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小さい頃から慣れ親しんでいるにもかかわらず、めったに語り合うことのない「近くて遠い芸術」俳句。荒井裕樹さん(障害者文化論)が、さまざまな分野の表現者と語り合う連続対談企画、第7弾の対談相手は俳人の十亀わらさん。作品を介して、みんなと語り合うことのできる「孤独」とはほど遠い俳句の奥深さについて語り合っていただきました。(構成/金子昂)

 

 

近くて遠い俳句の世界

 

荒井 俳句って「近くて遠い芸術」ですよね。とても馴染みやすい表現方法でありながら、妙に敷居が高いところもある。俳句人口ってものすごく多いはずなのに、普段の生活で俳句の話をすることはめったにない。そんな「近くて遠い芸術」について知りたいと思って、今回は十亀わらさんにお声かけしました。

 

十亀さんは、俳句をなさる以前は詩を書かれていたようですね。「詩のボクシング」でもご活躍されていたとか。意識的に詩を書くようになったのはいつ頃からですか?

 

十亀 十代の頃です。人にうまく言えないもどかしい気持ちだったり、夕焼けを見ていて「消えてなくなりたいな」って感傷的になったり、そういう気持ちを書き連ねることから始まりました。昔から国語は好きで、とくに便覧を読むのが好きだったんですよ。

 

荒井 ああ、「便覧少女」だったんですね(笑)。

 

十亀 そうなんです(笑)。大きな社会の中でジャンル分けするなら、自分は便覧側の人間なんだなってぼんやりと思っていました。

 

荒井 十亀さんの詩集『燃える野』(詩学社、2000年)を読ませていただいて、これは「頁の上」でしか出会えない言葉たちだなと思いました。詩ってふつう、具体的なフレーズや視覚的な映像が頭の中に貼りついたりするんですけど、十亀さんの詩は読み終えてから諳んじようと思っても、まったく諳んじられない。読み終えて本を閉じると、確かに読んだという手ごたえは残っているのに、言葉がハラハラとほどけていく。なんとまあ、儚い詩を詠まれる人だろうと思いました。俳句に比べると、詩は何だか苦しそうです。やっぱり詩と俳句は違いますか?

 

十亀 『燃える野』は、廃刊になってしまった『詩学』という雑誌に投稿していたころのものです。20歳から25歳くらいまでのものが収められているから、というのもあるかもしれません。俳句の場合は句会という締切がありますが、詩には締切がないので、こみあげてくるものをゆっくりと熟成させることができるんです。だから痛々しくなってしまうのかもしれない。

 

あと、単純に器の形が違うので、俳句は長々とした感情を受け止めてくれないですよね。「五・七・五」では言い尽くせなかったり、そこで完結するのは寂しいときは、詩の方がいいと思います。反対に俳句は、語るべきものがぼんやりしたものでも、形式が助けてくれることがあります。

 

荒井 ああ、なるほど。形式が助けてくれる。

 

十亀 例えば荒井さんの本を読んで、「思想的抒情って魅力的だなあ」と思ったら、「思想」とか「抒情」といった言葉がフワフワ浮かんできて、そこから「五・七・五」にできないかを考えるんですね。自分の思いがまだはっきりしていなくても「五・七・五」にいれようと格闘していると、思わぬ姿になる。この感覚は俳句以外では経験したことないですね。

 

荒井 でも、ただ単に言葉を「五・七・五」に並べても、うまい俳句にはならないですよね? 「五・七・五」に並べた言葉が「俳句」になる手ごたえって、どんなときに感じるんですか?

 

十亀 そうですねえ……俳句の場合は季語がありますよね。

 

荒井 はい。伝統の中で積み上げられてきたルールがありますね。

 

十亀 ええ、例えば「夏きざす」って夏の予兆をあらわす季語を句の中にいれたら、あと12字しか使えない。「そういうルールって格好わるい」と10代の頃は思っていたのですが、俳句に慣れてくると、季語が持つ力と自分が詠みたいと思ったものがうまく重なった瞬間に「決まった!」と思うようになるんです。

 

季語もルールもない一行詩みたいな俳句もあります。それはそれで好きなんですけど、そういうことをするなら、私には詩があるかな。だから俳句には季語をいれることにしています。定型が一番だとは思わないし、それを破る面白さはあるんだけど、定型に救われることがあるから、その路線で詠みたいなって。

 

 

俳句が切り取る世界とは?

 

荒井 ルールって、メリットもデメリットもありますよね。例えば思想や哲学を「五・七・五」のなかに盛り込むのは難しい。いや、盛り込めちゃう人がいるからすごいんですけど、でも基本的には難しいと思います。ぼくは十亀さんの「生きてゆく硬さ素足のぶらんぶらん」という句が好きです。哲学や思想というほど大げさでも堅苦しくもなく「今週はどうやって生きて行こうかなあ」っていうくらいの、生きていくための柔らかな構えのようなものがある。

 

ちなみに、俳句を詠んでよかったなと思う瞬間ってありますか?

