2012.05.21
オランド政権の左派性とは
フランスは5月に新しい大統領を迎えた。第五共和制の第7代目の大統領となったフランソワ・オランドの名はこれまで国際的にさほど知られておらず、国内でも1年前まで大統領になるとは予想されていなかった。政治でも経済でも、「ノービス」は何時も警戒感を呼び起こす。
では、オバマ大統領がそうだったように「彗星のごとく」政界に表れたかといえば、氏はすでに最大野党・社会党の第一書記を10年以上に渡って務めてきたから、必ずしもそうではない。この「未知」と「既視感」がオランド大統領のこれからの内政・外交のパラメーターとなる。
「シノドス・ジャーナル」ではやや異質ながらも、以下では大きな波乱要因とされているオランド新政権の「これから」を占ってみよう。
堅実な改革主義者
それまで大統領府でミッテランの大統領補佐官と閣僚官房長を務めていたオランドが政界入りしたのは1988年のことである。81年にすでに下院選に立候補していたものの、当時はその後首相と大統領となるシラクに対する「当て馬」として彼の地元に送り込まれ、当選が見込まれるような状況ではなかった(オランドは2008年に同選挙区のコレーズ地方の地域県議会議長を務めることになり、引退したシラクと親密な関係を築くようになる)。
93年の社会党政権の大敗から97年まで、オランドはふたたび浪人生活に戻るが、その間を通じて彼が拠り所としたのは、それまで元蔵相・欧州委員会委員長を務めたジャック・ドロールである。社会党は、歴史的理由から日本の自民党以上に「派閥政党」だが、その中でオランドは正式に派閥領袖となることを拒否し続けたドロールの、大統領出馬を後押しする派閥を組織する人物だったのである。そうした意味では、彼のロールモデルは(大統領選の最中に喧伝されたようにこれまで左派の唯一の大統領であるミッテランではなく)、ドロールであるとみるべきだろう。
ドロールは、1985年から95年まで欧州委員会委員長を務め、現在のEUの土台を各国首脳とともに作り上げた人物だが、彼は急進主義的潮流が支配的な社会党内では穏健主義・社民主義志向、すなわち党内右派に位置づけられる人物である。それゆえ、ドロールは95年の大統領選に出馬しなかったが、その間、前パートナーで07年大統領選を戦ったロワイヤルとともに、国内で「お家」を守ったのがオランドだった。
ここからは、オランドは実質的には新欧州派であり、現在の枠組みを大きく揺らがすような改革を打ち出すことはないだろうと予測できる。そうした意味では、大統領選でも、シェンゲン協定(欧州各国で締約された人の自由移動の保障)の見直しを訴え、もしこれが受け入れらなければフランスへの適用を一時留保するとしたサルコジ大統領の方が現状変革志向だったといえるだろう。その点、オランドは、ユーロ圏とその他EU加盟6か国が批准で合意した「ユーロプラス(財政)協定」の「見直し」を明言したことは一度もなく、彼が訴えたのはこれに「成長に配慮する措置」を何らかの形で付け加えるということだけである。
1997年の先行事例
この点、オランドにはひとつの先験事例がある。それが1997年のジョスパン社会党政権時のアムステルダム条約の再交渉である。この時、下院選の公約で社会党は、アムステルダム条約にある財政均衡ルール(デフレ・構造改革路線)に加えて、成長路線を盛り込むよう訴えた。ジョスパン政権が誕生した際、各国メディアは、EUの大きな波乱要因として報道したが、実際には「安定と成長に関する決議」に加えて、数値目標がない「雇用と成長に関する決議」が採択されただけで、それまでのEUの方向やベクトルを変えるようなものとはならなかった。当時オランドは社会党第一書記として、毎週ジョスパン首相と会談していたから、事の推移ははっきりと把握していたと推測される。
一言でいえば、オランド新政権のみだけで現在の財政均衡路線を覆すことは不可能である。これには、現在進行形のように、各EU内のアクターが財政均衡路線に加えてどれだけ成長路線に配慮するかという政治連合(コアリション)にかかっている。そもそも数十か国が、多大なコストと時間をかけてすでにトランスナショナルな形で合意した交渉内容を、一国のみで覆すのはほぼ不可能である。そうした政策変更の意思が挫かれてきたのが欧州統合の歴史である。問題はギリシャのように「統治不能」な国が出て来ることであって、少なくとも政治的主体が明確である場合、政策は収斂していくことになる。
しかも、オランドの政治スタイルは前任者と異なって、融和と調整を重んじる。これはドロールと同じである。話題になった富裕者層(所得100万ユーロ以上)に対する所得税75%という政策も、実際に課税対象になるのは数千世帯に過ぎないと試算されており、左派支持者向けのアピール策といった解釈をするべきである。
同様のことは、もうひとつの大きな外交政策の変更点であるアフガン撤退についても当てはまる。確かにG8サミットの際のオバマとの会談では重要な議題となった。だが、アフガンに駐留するフランス軍は約4000人であるが、戦闘要員はその半数に過ぎない。オランドは2012年中の撤退を公約しているが、アメリカとの交渉を中心に、現地の治安部隊への移管を担う非戦闘要員を残すという方策が残されている。
なお、対アジア政策では、中国重視だった前サルコジ政権とかなり異なるアプローチが採用される可能性があることを指摘しておきたい。大統領選直前に社会党がまとめた対日政策に関する報告書では、これまでの対日関係が決して緊密なものではなかったことを指摘した上で、技術開発や核拡散防止、対アフリカ支援などで協力関係を推進していく必要があることが強調されている。こうした意見がどこまで政権の方針に反映されるかはわからないが、大統領選最中に社会党では専門家を集めた対日政策に関する会合が例外的に開かれており、オランドの首席外交補佐官は外務省のアジア専門家であること、また前政権との差異を打ち出すためにも、今までよりは日本との関係を重視することになるかもしれない。
左派性を何で刻印するか
フランスの第五共和制で、唯一の左派政権となった1981年の社会党政権以来、社会党は経済・外交政策では大きな現状変更の政策を打ち出すことはなかった。これは80年代以降、自らが進めた欧州統合の制度化による政策上の拘束要因が強くなると同時に、左派政権を維持するという歴史的な命題を抱えて均衡を重視するからである。経済政策においては、90年代に入ってもはや左派と保守との大きな差異を打ち出すことはますます難しくなってきているという、構造的要因もある。
その代わりに、歴代の社会党政権は社会政策において左派性を打ち出してきた。81年のミッテラン政権は死刑廃止やメディアの自由化、97年のジョスパン政権は男女同権(パリテ)や、同性同士の税制優遇措置を認める連帯市民契約(パックス)などである。そして、有権者の過半数はこうした社会政策に評価するようになっている。
オランドもまた安楽死の合法化やホモセクシャルの養子縁組許可、憲法での「人種」の用語削除といった、余り注目されていない、しかし社会の在り方を大きく変えるかもしれない政策をすでに言明している。オランドのもとで組閣された内閣は、憲政史上、初めて男女同数を実現し、アジア系を含む多くのマイノリティも登用された。
経済政策・外交では飽くまでも現実主義を、社会政策では革新性を――21世紀の左派性はこうした組み合わせで貫徹されるのかもしれない。
プロフィール
吉田徹
東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。