「民衆的な表現」の真の意味を考える――ふじのくに⇄せかい演劇祭の試み

――ただやはり難しいと思うのは、50年前と現在では、社会のあり方が全然違っています。アングラと公立劇場は真逆にあるような気もしますし。

 

そうなんです。でも、単純な言い方になりますが、民衆に演劇を開放するんだと考えれば、非常に似ているんです。とある人たちに抱え込まれた閉ざされた演劇ではなく、すべての人がアクセスしようと思えばできる演劇。そういう意味では公立劇場は図書館と同じです。図書館は誰もが書物、知にアクセスできるようにするためにつくられていますよね。

 

僕はSPACの芸術総監督になる前、「ク・ナウカ」という劇団を主宰していましたが、ク・ナウカはいわゆる前衛劇団に近かった。鈴木忠志さんの後任としてSPACの芸術総監督にならないかというお話をいただいた頃は、先端的な劇団という評価を得て、1年の半分は海外で公演ができるようになり、自分のやりたいことができる集団として確立してきた時期でした。

 

しかし、そうやって活動していると、世界のどの都市へ行っても、先端的な演劇を観るのが趣味という人がお客さんになるわけです。それは今の社会ではものすごく余裕のある人たち、恵まれている人たちです。目が肥えた人たちに観てもらうことで作品のクオリティーも上がっていき、それは幸せなことなんだけれども、本当にそのために一生をこの仕事に賭けているのだろうかという思いもありました。

 

演劇に入っていくような人間は、自分が世界から切り離されているという孤立の感覚、いわゆる「疎外」の感覚を持っているものです。そう感じた魂が、なんとか世界と自分との間に細くてもいいから橋をかけたいと思って、演劇というジャンルに入っていくわけです。僕もそうでしたし、俳優たちもみんなそうです。

 

だから、孤立感を抱えて諦めきってしまっているような人たちにこそ、全身を使って自分を追い込みながら、なお世界と少しでもつながりたいとじたばたしているおじさん、おばさんたちの姿を観てもらいたい、そうしたら自分にもちょっと可能性あるのかなと思ってもらえるかもしれない。それは夢かもしれませんが、やっぱりそう思うわけです。でもてんから諦めてしまっているような人は劇場には来ませんよね。

 

ク・ナウカとして劇場公演を続けていたら、どれだけ評価が高まっても、その人たちとはアクセスのしようがないんです。僕らは劇場で待ってるしかないから。だから、SPACの話があったときは、ク・ナウカをここでやめたくないという気持ちももちろんありましたが、ク・ナウカでは出会えない人たちに出会えるのかもしれないと思ったんです。公立劇場ならば、観たいと思っていない人にも観せてしまうことができるかもしれないって。

 

 

――たしかに、学校ツアーとかできそうです。県立中学校とか。

 

そうなんです。もちろんそう簡単ではないですが。ようやく数年前から、静岡県内の中高生を招待する公演を始めています。クラスごととか、学年ごと、バスで劇場まで連れて来ちゃう。

 

 

――修学旅行のように。

 

そう。希望者を募っていたら、君の魂はすでに救われているよという子しか来ないから(笑)。で、みんなで来るんだけど、ほとんど演劇なんて知らないから、パンフレットを配っても、丸めて、前のやつの頭をぱこんとかやってるわけですよ。

 

 

――目に浮かぶようです(笑)。

 

芝居は、子ども向けにわかりやすくとかはしません。今の子どもたちは、「わからない」というのが大人に対する批判だと思っていて、大人をいじめるには「わかんなかった」と言えばいいとわかっている。でも容赦なく大人向けのものをやるわけ。

 

そうすると、なんだったんだよ、みたいな感じで劇場を出ていくんですが、やっぱりどこか興奮してるんですよね。今まで刺激されたことのないところにちょっと矢がささったような。こんなところに痛みってあるんだ、みたいな。そういう反応を見ていると、これが20年ぐらい続けば何か土壌が変わるかもしれないと思うんです。

 

劇場のレパートリーも、なるべく偏らないようにしています。日本の現代演劇だけでなく、あまりみんなが欲しいと思わなくてもギリシャ悲劇は観ておいた方がいいし、シェイクスピアは年に1本にしようとか、フランスのものを入れたら、今度はアメリカのものを入れようか、アジアの演目はどうしようか、というふうに。

 

美術と音楽は学校の教科に入っていますから、一応レオナルド・ダ・ヴィンチの絵を観たり、ベートーベンを聴いたりしますよね。でも演劇に関しては普通の人はその程度の基礎知識もありませんから、もしも学校に演劇の授業があって教科書をつくるとしたらこれとこれは入るよね、というものは必ず入れるようにしています。

 

よく言っているのは、3、4年SPACの芝居を観ていけば演劇史というものの見取り図が描けるようなプログラミングです。そして、基本的にいつでも再演できるようにクリエーションしています。未来の観客にも開かれているように。それこそ、劇団員がいる公立劇場でなければできないことですから。

 

 

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『聖★腹話術学園』写真:V.Vercheval 演出:ジャン=ミシェル・ドープ、作:アレハンドロ・ホドロフスキー。出演はベルギーのアーティスト集団、ポワン・ゼロ。

