「ももクロ×平田オリザ」論 「幕が上がる」をめぐって――関係性と身体性 対極の邂逅

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異なる位相にある複数の物語が重なる

 

「幕が上がる」は高校生を主人公にしているので一見シンプルな青春物語に見える。ところが実際はこの作品にはいくつかの層を重層的な重ね合わせた複雑な構造となっている。

 

平田との対談で批評家の東浩紀は演劇部の生徒たちがあまりに素直で陰がないため、今時こんな純朴な高校生はリアリティーがない、毒もなさすぎる、などと批判した。これはあくまで原作に対しての批判ではあるが、映画の存在が明らかになる前の微妙な時期だったこともあり、平田は反論しなかった。

 

だがこと映画に関する限りはこの作品に陰がないということはなく、「光と陰」は確かにある。それは演劇の持つ「光と影」だ。「魅力と魔力」と言い換えてもいいかもしれない。

 

映画版では、さおりと対比するようにその魅力・魔力に魅入られていく2人の女性が描かれる。1人は教師をやめ、女優を目指すことでさおりらを裏切ることになる吉岡先生だ。県大会に臨むさおりと自らが身を投じた舞台の稽古場の吉岡先生の姿がひと続きのシークエンスで示されることで2人のイメージは重ねあわせて提示される。

 

もうひとりは東京で小さな劇団に出演しながら、自分をとりまく甘くない現実と戦っている杉田先輩だ。演劇の「光と闇」。この主題は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を下敷きにしてさおりが書いた「私たちは舞台の上ならどこまでもいける。ただ、どこにも辿り着けない」とのセリフとも反響しあう。それは近い将来のさおりら自身の姿であるかもしれない。

 

このように異なる複数の階層が互いにメタファー(隠喩)のように響き合う重層的な構造が平田の作劇の特徴だ。「幕が上がる」もそうした構造になっているのだが、映画「幕が上がる」で本広監督は作品の外側に広がる階層をもうひとつ付け加えた。それは「ももいろクローバーZ」の物語だ。

 

この映画は映画内に仕掛けられた構造に加えて、ももクロが歩んできたこれまでの歴史が映画の場面と響き合うように作られている。例えばさおりの最後の挨拶はファンならば国立競技場ライブでの夏菜子の最後の挨拶を想起させるし、吉岡先生の手紙の場面からは早見あかりの脱退が明らかにされた時のメンバーの凍りついたような反応を連想させずにはいられない。

 

もちろん、映画自体はそんなことは関係なく楽しめるのだが、このように重層的な異なる層が響き合うような構造は平田の得意とする手法そのものだし、「ももクロ」「演劇部」「銀河鉄道の夜」といったそれぞれ異なる位相にある物語が、アマルガムのようにひとつになってきわめて複雑な構造を形成する。そこに映画「幕が上がる」の魅力はある。

 

 

(C)2015 O.H・K/F・T・R・D・K・P

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(C)2015 O.H・K/F・T・R・D・K・P

 

 

「平田オリザ×ももクロ」タッグの意外性

 

実は「幕が上がる」プロジェクトは映画だけにとどまらない。この後、平田オリザの本領である舞台(5月1~24日、Zeppブルーシアター六本木)も予定されている。

 

演劇評論家である私にとっては、ももクロのファンとしてもたびたびライブに足を運んできただけに、今回のプロジェクトは本来なじみの深い世界での出来事だ。今でも「それを語るものとして私ほど適した存在はいない」との自負はあるのだが、実は両者が結び付くことは私にとっては予想外のことだった。

 

ももクロと平田オリザではもちろんジャンルも違えばコンセプトも異なる。そのどちらもを注目すべき存在として以前から追いかけてきたとはいえ、うかつなことに両者が結びつくという予感は私のなかにはなかった。

 

それは平田オリザとももクロは、ここ数十年のパフォーミングアートのなかで大きく対比される2つの要素「関係性」と「身体性」を担う象徴的な存在で、それゆえ対極に位置するものと考えていたからだ。

 

私は、「分野の違う2つの存在を、本質を共有するものとして結びつける」という手法を批評の世界で多用してきた。平田オリザ、ももクロもこの手法を使ってそれぞれを論じたことがある。

 

平田のロボット演劇をボーカロイドソフトの初音ミクと対比させた論考が「平田オリザ/初音ミク/ロボット演劇」(演劇批評誌シアターアーツ2013年夏号)。スタニスラフスキーによって提唱され、メソッド演技として現代にも通じる「内面の再現」という演技法を平田は否定する。

 

