2015.04.02
辺野古移設を強行すれば日本への怒りが広がる──大田昌秀インタビュー
はじめに
沖縄の状況が緊迫している。普天間基地の県外移設を訴えて再選を果たした仲井真弘多県知事(当時)が、一転して国による辺野古の公有水面埋立を承認したのが、2013年12月。その後、2014年1月には地元名護の市長選で普天間基地の辺野古移設に反対する稲嶺進氏が再選。そして、その年の11月、移設反対を唱える翁長雄志氏が、3選を狙う現職の仲井真氏を大差で破り、県知事となった。
2014年沖縄県知事選は、「国 vs オール沖縄」の闘いだと言われた。もともと沖縄の保守本流に属し、自民党沖縄県連の幹事長まで務めた翁長雄志氏が、沖縄の革新勢力から推されて移設反対を主張した。保守から革新まで幅広い支持を取り付けた翁長氏が、「イデオロギーよりアイデンティティ」「オール沖縄」をスローガンとし、多くの県民の票を得た。
これに対し、現職の仲井真氏も、国との太いパイプをかかげ、県内41市町村のうちの31の首長が、そして主要経済団体12団体のうち、7団体が支持したのである。平和か補助金か。日本本土ではめったに見られない、争点の明確な選挙だった。
結果としては翁長氏が当選し、「オール沖縄」の勝利だと言われたが、新知事の進む道はきわめて険しい。
当選後しばらくアクションを控えていた翁長氏だが、2015年3月23日に辺野古沖のボーリング調査停止を指示。これに対し国は即座に反撃、次の日の午前中には防衛省が林芳正農相に対して、執行停止申立書(知事による停止指示の一時停止、つまり作業続行)および不服審査請求書(知事の停止指示そのものの無効を訴える)を提出した。
そして3月30日には、林芳正農相が、翁長知事による沖縄防衛局への海底作業の停止指示の効力を一時的に停止。不服審査請求の結果がいつ出されるかはまったくわからない。そして作業はいまも継続している。辺野古の海では、海上保安庁の船と市民のボートやカヌーがぶつかりあい、けが人や逮捕者が続出している。
そんななかで、さる3月11日に、元沖縄県知事の大田昌秀氏に、この間の沖縄の状況についてお話を伺った。
大田昌秀氏は1925年生まれ。沖縄師範学校に在学中に鉄血勤皇隊に招集され、戦闘を体験。早稲田大学からシラキュース大学の大学院に進学し、帰国後は社会学者として、琉球大学の教授を勤め、膨大な著作を刊行。その後、沖縄県知事を2期勤めた。
知事在職中の1995年に、アメリカ海兵隊員による「少女暴行事件」が発生。その直後、軍用地の代理署名を拒否したことで、大きな注目を浴びた。そして1996年に当時の橋本首相とモンデール駐日大使のあいだで普天間基地の返還が合意されたが、それは返還というよりも、辺野古への移設・強化だった。辺野古では強固な反対運動が起こり、現在でも移設は実現されていない。
この間、沖縄県知事として渦中にあり、そしてその後もずっと沖縄から世界に平和を発信し続けてきた大田昌秀氏。彼は今回の知事選やいまの沖縄の状況を、どのように見ているだろうか。
以下は、2015年3月11日におこなったインタビューの記録である。インタビュー当日は、翁長県知事がアクションを起こす前だったので、知事を「まだ何もしていない」と批判しているが、大田氏はそもそも国を相手取った法的闘争はきわめて困難な闘いになるだろうと予測している。そして、むしろ県知事はアメリカと直接交渉すべきだと主張する。
文中で大田氏は翁長知事を厳しく批判するが、これはむしろ彼なりの知事へのエールだと理解するべきであろう。
知事選の結果と辺野古移設阻止の戦略からはじまり、普天間返還が発表された96年当時の状況、そして終わりには「沖縄アイデンティティ」と「沖縄独立論」にまで話が及んだ。まさに「生きる沖縄戦後史」である大田昌秀氏からみても、現在の沖縄の状況は、きわめて厳しいものであるようだ。
以下、その語り口を最大限に生かし、語られた言葉をほぼそのまま記録する。そのために語りの編集は最小限に留めたが、読者の理解のために、わかりにくいと思われる箇所には注を付けた。
知事選について
──2013年のはじめ、ちょうどオスプレイ配備(2012年10月)が問題になっていたときですが、大田昌秀さんとお会いしたときに、非常に印象的なことを語っておられましたね。今年は沖縄にとって大変な一年になると。最悪の一年になるかもしれない、とおっしゃいました。その言葉がとても印象的でした。
そしてその通り、その年のおわり(2013年12月28日)に、辺野古の公有水面の埋め立てを当時の仲井真知事が承認してしまいました。沖縄県知事として新しい基地の建設を認可したのは、初めてのことだったのではないでしょうか。
そのあとの2014年も激動の一年でした。まず名護市長選(1月19日)で稲嶺進さんが再選を果たしましたが、沖縄市長選(4月27日)では保守派新人の桑江さんが当選しました。そして11月の知事選では、現職の仲井真さんに大差を付けて翁長さんが勝利しました。2013年のはじめに大田さんが「激動の年になる」と言われた通りの、この2年間でした。
まず、この知事選についてお伺いします。この結果についてどうお考えですか。