 

十亀 「できた!」と思った瞬間ですね。「夏きざす子は寂しがる語をもたず」という句を詠んだことがあります。自分の子どものことを詠みたいんだけど、なかなか詠めなかったんですね。そんなとき、子どもたちが妙にまとわりついてきたり、「抱っこ! 抱っこ!」と甘えてきて、「ああ、この子は“寂しい”って言えないんだな」と思ったら、自然と俳句を詠みたいと思ったんです。いろいろ考えて、最後に「夏きざす」という季語が出てきた瞬間に、「この感覚を切り取ることができた」と感じて、俳句を詠んでいてよかったと思いました。

 

荒井 抱っこをせがむ子どもって、本当に些細な日常の一コマですよね。俳句って、そういう身近すぎて意識さえしないような一瞬を切り取るから面白いです。最近「文学が語るべき日常って何だろう」って、そんなことにずっと考えていたので、十亀さんの俳句はとても新鮮でした。

 

十亀 そういうことをお考えになるきっかけはあるんですか?

 

荒井 子どもが生まれて、妻と協力して毎日ドタバタの悲喜劇を繰り広げながら育児しています。もう本当に「日々の生活」を維持するだけで精一杯で、自分のやりたいことがぐっと制限されました。こんな毎日が延々と続くのかと思うと「自分にはもっとやりたいことも、やらなきゃいけないこともある!」って野心がくすぶったりするんです。でも逆に、こんな何気ない日々の些細な事柄が、どうしようもなく愛おしく思えたりもするんですね。子どもが変な言葉をおぼえて帰って来たりとか、膝の上に抱えてテレビ見たりとか、一生懸命作ったご飯を食べてくれなくてイラついて、でもそんなことにイラついた自分に落ち込んだりとか、そんな風に流れていく平凡な時間や出来事が「語るに値するようなきらめき」を持っていたら救いになるんじゃないかって思うようになったんです。

 

今日はお互いに好きな文学作品を紹介しましょう、ということをお願いしました。ぼくが持ってきたのは柴崎友香さんの『わたしがいなかった街で』(新潮社、2012年)です。少し長いですけど、読んでみますね。

 

 

「日が長くなってまだ薄闇で、暑くも寒くもなく弱い風が吹き、そのような空気の中を一人でただ自由に歩けるということは、もしかしたらこの時間が自分の人生の幸福で、これ以上の「スペシャル」なことは起こらないし望んでもいないのではないかということを考えながら、しかしそう言うとたいていの人には平穏な日常こそが素晴らしいという意味にとられるかもしれないが、自分は「日常」があらかじめ確かにそこにあるものだとは思えないし、例えば仕事に行ってごはんを食べて眠るというような日々のことだとも思っていないし、それぞれに具体的で別のものがそこにあるのを一つの言葉でまとめることができなくて、「日常」という言葉を自分自身が使うこともない。単純にスペシャルなことがない、ただそれだけのことなんだと、不意に感じるだけで、この感じこそが最大の意味なんじゃないかと思うことをどういえば伝わるのか、そもそも誰に伝えればいいのか、と思いながら、緩く蛇行した商店街から枝分かれする路地をでたらめに歩いた。」

 

 

震災後にむさぼるように本を読んだんですけど、この言葉にとても救われました。ぼくらが生きている時間って、「日常」という言葉で捉えるまでもないくらい、意識さえしないような出来事の積み重ねじゃないですか。そんなスペシャルでもなく、ただ淡々と過ぎていく些細なことのなかに、語るに値する何かがあるんじゃないかと思えるだけで、生きているこの時間が楽になるような気がする。そして十亀さんの俳句は、ぼくのなかで柴崎さんの文章とリンクしたんです。

 

十亀さんはいかがでしょうか? 「この日常は俳句になる」と思う瞬間ってどんなときですか?

 

十亀 つらいことや悲しいこと、腹が立つことが非日常的なことだとしたら、そういう感情をずっと持って生きてはいません。

 

でも「あっ」と思う空気とか匂いとか、音だとか、日常のちょっとしたことに心が動くとき、「これを俳句にしたい」と思って、ぐぐぐっと近寄って身体で記憶するようにしています。昔から、出かけたときに見かけたものとか、面白いと思ったこととか、人に教えてもらったことを書いているノートを持ち歩いていました。でも子どもが生まれてからはノートに落書きされちゃったり破られたりしちゃって、このやり方を続けるのが難しくなっちゃったんですね。だからいまは短冊に句を書いて、推敲するようになりました。

 

 

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荒井 面白いですね。

 

十亀 これは12句を一作品として出したときのものです。まずは12句を短冊に清書して、冷蔵庫にセロファンテープで貼っていくんですね。眺めているうちに、「語順がちがうなあ」とか「この順番じゃないなあ」って思って、書き換えてみたり、貼り換えたりする。料理をしながら、世界が深まるような並びにするにはどうすればいいのか考えて、「あっ!」と思ったら並び替える(笑)。

 

荒井 日々の生活に俳句が染みこんでますね(笑)。そうか、「俳人」はこういう生活をしているのか(笑)。ちなみに、お子様が生まれてから、詠む内容は変わりましたか?

 

十亀 基本的には変わっていないと思います。ただ暴力的な語句に魅かれなくなりましたね。「王様が吊るされる」とか、ちょっと「えっ!?」って思うような俳句も書いていたんですけど、いまはもう。

 

荒井 ぼくも子どもができてから、言葉の感覚が少し変わりました。なんだか以前よりも、物事を強い口調で断定するのが苦手になりました。『生きていく絵』(亜紀書房)という本を書いたとき、「~と思う」「~かもしれない」という文末表現が多いことを人に指摘されて気が付きました。他人の心の中身について書いたものなので、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないけれど、自分はそう信じたいって書き方になったんだと思います。

 

十亀 面白いですね。そこまで考えたことなかったなあ……。【次のページに続く】

 

 

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