分析美学ってどういう学問なんですか――日本の若手美学者からの現状報告

4.(分析)美学の「面白さ」と、(分析)美学を学ぶメリット

 

業界事情の話はそろそろやめて、分析美学という学問そのものの魅力についても述べておこう。私にとって分析美学は、何よりも「事象ベースで美学的なトピックを考える」という楽しさを教えてくれた。

 

たとえば私は現在、「芸術的価値」をテーマに研究を進めているが、そこでの問いは「芸術的価値は何によって決まる(決まってきた)のか」「誰が査定するのか」「どうやってその価値は知覚されるのか」などと、「人名抜き」で成立するような問いだ(こうした問題のひとつひとつについて、どういう立場がある(ありうる)かを整理し、各立場の主張を吟味し、その前提や根拠を検証していく、これが研究の基本作業だ)。

 

分析美学は、「まずカントを読もう」「まずはプラトンを読もう」ところにスタートラインを置くのではなく、「何故これがアートなの?」「音楽作品って結局何なの?」「何故こんなに不道徳な作品が評価されてるの?」といった素朴な疑問から議論をスタートさせる。これは初学者にとっては入りやすく、かつ魅力的な入り口だし、哲学を専門としない人にとってはむしろこういう入り口のほうが入りやすいだろう。

 

教師としても、分析美学の議論が翻訳で読めるようになったというのは、非常にありがたい。「美学に興味があるんです」という学生が出てきたときに、「そうかー、じゃあプラトン『国家』、アリストテレス『詩学』からはじめてカント『判断力批判』、ヘーゲル『美学講義』、あたりを読んでいこうか」と返す必要はもはやない。

 

哲学者ごとではなく、トピックごとに議論を進める分析美学の文献を利用すれば、「フィクションに興味があるならまずはこの論文とそれに応答するこの文献とこの文献を読みなよ」「自然美について興味があるならこれを」と、トピックごとに文献を紹介することができる。大哲学者の文章を解読するのではなく、興味あるテーマに沿って論争の進展を追うことの楽しさ(注24)。分析美学の楽しさはまさにここにある(注25)。

 

また、議論されている問いがキャッチーであるというのも、分析美学の良い所だ。「芸術の価値は何で決まるの?」「小説やマンガを読むときに作者のことを考える必要があるの?」といった素朴な問いについては、哲学に関心が無い人でも一度は考えたことがあるのではないだろうか。分析美学は、「世界は存在するのか」「善悪はどのようにして決定されるのか」といった哲学的・倫理学的にハードな問題を考えるのとはまた別の角度から、哲学的思考の楽しさを伝えてくれる。

 

このように、芸術や文化といった日常に近い話題について素朴に哲学する道を示したというのは、分析美学が日本の思想状況にもたらしたひとつの成果だろう。とはいえ、こうした「分析美学の面白さ」のようにみるものは、あくまで先に述べた業界事情のせいでそのように見えてしまっているだけで、これらはそもそも「分析美学の面白さ」ではなく「美学の面白さ」であったはずだ。

 

というのも、美学とはそもそも、「感性や文化について語っている人の文献を解釈する学問」ではなく、「感性や文化について考える学問」なのだから。その意味で、近年日本で盛り上がってきたのは、分析美学ではなく美学そのものだともいえる。芸術や文化について直接思考し議論することの楽しさが、ここにきてようやく広まってきたのかもしれない。

 

最後に、分析美学に限らず、美学・芸術哲学全般に当てはまる話として、美学を学ぶことのメリットをひとつ述べておこう。美学や芸術哲学というのは、議論の中に「趣味」や「好み」が入り込みやすい、というよりも、入り込まざるを得ない領域だ。そういう領域で議論する場合、どこからどこまでが論争可能な領域で、どこから先が「好み」の問題なのか、その線引きをできるだけ明確にしつつ話を進めていかなければならない。「それって好き好きでしょ」とならないために、議論に工夫が必要なのだ。

 

この、「主張の種類や、主張の及ぶ範囲に配慮しつつ議論を進める」というスキルを鍛えることは、コミュニケーションスキルを鍛える上で非常に有用だ。人の話をきちんと聞いて、相手の言わんとすることを理解し、どこまで同意できてどこに反論できるか、どうしたら話が前進していくかといったことを、相手と一緒に考えていくこと。また、自分の好みを成り立たせているのは何かを真摯に見つめ、しかも、自分とは好みが違うひとが存在することを常に念頭に置いて話を進めること。