革新系が、那覇市長をしていた翁長さんを推したということは、革新の力が急激に衰えているということです。翁長というのはもともと自民党の幹事長をしたり、県会議員のときには、いちばんの基地容認論者だったわけです。それを革新系が推すということは、僕たちからすると考えられない。革新がいかにもだらしない。自派の候補者も出し切れない。自民党の幹事長をしていたひとを推すとはね。
しかも県議のときに、僕への攻撃を一番していた人物だったわけ(笑)。まあ、それはどうでもいいけど(笑)、ただ、革新4党がおこなっていることは、僕は革新が弱くなったということだと考えている。もし翁長が、革新が期待するようなことができなければ、誰がいったい責任を取るのだろうか。
いまいちばんの喫緊の課題は、辺野古の問題の解決だ。それで懸念していたら、案の定、もう当選してから3カ月ぐらいになりますが、まだアメリカにも一度も行ってない[※1]。
[※1]翁長県知事は、2015年4月以降に訪米する予定になっている。
そして、アメリカ総領事館にいた職員が、県のアメリカ駐在員として送り込まれることになった[※2]。それもおかしな話で、駐在員は、知事でも県の部長クラスでもない。アメリカは駐在員のレベルのひとしか会ってくれないだろう。国防長官とか国務長官とかは絶対会わないはずです。だからこそ知事本人が、当選したらまっさきにアメリカに行って交渉すべきなのに、それをやっていない。
[※2]「沖縄県の駐在員に平安山氏 米側 歓迎と戸惑い」2015年1月9日
──自民党県連の幹事長や仲井真前知事の選対本部長までやった、保守本流であった翁長さんを、革新が推して「オール沖縄」という形を作ったのは、その前の建白書[※3]と東京行動が大きかったのでしょうか。
[※3]「『建白書』から2年 沖縄の『民意』政府まで遠く」2015年1月28日
彼は那覇市長で、県下の市町村長会の会長だったから、そういう意味で建白書の中心人物と見られているけどね、必ずしも彼自身が積極的に建白書のために動いたわけではない。
それよりもむしろ、中城とか嘉手納、それから北谷、沖縄市とかの基地を抱えている中部地域の市長たち、それから名護の稲嶺市長が、このままじゃいかんということですすめたことだ。その市長たちは連絡会議を持っていて、基地に反対する会議を絶えずやってきたわけですよ。翁長さんは市町村会の会長をしていたから、彼が中心になったみたいに思われてるけどね。
──だとすると、最初に翁長さんを候補にという話は、どこから出てきたのでしょうか。
だから、革新4党も労働組合も、資金もなくて、力が極端に衰えているわけです。今は。そうすると、勝ち馬に乗ったら資金もろくに出さないでいいということになる。
それと、うまいこと「イデオロギーよりアイデンティティ」という言い方をして、これがヒットしたわけですよね。そういうことがうまくいった。しかし、沖縄のアイデンティティというが、アイデンティティという言葉の意味をわかっているのか……。
──オール沖縄の話ですが、仲井真さんは31市町村長と同時に、経済界のほとんども後援しましたね。あれは知事時代からのつながりでしょうか。
それもあるしね、結局お金が欲しいわけですよ。
──今回得票率が、北部と離島で仲井真が翁長を上回ってましたね。これはやっぱり公共事業に頼っている地域なんでしょうか。
そうそう。要するに、国から金もらうのが仲井真だからね、特に離島の市町村長たちが、仲井真についてきたわけです。
──それでは、今回の翁長さんは「オール沖縄」ではなかったと。
オール沖縄って、口では言ってもね。できっこないというのが僕の判断だったわけです。つまりね、離島の市町村長とかね、そういうところはもう、金が欲しい。一括交付金というのがあるからね。これは自由に使える金だから、これが欲しくて、現職を推すわけです。
(写真:大田氏)
知事はアメリカと直接交渉すべき
──知事はどうするべきなのでしょうか。
知事になってもう3カ月も経つのに、まだアメリカにも行ってない。さっき話したように、こともあろうにアメリカ総領事館にいたひとをね、アメリカに送った。アメリカの総領事館は当然、基地賛成ですよ。(だから駐在員も)容認しようということばかりやってきた。
そういう人をアメリカに連れてって、立場を変えさせて、反対と言わせる。アメリカ人から見ると人間的に不信をかうわけですよ。こんなのがどうして役立つかと。
──具体的なことを言うと、翁長さんには打つ手はあるんでしょうか、辺野古に関して。実際に辺野古を止める手だては。たとえば、ひとつあるのは、埋立許可を取り消すことですよね。でもそうすると、普通に考えたら、国から行政訴訟をされますよね。それはひとつの手段になりますか、埋立の取り消しは。
結局ね、いまの憲法は、国と地方自治体は平等だということを言っているけど、ところが日本は中央集権がずいぶん長く続いたものだから、日本の政府自体はね、決してそんなふうには思っていないわけです。だから、機関委任事務といってね、県庁の仕事の大半は、国の仕事なんですよ、本来は。
そういう問題もあってね、だから仲井真なんかは、国の官僚だったものだから、そのまま国の言いなりになるしかないという発想。それでカネを余計もらったほうがいいという発想になったわけなんでね。
──国からの行政訴訟を恐れずに、たとえば辺野古の埋立の申請取り消しをするべきだとお考えですか?