代わりに採用するのは細かく分節化されデジタルのように制御された演技・演出法だ。論考はこの演技のデジタル化が音楽におけるMIDIと同じ論理構造を持っているのではないかということを論じたものだった。その論理をさらに推し進めていくと平田のロボット演劇はMIDIの理論的結実である初音ミクと兄弟姉妹のようなものではないかというのが論考の結論だった。

 

一方で、ももクロは、パフォーマンスという軸において見たときに制御からはずれた(アンコントローラブル)存在であるところにその本質がある。

 

昨年夏、アイドル評論誌「ももクロ論壇 アイドル感染拡大」に書いた論考「パフォーマンスとしてのももいろクローバーZ」では、よく言われるももクロの魅力である「全力パフォーマンス」とは一体何なのかということを、制御からはずれた(アンコントローラブル)をキー概念として論じたものだ。

 

ポストゼロ年代の演劇・ダンスに顕著なひとつの傾向に身体に負荷をかけるパフォーマンスがあるが、ももクロのパフォーマンスをそれと対峙させることで解明していこうというのがその要旨であった。

 

実はこの時の裏のテーマとなってもいたのは、平田オリザらによる「関係性の演劇」と、演劇に祝祭性を求めた静岡舞台芸術センター(SPAC)芸術総監督、宮城聰の対立である。

 

平田オリザは80年代に国際基督教大学(ICU)の仲間らと青年団を旗揚げ、自らの演劇活動を開始するが、現代演劇の世界で本格的に頭角を現してくるのが90年代の半ば。岸田戯曲賞を受賞した「東京ノート」が発表されたのも95年。

 

著書として『平田オリザの仕事〈1〉現代口語演劇のために』(95年 晩聲社)、『平田オリザの仕事〈2〉都市に祝祭はいらない』(97年 晩聲社)を著し、この時代の演劇界のオピニオンリーダーとなった。

 

95年といえば阪神大震災が起こり、オウムによるサリン事件が引き起こされた年でもあるが、60年代後期のアングラ演劇以来続いてきた「祝祭的演劇」に対して、祝祭的なことがらに事欠かない都市生活においては「演劇は劇場において静かにものを考える場であるべきで、都市に祝祭はいらない」などと論じて、「祝祭としての演劇」を否定した。

 

90年代半ば、特に阪神大震災以降、日本の現代演劇では平田に代表される現代口語演劇が主流となり、演劇から祝祭性は退いていった。

 

ところがポストゼロ年代、特に3・11を境に、世間の好みが再び祝祭的なものに移行していく。舞台芸術の世界では黒田育世、矢内原美邦、多田淳之介らに代表されるが、そういう世間の空気の変化を象徴するパフォーマンスが昨年7月に日産スタジアムで行われたももクロの「桃神祭」だった。

 

論考の結びは現代の巫女として巨大な祝祭空間を具現させる存在がももクロなのだという趣旨で、ここでは「関係性」を重視する平田の対極的な存在として「身体性」を前面に出すももクロは提示された。

 

興味深いのは、映画「幕が上がる」はその一部を静岡の舞台芸術公園で撮影しており、そのためもあってか、映画の終わりに近い重要な場面に、そこに拠点があるSPACの演出家、宮城聰と看板女優の美加理が登場する。前述の論考では、平田が「都市に祝祭はいらない」と否定してきた「祝祭としての演劇」をももクロの登場で終焉。宮城が予見した「祝祭の演劇」の時代がやってきた、と宣言していた。

 

それだけに、平田自身が「祝祭性」「身体性」のご本尊であるももクロとタッグを組んで新たな戦いの場に現れるとは、まさに私にとっては「青天の霹靂」以外、何物でもなかったのである。

 

 

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(C)2015 O.H・K/F・T・R・D・K・P

 

 

作品情報

『幕が上がる』

・ 原作:平田オリザ著『幕が上がる』(講談社文庫刊)

・ 監督:本広克行(『踊る大捜査線』シリーズ)

・ 脚本:喜安浩平(『桐島、部活やめるってよ』)

・ 出演:百田夏菜子、玉井詩織、高城れに、有安杏果、佐々木彩夏

     ムロツヨシ、清水ミチコ、志賀廣太郎/黒木華

・ 製作:フジテレビジョン 東映 ROBOT 電通 講談社 パルコ

・ 配給:ティ・ジョイ/配給協力:東映

 

 

公演情報
・公演日程 2015年5月1日(金)〜5月24日(日)
・原作・脚本:平田オリザ
・演出:本広克行
・出演:百田夏菜子、玉井詩織、高城れに、有安杏果、佐々木彩夏 ほか
・会場 Zeppブルーシアター六本木

 

 

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