 

こうしたスキルは、哲学的スキルというよりも、もはやどの分野の人にも求められる対話の基本スキルであるが、そうしたスキルを磨くには、美学という、感性と論理が交差する領域は、とてもよい修行の場になる。哲学系の学生のみならず、美大、芸大の実作系の学生たちにも、美学の議論態度からは大いに学んで欲しい(注26)。

 

美学という学問は、日常生活と結びつけやすい学問だ。真摯に学べば、人生が豊かになることは間違いない――とはいえこのメリットも、たいていの学問に当てはまるようなものでしかないのだが。

 

(注1)ブックフェア「分析美学は加速する──美と芸術の哲学を駆けめぐるブックマップ最新版」

 

(注2)なお「分析美学とは何か」という問いについては、すでにいくつかブログ記事を書いたことがあるし、他にも参考になるブログ記事はある。また上記ブックフェア記録ページの「はじめに」「分析美学史」パートの解説文も参考になるだろう。本記事と合わせてお読みいただければと思う。

・ 「『分析美学入門』解説エントリ1、分析美学とは何か、その一」

「分析美学にはどのようなトピックがあるのか」

「ポピュラー文化のアーカイブと芸術の哲学」

本稿の目標は、これらの既存の記事とはまた別の観点から、補足的な説明を加えることである。

 

(注3)この「感性」は、ギリシャ語では「アイステーシス」と呼ばれる。美学は英語ではAestheticsという語になるが、元にあるのはこのギリシャ語だ。最近では、この元の含意に立ち返って「美学」ではなく「感性学」という訳語を使おうとする人もいる。たしかに「美学」という訳語は誤解を招きやすいところもある。美学はべつに「美(beauty)の学問」というわけではないのだ(もちろん美について考えることは美学の重要な仕事だが)。

 

(注4)美学を成立させた画期的な書『美学』は、つい最近、翻訳の文庫版が出た。

 

(注5)18世紀は、文学、絵画、彫刻、音楽、建築といった「美しい諸術(beaux arts)」をまとめ上げる概念としての「芸術」概念が確立しつつある時代でもあった。18世紀とは、芸術や感性についての思考枠組みが大きく変化する、美学的には非常に魅力的な時代なのだ。

 

(注6)分析美学があつかう諸問題について概略的に把握したいのであれば、上記ブックフェアの目次を見るのが手っ取り早い。より詳しく知りたい方は、『Routledge Companion to Aesthetics, 3rd edition』など、厚目の教科書の目次を見ると良いだろう(amazonの「なか見検索」で見れる)。 

 

(注7)Weitz, Morris. 1956. “The Role of Theory in Aesthetics.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 15: 27–35.〔モリス・ワイツ『美学における理論の役割』松永伸司訳、電子出版物〕

 

(注8)Mandelbaum, Maurice. 1965. “Family Resemblances and Generalization Concerning the Arts.” American Philosophical Quarterly 2: 219–228.

 

(注9)Danto, Arthur. 1964. “The Artworld.”Journal of Philosophy 61: 571–84; Dickie, George. 1974. Art and the Aesthetic: An Institutional Analysis. Ithaca, NY: Cornell University Press.

 

(注10)Levinson, Jerrold. 1979. “Defining Art Historically.” British Journal of Aesthetics 19: 232–50.

 

(注11)Robert Stecker. 1997. Artworks: Definition, Meaning, Value. University Park: Pennsylvania State Press.

 

(注12)Berys Gaut. 2000. “‘Art’ as a Cluster Concept.” In Theories of Art Today, ed. Noël Carroll. Madison: University of Wisconsin Press, 25–44.