これは国の事業だからね、もし県が反対すると国から訴えられる。そうすると負ける。僕も最高裁で負けちゃったでしょ[※4]。あの、いまの日本の司法というのはね、僕らからすると独立していない。政府の行政機関のね、いわば下部組織みたいな。
[※4]「最高裁、県の上告を棄却 代理署名訴訟」1996年8月28日
──仲井真前知事が埋立申請を許可してしまった以上は、沖縄県知事のレベルで止めることは難しいですか?
ほとんど不可能。もし知事が受け入れないとしたら、国から訴えられるわけです。
──難しいですね。じゃあ例えば、誰が知事になったとしても、やっぱり辺野古は止められないということですか。
いや、それはだからアメリカに行って、交渉によって、アメリカがもう沖縄に基地は要らないからどっかに移せって言えば、問題は簡単なんですが。
──じゃあ、ひとつの選択肢として、アメリカに行って直接交渉するのも、可能性としてはあると。沖縄県知事が。
いちばん大事なことはね、アメリカの上院に行って、沖縄の基地問題を議題とさせることです。
アメリカには基地閉鎖統合委員会という組織があります。そして、アメリカ国内の大きな基地を、400くらい減らしているわけです。そしていま、小さな基地もね、あと200くらい減らそうとしている。
その委員長がね、ジム・クーターといってね、有名な弁護士だったんです。僕はアメリカに毎年7年間(知事時代に)通い続けたときにね、彼に毎年会っていた。
そしたら、彼も沖縄にやってきて、基地を見たんです。ところが、(知事時代の)いちばん最後の年になって会ったときに、同席していた秘書に、席を外しなさいと言って二人だけで話した。それで、知事が当事者としてアメリカに来て訴えるのはね、まともな話で、大変大事なことだけど、残念ながら自分の目で見たら、あんまり効果はないと。
どうしてかというと、アメリカ国内の基地は、閉じようがどうしようが、自分が権限を持っている。ところが国外の基地は、上院の軍事委員会が権限を持っていると。だから上院の軍事委員会にロビイストを投入して、議題にさせて、そこで議論させない限り解決つかないと。それをね、もっと前のときに言ってくれたら良かったんだけどね、最後の年になって言われても、時間切れでできなかったんです(笑)。
だからね、もっと前にそういうことを聞いていたら、全国に呼びかけてお金を集めてロビイストを雇って、それもできたんだけどね。
──アメリカと直接交渉せよ、というわけですね。僕たちの普通の感覚でいうと、日本政府が動かないのに、ましてアメリカ政府が動くわけがないと思い込んじゃうんですよね。
いやいや、いちど、太平洋軍の副司令官のスミスというひとに会ったんだけど、日本政府が要求さえすれば、いつでも在日米軍は撤退すると、はっきりと言っていたわけです。ただ、いまの日本政府は動くことをしないからね。アメリカの上院の軍事委員会で議題にさせるような、そういう交渉をしたらね、効果的なことができるわけですが。 【次ページに続く】
普天間返還とグアム移転
──1995年の少女暴行事件と県民大会から、橋本首相が普天間の返還を発表しましたよね。でもそのあと、それがすぐに辺野古への移設、というより、より大規模な基地の新設になってしまった。
その普天間問題はね、実は裏があって。ぼくは知事になってまっさきに公文書館を作ったわけですよ。その前も20年間アメリカに通い続けて、資料集めてきたわけです。
最初、日本政府は辺野古と言わないで、沖縄本島の東海岸ってごまかしていた。ところがそれが突然辺野古となったから、どうして辺野古かというのは、ぼくらには疑問だった。
橋本首相のときにモンデール駐日大使と話し合って辺野古と決めたと思っていた。ところが、こういうことだったんです。
1953年から58年までは、島ぐるみの土地闘争といって、米軍が農民の土地を取り上げて基地にしたのに対して、大きな大衆的抵抗運動が起こった。そして、1965年の段階で、沖縄を日本に返す話が始まったら、米軍は心配したわけです。
つまり、米軍がいちばん重要視している基地は、みんな嘉手納以南の、那覇市に近いところに集中している。普天間とか、浦添のキャンプキンザー。巨大な倉庫です。それから司令部が瑞慶覧という、嘉手納の手前にある。その運用ができなくなる恐れがあると。日本に復帰して日本国憲法が適用されると、沖縄住民の権利意識がますます強まってね。だから嘉手納以南の重要な基地をひとまとめにして、どっかに移そうという計画を立てた。
それで、アメリカのゼネコンを呼んで、西表島から北部の今帰仁港までぜんぶ調査させた。その結果、大浦湾の辺野古がいちばんいいと。どうしてかというと、那覇軍港は水深が浅くて、航空母艦を入れられない。辺野古は水深が30mある。普天間飛行場の滑走路を作るだけじゃなくて、海軍の巨大な桟橋をつくって、航空母艦も入れるようにしようと。それから反対側の陸地には核兵器を収納できる陸軍の巨大な弾薬庫を作るという計画を立てていたんです。
