分析美学ってどういう学問なんですか――日本の若手美学者からの現状報告

(a)できるだけ誤解を避け、明確な書き方をする

 

誤解や誤読は無駄なやり取りの元になるため、それを避けるために、説明は出来るだけ明確なものが求められる。主張のポイントがはっきりと述べられ、あわせてその主張の意図や狙いはどこにあるのか、既存の問題系にどう資するのか、といった点が明示化される。またそのさい、その主張を導くための論証の流れもできるだけ明示され、論証を支える前提や根拠もはっきりと示される。

 

理解を妨げる無駄な比喩や修辞はできるだけ避けるべきだし、大陸系哲学によく見られる「同じ語の使用を避けて、できるだけ言い換えましょう」といった論述スタイルも、分析哲学ではほとんど共有されていない。権威に依る論証や誇張、対人論法を避ける(注17)、意味のない見栄は張らない、といったその他の基本的な執筆スタイルも、すべてこの「より良い論争をする」という価値観に支えられている。

 

もちろん、大陸哲学系の論文の中にも真摯かつ明晰な論文はいくらでもあるし、分析哲学系の論文にも難解かつ不明瞭なものはある。ただ、業界としてこういう価値観がひろく共有・支持されているかどうかは、大きな違いだ。残念なことに、大陸哲学系の書き手の文章では、「言いたいことは何となくわかるが、根拠や前提、動機が不明瞭なために批判のしようがない」ということが多々あるし、しかもそういう書き方をある種「しょうがない」「当然のもの」と受け止めている風潮すらある。

 

 

(b)論争は基本的に論文ベースで進められる

 

例外もあるが、多くの論争は著作単位ではなく論文単位で進められる。ある主張が出ると、すぐさま反論論文が書かれ、また再応答が出る。こうして人気のあるトピックとなると、数年のうちに何十本もの論文が書かれることになる。哲学史では、大哲学者が二つ、三つ批判的なやり取りをしただけで「論争」と呼ばれたりすることもあるが、現代のジャーナル文化における論争は、規模が全く違うのだ。

 

この論争重視の姿勢をよく表しているのが、多くの学術雑誌に「ディスカッション」のコーナーが設けられている点だろう。ディスカッション・コーナーでは、ある論者による批判とその批判への応答が並べて載せられる(批判も応答もたいてい分量は短い)。この風習は、論争のスピードを高めるとともに、ポイントを絞った議論の前進を可能にしている。もちろん、こうした質の高い論争が、厳しい査読システムに支えられていることは言うまでもない。

 

 

(c)相手の意見に極力寄り添った上で批判する

 

上記の二点とはややレベルの違う話だが、分析哲学者たちによく見られる特徴的な議論の仕方をひとつ挙げておこう。それは「相手の主張をできるだけ好意的に解釈した上で、叩く」というものだ。分析哲学では、ある論者の有名なフレーズのみを取り出してきて批判する、ということはほとんど見られない。そんなことをしても、自分の優位性を示せるだけで、議論は大して前進しないからだ(注18)。

 

無駄な当てこすりはしない。対決するならしっかりと誠意ある戦いをする。分析哲学では、思想業界でしばしば見られる「あえての誤読」ということはまずなされないし、また、「あの人は本心では~をしたいのだ」などと、相手の動機を勝手に推測し押し付けるようなこともない。分析哲学において理想的な批判態度とは、批判すべき相手の論点を的確に理解し、その主張の背景にある意図や目的をふまえて相手の主張を(しばしば相手よりも一層明確に)描ききった上で、それでも逃れられない問題点を指摘する、そういう態度なのである。

 

 * * * *

 

以上、議論のスタイルや姿勢といった点からいくつか特徴を挙げてみた。このような特徴を挙げていくことで分析美学について一応の説明をすることはできるのだが、こうした説明を重ねていっても「それって普通の学問なのでは?」と思われるだろう。私としても、それは否定しない。「分析美学って普通の美学ですよ」という主張に込められた意味のひとつは、まさにこの、何ら特殊な学問ではないですよ、というものだ。

 

とはいえ、上記のような議論スタイルを、哲学に対する古めかしいイメージと比べてみると、この動向の特徴が少しつかめてくるかもしれない。分析系哲学の現場は、哲学について抱かれがちな「小難しい顔をした人がブツブツよく分からないことを言っている」「孤独に悩み抜くことこそが哲学」といったイメージからはかけ離れている。分析哲学系の学会は、むしろ、ワイワイと賑やかなディスカッションの場だ(注19)。

 

もちろんこうした議論スタイルをとることのデメリットもあるだろう。もしかしたら分析哲学は、他の哲学で重視されている「思考を触発する」とか「悩んでいる人に人生の指針をもたらす」といった価値を取りこぼしているのかもしれない。だが、そのことでもって「分析哲学はダメな哲学だ」と断じるのも偏狭な見方だし、逆に「分析哲学以外の哲学は明晰でないからダメだ」とするのも懐が狭い態度だ。読者としては、「目指している価値が違う」ということを押さえた上で、色んな文献を読んでいくのが健全だろう。【次ページにつづく】

 

 

1 2 3 4
シノドス国際社会動向研究所

vol.276 

・橋本努「新型コロナウイルスとナッジ政策」
・三谷はるよ「市民活動をめぐる“3つの事実”――「ボランティア」とは誰なのか?」
・五十嵐泰正「『上野新論』――「都市の時代」が危機を迎えたなかで」
・倉橋耕平「メディア論の問いを磨く――言論を読み解く視座として」
・山田剛士「搾取される研究者たち」
・平井和也「コロナ情勢下における香港と台湾に対する中国の圧力」