「大正デモクラシー」はどうして戦争を止められなかったのか

社会運動、政党政治、普通選挙――民主主義的な言論や運動が活発に行われた「大正デモクラシー」。しかし、その後日本は戦争の時代へと突入してしまう。なぜ大正デモクラシーは戦争を止められなかったのか。歴史学者の成田龍一氏に話を伺った。電子マガジンα-Synodos vol.142より、一部を転載。(聞き手・構成/山本菜々子)

 

 

「大正デモクラシー」とはなにか

 

―― 今回は、「大正デモクラシーはどうして戦争を止められなかったのか」というテーマでお話を伺えればとおもいます。まずは、「大正デモクラシー」はどのようなものだったのでしょうか。

 

まず、「大正デモクラシー」という言葉についてですが、これは同時代に使用された言葉でもなければ、歴史用語として定着しているわけではありません。論者によって「大正デモクラシー」といったときの時期や内容や評価が様々です。「大正」という元号と、「デモクラシー」というカタカナとが結びつけられた造語で、1950年代ころに登場しています。定着していない、といったとき、例えば、高等学校の教科書では、「大正デモクラシー」を重要なテーマの一つとして扱い、章のタイトルとして用いるものから、かんたんに註でしか触れていないものとがあるのです。「大正デモクラシー」が本当に「デモクラシー」だったのかと、根底的な疑問を投げかける人もいます。ことは、きょうの主題となっている、「大正デモクラシー」のあとに戦争の時代がやってきてしまったことの評価にかかわってきています。

 

一般的には、1905年(明治38年)~1931年(昭和6年)までを「大正デモクラシー」として把握し、政党政治が実現し、社会運動が活発であった時期として捉えられています。ここでも「大正デモクラシー」は、このように必ずしも、大正時代にすっぽりと収まる出来事として把握されているわけではありません。

 

また、大正デモクラシーは、1918年の米騒動を境に前半と後半に分かれます。それぞれで内容と担い手が変わってきます。

 

 

―― 前半はどのような人びとが担い手だったのでしょうか。

 

前半には大きくわけて二つの担い手がありました。一つは政党です。1900年代以降、すなわち明治の終わりから大正にかけて、政党が大きな力を持つようになりました。それまでは、明治維新を行ったとする旧薩摩藩と旧長州藩の出身者を中心とする藩閥内閣でしたが、民意を代表するものとしての政党に期待を寄せる動きがでてきました。そして、実際に政党が藩閥内閣を批判する運動を展開していくのですね。「閥族打破、憲政擁護」をスローガンとした第一次護憲運動は、政友会や国民党によって担われ、桂太郎内閣を倒す大正政変へと至りました。

 

より重要な、もう一つの動きは社会運動となって現われます。社会運動の担い手は二つの層に分かれます。一つは、「都市雑業層」と呼ばれる日雇いや人足・職人といった、都市における下層の人びとです。彼らは日露戦争後、暴動を起こします。1905年の「日比谷焼打ち事件」が「大正デモクラシー」の発端と言われていますが、この運動は、日露戦争後のポーツマス条約に賠償金が盛り込まれなかったことに対する不満から起された暴動でした。この時期は、東京のみならず、横浜、神戸、大阪など各地の大都市で、彼ら「都市雑業層」による暴動が起こりました。

 

もう一つの社会運動の担い手は「中間層」です。より厳密にいえば、旧中間層と呼ばれる「旦那層」で、家作を持ち、それを商売の元手にしている商家、あるいは中小の工場を経営し、「都市雑業層」を雇う立場の人びとです。彼ら「旧中間層」-「旦那層」も社会運動を起こしました。彼らはとくに地代や電気料金の値上げに対し、反対運動をしました。しばしば地域の名望家たちで、彼らが社会運動を起こしたため、「大正デモクラシー」は大きな潮流となったのですね。

 

社会運動の二つの担い手――その両者をつないでいたのが、新聞記者と弁護士でした。新聞記者は「都市雑業層」の暴動や「旦那衆」の運動の様子を記事にしたり、ときには自ら参加するなどして、社会運動を盛り上げていきました。また、弁護士は、逮捕され起訴された「都市雑業層」の弁護にあたりました。

 

 

―― 「旦那衆」が商売に不可欠な、地代や電気料金に対して運動をする理由は分かります。しかし、なぜ「都市雑業層」は、ポーツマス条約に対して暴動を起こしたのでしょうか。電気代や地代に比べ、生活の必要性からは遠いような気がするんですが。

 

むしろ、「都市雑業層」の方が切実な理由があって暴動を起こしたといえます。彼らは、都市のなかで単身で暮らしていて、「旦那衆」に雇われているような人たちですが、農民とともに、日露戦争のときにもっとも痛めつけられた階層といっていいでしょう。経済的な痛手が大きいのです。日露戦争の戦費の調達のため大増税がおこなわれますが、所得税ではなく間接税が上がりました。たばこや酒、砂糖といった、「都市雑業層」にとって仕事が終わった後の息抜きに不可欠なものに、税金がドーンとかかっていきました。彼らには、自分たちが戦費を負担している気持ちがあったわけです。日露戦争が終わって賠償金を取れば、自分たちの生活に還元されると思っていました。

 

ところが、ポーツマス会議では賠償金が取れませんでした。日本はかたちのうえでは「勝利」しましたが、実際には引き分けに近いギリギリの戦いだったので、ロシアに対し強い要求が出せなかったのです。「都市雑業層」からしたら、それは期待していたものが裏切られたということになります。「俺たちは弱腰の政府のもとで苦労していたのだ」という不満が残ります。さらに、彼らは選挙権を持っていないので、自分たちの意志表示をするためには、集会か運動しかありませんでした。そのようななか、日比谷公園で講和反対の集会が政府によって事前に禁止されてしまった。そこで、彼らの不満が爆発し暴動になってしまいました。

 

 

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―― 訴える手段がないからこそ、暴動に走ってしまったのですね。当時の選挙というのは、どのようなものなのでしょうか。

 

1890年に、第一回の衆議院議員選挙が行われます。当時、選挙権を持っていたのは、直接国税を15円以上収める25歳以上の男性でした。全人口の1%くらいしか投票出来なかったのですね。現在の有権者率が80%ほどですから、当時の選挙権がいかに限られていたものか分かると思います。直接国税というのは地租が多くを占めていたので、有権者といったとき、基本的には地主が多かったのです。

 

 

 

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