ところがベトナム戦争のさなかだから、金がないわけ。当時は、安保条約も沖縄に適用されていないから、移設費も建設費も維持費も、米軍の自己負担なんですよ。そこで、日本政府と密約を結んで、沖縄が日本に復帰して憲法が適用されても、基地は自由に使用できる、核兵器はいつでも持ち込めると密約を結んで、それが合意されたものだから、安心して放ったらかしにしていた。
これが今では、移設も建設も維持費も、思いやり予算もすべて日本の税金で負担するわけです。こんないい話はないわけ、アメリカにとっては。それがわかったものだから、ぼくらは絶対作らせるべきじゃないと。
それから少女暴行事件が起きた。そのとき8万5000人の県民が集まって抵抗運動したものだから、日米があわてて沖縄の怒りを鎮めようと、SACO、沖縄に関する特別行動委員会というものをつくって、いくらか基地を返す話をはじめたわけです。
ところが、結局は実らなかったけど、そのときにぼくらは基地返還アクションプログラムというのを作って、日米両政府に正式な政策にしてくれと提出したわけです。2015年までに基地を全部返してほしいということでね。
そしたら、そのあとの経済の問題は、国際都市を作って、それで、日本にだけ目を向けるんじゃなくて、王国時代と同じように東南アジアと交流すれば充分にやっていけると。
ただ、新たに基地を引き受けてっていうことに関しては、ぼくは戦争体験してるからね、これだけは絶対にダメだと。なぜかというと、次に戦争が起きたら、真っ先に嘉手納がやられるというのは、もう軍事評論家が一致している意見なんですよ。沖縄が真っ先にやられると。
アメリカの下院の軍事委員会の、ポール・マクヘイルという議員を連れてきて、基地を見せたら、全部撤退するべきだと言ったんです。
どうしてかというと、米兵はみんな、10代の若者たちばかりだと。そして、陸・海・空・海兵隊の4軍が、沖縄の小さな島にいると。つぎ戦争が始まったら、この小さな島で、将来のアメリカを背負って立つ若者が、たくさん死ぬ恐れがあるから、ぜんぶ撤退するべきだと言ったんです。
──かっこうの攻撃目標になってしまっているんですね。
そうそう、そうそう。そして、グアムに移す話が、2006年に始まったわけです。再編実施に関するロードマップというのが。
ぼくは知事時代にペンタゴンに毎年通っていました。そしたら、ペンタゴンの連中が同情してね、毎年通っているもんだから(笑)。それで、10階から玄関までぼくを見送ってくれて、そのときにね、ぼくに耳打ちして、知事はグアムに寄ったほうがいいよと。
グアムに、アンダーセンという空軍基地があって、B52の基地だったけど、がら空きになってる。それからアプラ湾という湾があって、米軍の海軍の基地があったけど、これもいまはなくなってる。だからグアムは経済的に苦しんで、基地を欲しがってると。グアムに行ったら沖縄の基地を引き受けてくれるはずだと言う。
グアムから国会議員が出てるわけ。ロバート・アンダーウッドというひとが。彼の事務所に行ったら、じゃあ一緒にグアムに寄ろうと言って、ワシントンから帰るときに一緒に飛行機に乗って、グアムに寄った。そこで知事と議会の議長と商工会議所の会頭の有力者3名に会ったらね、大歓迎すると。沖縄の基地を。
そのあと、ぼくはアンダーウッドを沖縄に連れてきて、基地を見せた。嘉手納や普天間を。そうしたら彼がグアムに帰ってから連絡があって、インフラの整備が必要だから、一度に全部引き受けるわけにはいかないけど、まず最初に3500人だけ引き受けようと言ったわけです。
とても喜んだわけ。なぜかというと、普天間はね、全部合わせても2500人しかいないからです。だからあと1000人はどこから移そうかなと思っていた。
そしたら、グアムが3500人引き受けてくれるって出したとたんにね、日本政府からちょっかいが入ってね……。向こうははっきり日本政府って言わなかったけど、それを匂わせていた。それで、しばらくは数字を出すのは抑えておこうと言ってね。いいですよ、みなさんに迷惑を一切かけたくないからとこちらも言って。
そうしたら2006年になって、沖縄の海兵隊8000人と家族9000人をグアムに移すと。その費用は103億ドルかかると。そのなかの60億ドルは日本側がもつと。
ぼくは参院議員のときに、参議院の安全保障問題、外交防衛委員会に入っていた。そしたら本土の、同じ外交防衛の議員が、ぼくに向かって、なんで俺たちの税金を沖縄のために7千億あまりも出さんといかんのかって言うから、ぼくは頭にきてね、俺たちは一銭もカネ要らんからキミのところに基地を持っていきなさいと言ったことがある。
いまジョン・マケインという、大統領候補になった男が、上院の軍事委員会の会長になっています、今回。さっきも言ったように、国外のアメリカの基地は、上院の軍事委員会