 

 

「個別のものを持ち寄る共通の土俵」を目指すべき

 

――せかい演劇祭にも県内のお客さんはたくさんいらっしゃるのでしょうか。

 

6割ぐらいは静岡のお客さんです。少しずつですが、じわじわとは増えてきました。でもね、話は最初に戻ってしまいますが、少しずつ地歩を築いてきたなと思っているからこそ、空気を読むことにもなるんです。

 

「芸術を民衆のものに」というスローガンは、それ自体をとってみれば抗いようがない。そう言ってナチスの文化政策が出てきたわけだし、旧ソ連も、文化大革命もそうだった。「民衆的な表現」という言葉は僕にとってはいい印象のない言葉でしたが、それこそ戦前のドイツやかつてのソ連を思わせる気分が蔓延してくる中で、もちこたえるためには、僕ら劇場の側が率先して、民衆的な表現をやっていると胸をはって言っていなければならないだろうと思うんです。

 

民衆的というのは、その時代の支配的な価値観に寄り添いましょうということではもちろんなく、あらゆる人に対して開かれているということです。これは、言うは易く、行うはとても難いことです。それでも、「民衆的な表現」ということの真の意味を考え出さなければいけない。

 

 

――難しい問題だと思います。公立劇場という制度はやはりヨーロッパに由来するもので、日本の地方に根付くというのがどういうことなのか。宮城さんがおっしゃるようにまだまだ黎明期、途上ということなのだなと思いますが、うかがっていると、劇場と地域住民の関係は、神社と氏子の関係みたいなものとは違う、ある種の緊張関係をはらむような……。日本的な土着性みたいなものについては、どう考えていらっしゃるでしょうか。

 

65年から始まる小劇場運動の中にはたしかにフォークロアの再発見ということがあって、その前の時代には、土方巽さんが東北に着目したり、深沢七郎が『楢山節考』という小説を書いたりしています。三島由紀夫が、自分には根っこがないけれど深沢七郎にはあってうらやましいみたいなことを言ったそうですが、あの時代、土着みたいなものがまつり上げられたところもある。

 

ただ、僕自身の感覚としては、フラメンコやハワイアンと同じで、このネタがあったな、こういうものも使えるかもしれないな、というふうに、自分から距離のあるものの一つなんです。

 

日本の伝統芸能も、たとえばお能をとってみても、自分の中にあるものとは思えなくて、フラメンコと同じぐらい遠くにあります。表現者としては、もはや帰る場所なんてなくしている。

 

そういうところでは三島に共感するんですが、じゃあ、日本にくっついているひもが一つもないのかというと少しはあって、それは、日本語と、食べるものも含めた気候風土です。これはやはり、自分を規定しています。そこまでさかのぼれば。

 

 

――歴史のある一時点の、文化風俗ではないんですね。もっと、所与の条件としてあるものというか。

 

そうですね。エキゾチシズムのようにとらえられないようにしたいとは常に思っています。僕たちは、日本で伝統芸能とされているものにも常に距離があるんだと、あとで発見したんだということをわかって欲しいなとは思っています。

 

でも、じゃあ輸入してたかが百何十年かしか経っていない西洋の衣裳をまとえばより普遍的なのか?とも思ってしまうわけですね。エキゾチシズムや、それこそオリエンタリズムでとらえられないようにしたいとは思うんだけれど、じゃあどうすればいいかというとなかなか難しい。

 

 

――演劇というものの捉え方一つでも、日本人が思う演劇観と、ヨーロッパの人、アメリカの人、やっぱり違っているものでしょうか。

 

少しずつ違います。ただ、「そこが共通の土俵だ」というものを目指すべきだという合意はあります。アヴィニョン演劇祭に行くときに、それはヨーロッパの土俵というのではなくて、ものすごく個別なものを持ち寄る一つの土俵というものが、理想として想定されているんですね。

 

 

――それはすごく面白いです。ふじのくに⇄せかい演劇祭も、そういうものにしたいと考えていらっしゃるのでしょうか。

 

アヴィニョンとは比較にならないぐらいまだ規模は小さいですけどね(笑)。でも、基本的にはその通りです。つまり、僕らはまだまだ他者を知りません。あからさまな他者に対して及び腰です。世界にはいろんな人がいるということをもっと知った方がいい。まだその段階です。特に静岡では。

 

この演劇祭は、「ふじのくに」と「せかい」をつなぐという名前の通り、普遍的な土俵があり得るんだという認識のもとで、世界と共有できる設計をしています。わざわざ来てもらう価値があると信じています。ぜひたくさんの人に足を運んでいただきたいと思います。

 

 

■公演情報

 ふじのくに⇄せかい演劇祭2015

WorldTheatreFestivalShizuoka under Mt. Fuji 2015

2015年4月24日(金)〜5月6日(水・祝)

http://www.spac.or.jp/worldtheaterfestivalshizuoka_2015.html

主催:SPAC – 静岡県舞台芸術センター

ふじのくに芸術祭共催事業

後援:静岡県教育委員会、静岡市、静岡市教育委員会

お問い合わせ:SPACチケットセンター TEL. 054-202-3399 (10:00-18:00)

 

 

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