3月から2015年7月まで、停戦し、和平交渉を進めてきた(ちなみにトルコ政府とPKKとの間の停戦はこれが6回目であった)。結局この試みは失敗に終わったが、保守的なクルド人にとって、AKPとPKKとの停戦や和平交渉は受け入れられるものではなかった。

また、2011年12月28日にイラクとトルコの国境近くのシュルナク県のウルデレ地域で、トルコ軍の誤爆によりクルドの一般市民35名が死亡した事件(ウルデレ事件)も、保守的なクルド人をAKPから遠ざけた。こうした保守的なクルド人の受け皿となるために設立されたのがフューダ・パルであった。

払しょくされないトルコ・ヒズブッラーの影

ただし、当然のことながら、保守的なクルド人の中でもフューダ・パルを嫌う人々は少なくない。なぜなら、上述したようにフューダ・パルの前身であったトルコ・ヒズブッラーが他のイスラーム系クルド組織に対して弾圧を加えてきたためであった。

トルコ・ヒズブッラーで武装闘争を展開していた戦闘員たちはフューダ・パルには加わらず、いまだに地下に潜伏しているか、イスラーム国(IS)へ加わっているとする見方が強い。トルコ・ヒズブッラーの活動の中心地の1つであったビンギョル県からISに加わる若者が多く、その中にはトルコ・ヒズブッラーのメンバーが含まれていると見られている(トルコのISに関しては、今井宏平「トルコにおいて伸張する『イスラーム国』—その起源と構成」『アジ研ワールド・トレンド』2016年8月号、2016年7月、40-47頁を参照)。

また、フューダ・パルとHDPとの抗争も、2014年10月のコバニ(アイン=アラブ)でのISとクルド勢力の衝突に際し、クルド勢力への支援に否定的なトルコ政府へのHDPの抗議活動以降、頻繁に起こっている。HDPの抗議運動にフューダ・パルの支持者たちが乱入する事件が南東部で発生したのである。フューダ・パルは、トルコ政府に同調しているわけではなく、抗議運動によってHDPに代表される世俗的なクルド人の影響力が高まることを懸念しているのである。

HDP共同党首のセラハッティン・デミルタシュ(Selhattin Demirtaş)は、2015年6月7日総選挙直前の6月5日に、HDPのディヤルバクル支部で発生し、4名が死亡、100名から400名以上の負傷者が出た爆破事件後、「この爆破事件はトルコ・ヒズブッラー(後継組織であるフューダ・パルも念頭においての発言)の仕業である」と名指しで批判している。

日本において比較的知られているPKKやHDPが世俗的なクルド人の非合法武装組織および政党であるため、トルコのクルド人について世俗的なイメージがある。しかし、本稿でみてきたようにトルコのクルド人にもイスラームに熱心な保守的な人たちは多い。フューダ・パルがこうした人々の受け皿となり得るかは、いかにトルコ・ヒズブッラーの影を払拭できるかにかかっている。しかし、現実的にそれは難しいと言わざるを得ない。そうであれば、やはり保守的なクルド人の受け皿となるのはAKPということになるだろう。

プロフィール

今井宏平現代トルコ外交・国際関係論

独立行政法人日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所研究員

2011年、中東工科大学(トルコ・アンカラ)国際関係学部博士課程修了。2013年、中央大学大学院法学研究科政治学専攻博士後期課程修了。中東工科大学Ph.D. (International Relations)。中央大学博士(政治学)。2016年4月より現職。

専門は、現代トルコ外交・国際関係論。著書として、『中東秩序をめぐる現代トルコ外交』(ミネルヴァ書房、2015年2月)がある。

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