が権限を握っている。
マケインとその軍事委員会の有力議員が、103億ドルではとうてい、沖縄の8000人と家族9000人をグアムに移せないと。あと85億ドルぐらいかかるって言って、予算を凍結してしまったわけです。しかもそれを、3か年間予算を凍結してしまって、それで今日に至っているわけです。それでやっと今年になってね、予算を解除するかもしれないという話が出てきている。
そうしたら、ハワイの太平洋指令部はね、ちょうど2006年ごろに、グアム統合軍事開発計画というのを作って、グアムに巨大な基地を作ろうとした。どうしてかというと、中国の軍事力が強化されてきて、ミサイルの射程内に沖縄が入っていると。グアムは射程外だから、そこに移したほうが安全だといって、それでグアムに移す話が出てきた。
ところが、予算が凍結されてそれができなくなってしまった。今回、予算を凍結したマケインが委員長になってるわけですよ。そうすると、ますます解決は難しくなっているように思うのです。
ただ、いまの状況からするとね、8000人を移すのを、4700人に減らして、オーストラリアのダーウィンという基地と、ハワイと、グアムの三カ所に分散して移そうという計画になっている。これがその計画通りにいくと、だいぶ沖縄の基地が減っていくけどね。ただ日本側が、予算をどれくらい出せるかにかかっている。
(写真:辺野古地区 むかって右から、大浦湾、辺野古崎のキャンプ・シュワブ。沖合で工事がはじまっている。)
「属国」
──そうやって海兵隊が数千人減っても、まだ辺野古は必要なんですか? 辺野古は軍港としては必要なんですね?
辺野古の問題はね……。日本政府とアメリカ政府のSACOの、最終報告と中間報告があるわけですよ。その報告書を読むと、両政府がつくった報告書の中身が違うわけです。
日本政府はね、辺野古に作る基地は、普天間の5分の1に縮小して作ると。いまの普天間の滑走路は2400から2800mくらいあるけど、それを1500mにすると。建設期間は5年から7年、建設費は5000億以内といってるわけです。そして実際に図面には1500mの滑走路の図面を書いていた。
ところが、アメリカ政府は、建設期間は少なくとも10年かかると。MV22オスプレイを24機配備するから、これを安全に運行できるようにするためには、2か年の演習期間が必要だと。従って、建設期間は12年はみないといけない。それから、建設費用は1兆円かかる。1兆5000億と書いてるひともいるけどね、1兆円はかかると。
そして、運用年数40年、耐用年数200年になる基地をつくるとはっきり書いてあるわけですよ。国防総省の最終報告書に。だから、耐用年数200年になる基地をつくられたらとんでもないってね、それで僕らは反対したわけです。
橋本首相から、県は2001年に10カ所の基地を返してくれって言っているが最優先に返してほしい基地はどこかと聞かれたものだから、それは普天間ですと言った。普天間には周辺に16の学校があって、市役所や病院がすぐ隣りにあると。
それから、クリアゾーンといってね、滑走路の延長線上には、建物をつくっちゃいけないし、人が住んじゃいけないことになってる。ところがそこに、普天間第2小学校ができていて、3000人もの人が住んでいるわけですよ、クリアゾーンに。
だからいちばん危険だから、まっさきに普天間を返してくれって言ったら、モンデール大使と橋本総理が話し合って普天間を返すことを発表したわけです。それで、10カ所返してくれっていうのを、普天間を付け加えて11返してもらうことに決定したわけです。ぼくたちはとても喜んだわけです。
ところが、ずっと後になって、1年くらいあとになってね、そのうちの7つは県内に移設するというわけです。そうすると、県内に移設すると、新たにコンクリートで作るからね、耐用年数が尽きるまで米軍が勝手に使えるわけですよ。だからぼくはそれは絶対できませんっていってね。
普天間とか嘉手納では、兵舎をプレハブで作っていた。それが老朽化していまコンクリートに作り替えている。県内移設というと、みんな最初からコンクリートで頑丈に作るからね、そんなことしたら、沖縄はいつまでも基地と共生しなければいけない。これはとうていできませんと言って拒否したわけです。それが今日まで尾を引いているわけです。
もうひとつ言っておきたいのは、トーマス・キングといって、普天間の副司令官がいる。これは辺野古に基地を移す委員会のメンバーでもあるけど、彼がNHKのインタビューに答えて、普天間に作る基地は、普天間の代わりの基地じゃなくて、20%軍事力を強化した基地を作ると言っている。
その強化の中身は何かというと、いまヘリ部隊がアフガン戦争とかイラク戦争行くときに、爆弾を普天間で積めない。いったん嘉手納に行ってから積んでる。非常に不便だからね、辺野古に基地をつくったら、陸からも海からも自由に爆弾を積める施設をつくると。それからMV22オスプレイを24機配備する。
