2020.07.27
「近所」というフロンティア――地元観光のすすめ
コロナ状況の下での大学の授業
2020年度は大学人にとっても想定外の年度となった。私は今学期、一回しか大学に行っていない。あとはすべて自宅でオンデマンド式の講義を行った。授業を録画してそれを配信し、視聴してもらうというやり方だ。しかしこれでは出席も取れないし、双方向のやりとりができない。そこで出席を兼ねて質問をメールで受け付けたところ、例年のコメントペーパーよりも本気度の高い質問が多く届いた。それに長文の返事をすると、再びメールが来て、何度かやりとりが交わされる。実はオンデマンド授業のほうが、対面授業よりも個々の受講生と「対話」する機会が増えている。去年までの、特に大人数の授業の場合は、対面といっても実際には「講師」と「聴衆」であり、教員と話をすることなく学期を終える学生が少なくなかった。
そんなわけで、講義については、オンデマンドでもメール等を用いれば何とかなる(ある点では授業が改善される)ことがわかってきた。問題はフィールドワークである。これはオンデマンドではどうにもならない。海外渡航は困難であり、国内の移動も憚られる。コロナ状況はフィールドワークという教育形態を打ちのめしてしまったかに見える。
問題の焦点は、フィールドワークが「遠く」に「集団で」行くものと思い描かれているところにある。しかし、「近く」に「一人で」行くフィールドワークもありうるのではないか。そしてそれならば、コロナの下でも比較的許されるはずである(もちろんマスク着用などの基本的な配慮は必要だが)。
「アメニティマップ」というツール
私の授業では「アメニティマップづくり」を課題にしている。これはもともとフィールドワークを含んでいる。アメニティマップとは、好きなところ(アメニティ)を緑、嫌いなところを赤(ディスアメニティ)、微妙なところを黄色でチェックした地図を指す。
まずは単なる好き嫌いの表明でよい(近年痛感するのは、学生にとってアメニティマップづくりは、単純に自分の好き嫌いを表明し、それが公認される稀な機会なのではないか、ということだ。アメニティマップづくりは毎年、学生に大人気なのだが、その理由の一つは、ここでは好き嫌いを言ってよい、ということにあると考えている)。とはいえそれで終わりにはせず、そこから、なぜそこが好きなのか、なぜそこが嫌いなのか、という理由の考察や、好きな場所を残すにはどうすればよいか、嫌いな場所を改善するにはどうすればよいか、という実践的な思考へと至ることがマップづくりの肝である。
基本的には集団で行うしくみだが、まずは一人ひとりが同じ範囲の地図をもってその地域を歩き、各自のアメニティマップを作成する。それを持ち寄って、情報を一枚の大きな地図に集約する。そうすると個々人の好き嫌いを超えた、その集団にとっての地域の守るべき(アメニティ)ポイント、改善すべき(ディスアメニティ)ポイントが浮かび上がる。より重要なのは、人によって評価が分かれるスポットだ。同じ場所を見ても人それぞれ評価が異なることを自覚させることも、アメニティマップづくりの目的である。
これは友人の都市工学者である齋藤伊久太郎さんが考案したしくみである(類似のしくみが散見されるが、齋藤氏はアメニティマップの作成手順を精緻に構築しており、私は基本的にそれをなぞっているので、少なくとも私の行っているバージョンの考案者は齋藤氏である)。アメニティマップは、市民参加による「まちづくり」のためのツールであるが、私の専門である環境倫理学の観点からすると、これは身近な環境を見つめ直すためのツールとして用いることができる。
アメニティマップづくりによる「近所」の発見
以上のような、参加者が同じ地域を歩いて集約するというやり方とは別に、各自が任意の地域を設定してマップをつくり、相互に発表するという形態もありうる。授業ではその形をとることが多かった。今年の授業でも、同様のやり方でアメニティマップの作成を課題にしたところ、過去に行った観光地についてのマップもあったが、「近所」についてのマップが多かった。この状況ではそうせざるをえないということもあるだろう。しかし、それらのマップはどれも魅力的なものだった。対面授業の場合は、つくったマップを各自に発表させるのだが、今回は私が受け取ったマップについて講評することにした。それがとても好評だった。さまざまな「近所」の環境に、さまざまな魅力や問題点があるということを、みんな興味を持って聴いたのである。「近所」は調査に値するのだ。