日本政府は最近までね、オスプレイ配備するなんて一切言わなかったわけです。ところが、何十年も前にオスプレイ24機配備するって、もう決まっていたわけです。そうすると、いまの普天間の年間維持費は280万ドルだけども、辺野古に移したら一挙に跳ね上がって、年間2億ドルかかると。これを日本の税金で持ってもらおうと言ってるわけです。
ついこないだ世論調査やったらね、沖縄の83%が辺野古に基地を移すの反対してるわけです。ところが本土は過半数のね、56%が賛成してるわけです。辺野古に基地ができたら、本土の納税者の頭の上にどれだけの財政負担が覆い被さってくるか知らないから賛成してるんでしょう。そんな金があるんだったら、福島の復興を一日でもはやくやるべきですよ。
そのへんの裏側を知らないもんだからね……新聞記者に話しても、載せられないわけです。いろんな新聞記者が来るけどね、東京のデスクで抑えられてしまうわけです。
──これも素朴な疑問なんですが、アメリカとしては日本のおかげで基地を作ってもらえたらそれでいいわけですよね。でも、辺野古に基地を作りたがっているのは、アメリカというよりもむしろ日本の側のようにも見えるのですが。なぜ日本政府がそんなに?
アメリカのほうはね、繰り返し辺野古に移すのがいいといって、しょっちゅう言っているのはね、いま言ったように、移設費から建設費までみんな日本側が持つわけだから、こんなありがたい話はないわけです。
日本政府はアメリカべったりだから……。属国ですよ。オーストラリア国立大学のガバン・マコーマック名誉教授が『属国』という本を書いていますよ。
──日本政府の中核にいるグループにとっては、権力の源泉はアメリカにあるんでしょうか。
そう。そう。だからアメリカに行くと、基地問題は日本政府の内政問題だから、日本政府と交渉しなさいってよく言われるんです(笑)。
──アメリカの代理みたいなひとが日本政府の中枢にいるんですね……。
ジャパン・ハンドラーズっていってね、日本を牛耳ってる連中がいてね。カート・キャンベルなんかがずっと、ジャパンハンドラーズになってやってきたわけです。ぼくはアメリカ行くたびに彼と口論ばかりしとったわけ。キャンベルと(笑)。【次ページに続く】
沖縄の怒りと独立論
──ちょっと話が戻るんですが、知事選のときの翁長陣営の「イデオロギーよりアイデンティティ」という言葉について。イデオロギーって、まだ交渉の余地がある。でもアイデンティティって交渉できないですよね。
沖縄の政治って、いろいろ複雑なのですが、ひとつは基地に対して70年間も途切れずずっと闘ってきた歴史があります。それと同時に、ものすごく粘り強く日本と交渉してきた歴史があると思うんです。でも今回、アイデンティティという言葉を出すことによって、沖縄のひとびとは「本気だ」という感じがとても伝わってきます。でもまた同時に、このところ、日本政府もかなり強引ですよね……。海上保安庁の行動で、実際にけが人が何人か出たりしています。
こないだの山城くん(沖縄平和運動センターの山城博治議長)が引きずられている写真[※5]を見て、みんなすごく怒っているわけです。沖縄人は虫けらかという投書さえ出ている。
[※5]「平和センター議長ら逮捕 県警、刑特法違反疑い 米軍が拘束」2015年2月23日
いま沖縄でいちばん問題なのは、沖縄人が、日本人やアメリカ人と同じ人間なのに、人間扱いされなくて、絶えずモノ扱いされているということです。他人の幸せをつくるための手段もしくは政治目的取引の具に供されている。それに非常に怒っている。
──沖縄の一般市民がそういう言葉で新聞に投書するようになってきているんですね。怒りが充満していると。
そうそう。いま独立論が広がってきている。これまでの独立論というのは政治家が言っていたんだけど、いままでとぜんぜん違うのは、大学の教授たちが言っている。
たとえば「琉球民族独立総合研究学会」という学会もできているわけです。ぼくも発起人の一人に入れられたが、アメリカの大学院なんか出た若い女性たちもそれに参加している。それがシンポジウムとかで独立を唱えるようになっているわけです。日本の代議制民主主義、これが機能しなくなっているから、直接民主主義に訴えるべきだと。
──独立論の話ですけども、独立論って復帰前はわりと保守的なところから出てきたりもしてたんですが、最近また、ここ10年20年ぐらいで、独立論が盛んに言われるようになりました。たとえば川満信一さんとか、それから『沖縄独立宣言』の大山朝常さんですね、コザの市長をしていた。それから、比嘉康文さんとか、松島泰勝さんとか。その背景として、やっぱりそうした怒りがあるのでしょうか。
そう、本土の沖縄政策に対して、怒りが強まっている。