近年は地元志向が強まっているというわりに、私たちは近所の環境を全く知らずに暮らしている。慣れ親しんでいるからといって、知っているわけではないのだ。むしろ慣れている分、積極的な関心をもつことなく過ごしてしまっている。私自身、以前、アメニティマップづくりの市民参加イベントを開催したときに、いかに自分が近所のことを知らないかを思い知った。長年住んでいても行ったことのない場所がある。それは当たり前のことかもしれない。しかし、そこは実は「観光」に値する場所かもしれない。インターネットには世界中の綺麗な景色が飛び交っていて、実際に訪れる前から景色を楽しめてしまう。むしろ驚きに満ちた観光のフロンティアは「近所」にあるのではないか。
「外出」についての人間学的説明
現在、感染が終息したわけでもないのに、自粛期間が過ぎて、人々は外出を始めている。もともと人間には、自由に外を出歩くことと、家の中で安心して過ごすことの両方が必要である。そのことを人間学の観点から述べたのが、オットー・ボルノウである。彼は「人間の内的健康は、世界という外部空間のなかでの労働と、家屋という内部空間のなかでの安息というこのふたつの面のつりあいにもとづくのである」(ボルノウ『人間と空間』131頁)と述べている。
また、人間主義地理学者のイーフー・トゥアンは、自由な「空間」(space)と安全な「場所」(place)を区別し、「人間の生活とは、庇護と冒険のあいだの、また依存と自由のあいだの弁証法的な動きである。(中略)健康な人は、束縛と自由を同時に歓迎する。つまり、場所の範囲が限定されていることと、空間が開かれていることを歓迎する」(トゥアン『空間の経験』101頁)と述べている。ここでのトゥアンの「空間」と「場所」の二分法は、ボルノウの「外部空間」と「内部空間」の区別をさらに進めたものと見ることができる。
彼らの議論からは、人間にはこの二種類の環境が必要だということがあらためて分かる。言い換えれば、人は外に出てばかりでもいられないし、内にこもってばかりでもいられないということだ。そしてこの「内にこもってばかりでもいられない」ということが、感染が終息したわけでもないのに、人々が外出を始めていることの人間学的な理由である。これまでは場所(庇護と束縛)にこもりきりだった。そのために空間(自由と冒険)に出たくなった。そこに観光を推進する政策が加わったことによって、人々が観光地に殺到することとなった。
地元観光によって観光地・景勝地のオーバーユースが避けられる
コロナ感染があろうとなかろうと、観光地に人が殺到するという状況には問題がある。以前の記事(「都市に「緑地」はなぜ必要か――「市街化調整区域」を真面目に考える」https://synodos.jp/society/20444)のなかで、観光による「オーバーユース」(過剰利用)が、その地域にある自然の破壊や地域の変容をもたらしているということを指摘した。そして、都市には大小さまざまな自然があり、そのような自然の魅力を発見し、そこで楽しむことができれば、わざわざ遠くの観光地・景勝地に行かなくても済むだろうと述べた。
また、そこでは観光目的の移動が交通渋滞をもたらすことについてふれた。これまでも私はマイカーのもたらす環境負荷を話題にしてきたが、今回のコロナ状況では公共交通が通勤のために混雑する、いわゆる「満員電車」の問題に注目が集まった。そして仕事のオンライン化によって通勤の混雑が緩和できることが分かり、これまで気に留めなかった「大量の人の移動」の必要性が問われるようになった。
それなのに、観光地に人が殺到するという現象が相変わらず起こるのは、自由と冒険の空間は「遠く」にある、という感覚から逃れられないかもしれない。しかし、先に述べたように、自由と冒険の空間は「近く」にもある。マップづくりを行った大学生の反応を見ていると、近くの未知のスポットを探険するという「地元観光」は十分可能なように思えてくる。
コロナ下&コロナ終息後の行動指針
以上のことから、コロナ以前から示唆されてきたが、コロナの下であらためて認識され、コロナ終息後にも続けられるべき、私たちの行動指針が見えてきたように思われる。
まとめると、(1)「近所」は教育研究の素材になり、また観光のフロンティアでもあるという認識をもつこと、(2)「外出」することは人間にとって欠かせないことだが、「集団で遠くに移動する」ことは感染拡大の危険だけでなく当地のオーバーユースの原因にもなるので、「一人で近くを観て歩く」ことの楽しみを発見すること。これらはコロナの下での行動指針となるだろうし、コロナが終息した後でも通用するものと考える。
プロフィール
吉永明弘
法政大学人間環境学部教授。専門は環境倫理学。著書『