昔から、本土と沖縄の間には心理的溝があると言われている。米軍はこれを徹底的に勉強して、1943年ごろ、ニューヨークのコロンビア大学に沖縄研究チームというのを作って、イエールとかプリンストンとかハーバードの教授たちを集めて、徹底的に沖縄研究をやらせたんです。
そのときに一番問題になったのは、日本本土と沖縄の間の心理的な溝。戦争が始まったらその心理的溝を拡大する方向を取ると、米軍は簡単に沖縄を占領できるということに気づいた。対日戦後政策は、海軍省と陸軍省が一緒になって作った。ところが、沖縄の戦後政策は、海軍の戦略研究所だけで作ったんです。
20年間、アメリカの公文書館通っているうちに、沖縄関係の機密文書がいろいろ出てきました。それを見て驚いた。戦後なぜ沖縄が、平和条約を締結するときに日本から切り離されたのか、理由がわからなかった。国際政治学者たちが書いた本を読むと、日本が無条件降伏をしたから沖縄が切り離されたと書いてあるわけです。でも、沖縄が戦争を始めたわけでもないし、沖縄だけが降伏したわけでもないのに、なんで沖縄だけが切り離されるかということが、ぼくらには当事者として、ずいぶん長い間疑問だった。
それをぼくは、なんとしても明らかにしたいと、それでアメリカに通い続けて、5年めにやっとわかったわけです。米軍が沖縄に上陸したとたんに、ニミッツ布告といってね、米国海軍軍政府布告第一号です。そのなかに、日本が戦争をしかけたから、それに対応して、軍事戦略上、沖縄を占領する必要があると。それから、日本の間違った国策をつくった軍閥を徹底的に破壊するために沖縄を軍事占領する必要があると、軍事占領の目的がちゃんと書いてある。
そのときに、南西諸島およびその近海を米軍の占領下に置くと。南西諸島とはどこかというと、奄美大島の屋久島の下の線になるわけです。口之島のところ。奄美大島は鹿児島県ですよね。それがなぜ奄美も含めて切り離したかというと、ディーン・アチソンという国務長官が記者会見で、北緯30度という線は、純然たる日本民族と琉球民族の境目の線だと言ったんです。
そもそも、戦争のときにも、沖縄守備軍司令部というのが首里城の地下にあって、その沖縄守備軍司令部の防衛範囲は北緯30度から南とされた。そこから北の方は本土防衛軍と呼んで、完全に区別していたこともあった。
──かなり早い時期に、もともと違う民族で違う国だったからっていうことをアメリカも知っていて、それを利用したということですね。
一貫して、日本本土と沖縄のあいだには心理的な溝がある。これを拡大することによって、キャラウェイという高等弁務官は、離日政策、日本から切り離す政策を取ったわけです、露骨に。
それをライシャワーがね、アメリカのほうに財政負担がかかるから、日本政府から金を出させようということで、ライシャワーは日本政府に復帰させようとして、財政負担はみな日本にまかせようという計画を立てて、キャラウェイとは意見が合わなかったわけです。
──琉球政府のときに沖縄と言わずに琉球と言ったのは、日本と切り離して琉球国を思い起こさせるような言葉を意図的に使ったんだと言われています。いまでも沖縄の人びとのあいだには、その感覚が続いているんですね。
そう、琉球という言葉はね、昔のひとたちというのは、使いたがらなかった。ところが戦後になって、琉球銀行ができて、それから製糖会社も琉球製糖とか、みんな沖縄と対比するような会社ができちゃったわけです。そんなわけで、奄美も含めて琉球という言い方をするわけなんだけどね。あんまり琉球という言葉は、昔は歓迎されなかった。ところが米軍がそれを使いはじめた。
──最後に。辺野古が大きく動き出して、沖縄の知事も、これからは難しい舵取りをせまられています。国もものすごく強硬になっていますし。1995年から20年たって考えてみると、あのときの少女暴行事件と代理署名拒否、そして県民大会というものが、沖縄に世界中の目が向いたきっかけになりました。
もちろん80年代にもいろんなことがありましたが、沖縄が世界中から注目される島になったことの原点に、ちょうど20年前のあの事件と県民大会と普天間のことがあった。そこの中心にいつも大田昌秀さんがいたと思うんです。
何といいますか、その渦中にいて、この20年、大田さんの目から見て、沖縄の歩んできた道、あるいは日本との関係というのは、どうだったんでしょうか。
さっきも言いましたが、沖縄は人間扱いされてこなかったというのが非常にはっきりしましたね。たえずモノ扱いされてきた。日本本土の何かの目的を達成するための、政治的な取引の具に供されてきた、手段に供されてきた。
復帰が決まろうとするときに、屋良知事が建議書[※6]を作ったんです。沖縄を復帰させる返還協定の中身が、沖縄の住民が期待するものとぜんぜん違っているから、これを住民が望むような形にしてほしいという建議書を持って羽田に着いたとたんに、国会はそれを見もしないで強行採決をして、返還協定を通してしまったわけです。
[※6]沖縄県公文書館のウェブサイトで、この建議書の現物のスキャン画像を見ることができる。
知事がわざわざ建議書を持っていっても、それにも見向きもしないということで、それから沖縄の日本に対する不信感は非常に強まりました。
復帰したあと世論調査が何回かあって、復帰してしばらくたったら、復帰してよかったという、建物とか港湾、道路なんかが国費で良くなったからね、復帰してよかったって言っているが、依然として心のなかでは、日本政府の沖縄政策に対して不満を持っている。年月がたてばたつほど、復帰すべきでなかったというのが強まってきている。
復帰10年、20年、30年、40年の節目ごとに意識調査の結果が出ている。それが、年月がたつほど反発が強まっているんです、復帰とは何だったのかということで。それがいまの独立論と結びついて、こんな日本には復帰すべきじゃなかったと。
その典型なのが、大山朝常です。あのひとは社大党を作ったひとなんですよ。社大党というのは、沖縄独自の政党。その中心人物だった大山朝常さんがね、日本は復帰すべき祖国ではなかったということを明言しています[※7]。
[※7]大山朝常、1997年、『沖縄独立宣言―ヤマトは帰るべき「祖国」ではなかった』、現代書林
あのひとは、コザ市長をしてるときに、命を狙われてね、基地賛成論者の連中から。Aサインバーというのがあって、これがオフリミッツになった。そうしたらそれを市長のせいにして、命を狙われて、一時期身を隠していたことがありました。その大山さんは、お母さんと、お兄さんと、子ども3名を沖縄戦で亡くしています。
そういう体験を述べて、沖縄というのはこういうところだとこの本のなかで例示している。アメリカ人の家庭で、沖縄人の女性がメイドとして働いているときに、そこの主人から強姦された。それが奥さんにバレたら、奥さんが怒って、メイドに命じて庭に穴を掘らせた。そしてメイドを銃で殺して、そこに埋めた。
そしてそのまま罪にもならずにアメリカに帰ってしまった。これが沖縄だと書いているわけです。そして、日本は帰るべき祖国ではなかったと明言して、独立宣言を書いた。
最近どういうことが起こっているかというと、ニューヨークタイムズの記者がふたり来て、タイムという雑誌の女性記者がふたり来て、ニュージーランドやオランダの記者が来て、ほんとに独立するんですかと、非常に関心を持たれているわけです。しょっちゅういろんな記者が来る。
今月も、こないだはロイターの記者が来て、今月もテレビ局が2局ぐらい来ることになっている。海外からも、独立論に非常に関心が持たれているんです。これがじわじわと浸透してきている。おそらく、政府が辺野古を強行したら、独立論が一挙にひろがる可能性が出てくる。それが沖縄の近い将来に起こりうるとみています。
──この20年で、日本との関係が、県民の目にもはっきりとわかってきたと。
そう。日本の沖縄政策というのが、明治のころからぜんぜん変わってない。この20年間の歩みを見ていると、沖縄の日本離れというものが、確実に進みつつあるなということがはっきりしている。
──ほんとうにそうですね。ところで、辺野古はこれからどうなるんでしょうね……。
政府は強行しようとしているね。海上保安庁が必死に抵抗運動を弾圧してるけど、それにくじけるようなひとたちじゃないですからね。強行すると独立論が一挙に燃え広がる可能性がある。
──日本の右翼も最近よく入ってきてますね。日章旗をみんなで振ってましたからね。
そうそう、そうそう。ほんとに、日本は憲法を変えようとしているからね……。そういう動きが、いたるところに出ている。これはおおごとだなと思う。
──これからは沖縄独立の方向が出てくるのでしょうか。
じわじわとそういう雰囲気が強まってきている。政府が強行すると一挙に日本離れが進むだろう。もうほんとに、みんなうんざりしていますよ、日本の政策に対してはね。沖縄を、まるでモノみたいに、都合のいいときには引き取って、都合の悪いときにはすぐ切り捨てて、捨て石にする。
新聞の投書を見ていると、最近ほんとに、ごく普通のひとたちが怒っていますからね。普通の市民たちが、沖縄人を虫けらだと思っているのかと、そういう投書をする。だから、怒りが鬱積していて、いつ爆発するかわからない。
だから何か血が流れる事件事故が起こったら、ほんとうに心配される事態になると思っているんです。コザ騒動どころじゃなくてね。コザ騒動はコザ市民だけだったけど、いまはもう至るところで怒っているからね、だから何が起こるかわからないです。
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プロフィール
岸政彦
1967年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。社会学。専門は沖縄、生活史、社会調査方法論。著書に『同化と他者化』、『断片的なるものの社会学』、『東京の生活史』、『図書室』、『リリアン』など。