 

(注13)この論争の進展の詳細については『分析美学入門』第5章、ならびに上記ブックフェアの「芸術の定義」の項の解説を見てほしい。

 

(注14)「芸術とは何か」という問いへの取り組みとして、この必要十分条件を求める作業が成功したかどうか(またそもそも成功しうるものなのかどうか)はそこまで重要ではない。むしろ重要なのは、定義を求める議論を通じて芸術の重要なポイントが見えてくる、という点だ。芸術の定義論の中でも、既存の芸術観のさまざまな問題――価値論(何がよい芸術なのか)と分類論(どれが芸術でどれが芸術でないのか)が混同されがちである、とか、西洋の伝統に限定された芸術論を語ってしまっていた、など――が照らし出されてきた。

 

(注15)小田部胤久は、この論争をつうじて理論が練り上げられていく様子について、分析系の論文は「さながらワーク・イン・プログレスの様相を呈する」と表現している(『分析美学基本論文集』書評、『図書新聞』2016年1月8日号)。これはなかなか的を射た指摘だ。

 

(注16)もちろんここに挙げた議論の進め方はあくまで一例であって、哲学の仕事は、目的に向かって思考することだけではない。目標をあえて別のところに設定することで議論の見通しを良くしたり、抜け落ちていた別の視点を提示したりするのも、哲学の重要な仕事だ。分析美学者たちも、そうした作業を数多く行なっている。芸術論の文脈で言えば、最近では「そもそも何のために芸術を定義するのか」といった観点から問いを立て直し、これまでの芸術の定義論を捉え直そうとする試みも出てきている(Dominic Lopes. 2014. Beyond Art. Oxford Univ. Press. )。

 

(注17)分析哲学では、裁判や国会の場でよく見られる、相手の信頼性を攻撃するような人格攻撃はまず行われない。攻撃されるべきは議論の内容であり、人や感性ではないからだ。 

 

(注18)分析哲学では――とりわけ定義などを述べる箇所では――言葉遣いに細心の注意を払うし、逆に、重要な箇所での些細な言葉の使い方を強く批判されたりもする。そうした言葉づかいへの細かな配慮が、ときに「浅薄な議論」とか「上辺だけの哲学」といった印象を与えてしまうこともある。だが言葉づかいへの批判は、分析哲学においては概ね「ここで貴方が言いたいこと、言うべきことはこういうことであるのだから、その言葉づかいはこういう言葉づかいに直すべきだ」という、動機や背景を汲んだ上での批判となっており、そこではあくまで協働的に議論を前進させようという文化が共有されている。その点を理解しそこねると、分析哲学の議論は揚げ足とり的なものでしかない、と誤解することになるだろう。

 

(注19)哲学系のいくつかの学会を比べてみると、分析哲学系の学会は、質疑応答の時間も短く、内容もすっきりしている印象がある。たまに長々としゃべる人もいるが、そういうケースはごく稀だ。あと大抵どの学会でも言えることだが、若手は基本的に、ポイントを絞った短い質問をする傾向にある。

 

(注20)とはいえ、日本の美学研究者たちが英語圏の書物を読んでいなかったわけではない。学会誌『美学』の新書紹介欄などで、分析美学の書籍はたびたび紹介されていた。問題は、このような「読む人は読む」という状況を越えて、紹介や検討が進んでいなかったという点にある。

 

(注21)とはいえこうした教育が一部の天才的な学生にヒットし、そこから超良質の成果を生むことはないわけではない。非常に稀だが。

 

(注22)平成24年度以前は、「美学・美術史」は哲学分科内にあったのだが、科研費の細目再編の過程で分離された。

 

(注23)戸田山和久は『恐怖の哲学――ホラーで人間を読む』(NHK出版、2016年)の中で「美学ってわけがわからんのと、学生時代の嫌な思い出のせいで、敬して遠ざけていた分野だった」(249頁)と書いている。この「嫌な思い出」の内実はさておき、このように哲学研究者が「美学はよくわからない」と発言することはそうめずらしいことではない(なおこの『恐怖の哲学――ホラーで人間を読む』第6章は、「なぜフィクションと分かっているのに我々は怖がるのか」という、まさに分析美学的な主題をあつかっている。好著なのでオススメしたい。)

 

(注24)質の高い論争を追うことができる、というのは分析系哲学の魅力の一つだ。その魅力は、論文をひとつ読むだけでは分からない。分析哲学の真の楽しさは、同じトピックの論文をいくつか読んでいく中で味わうことができるだろう。

 

(注25)とはいえ、分析美学をやればカントやプラトンを読む必要がなくなる、というわけではない。むしろ事象ベースで考えたあとでカントやプラトンの書物を読むと、彼らがどれほど深いレベルで考察していたかが見えてくる。分析美学の整理された知見をもって、過去の哲学者の文献をより深く、細かいレベルで理解できるようになること。これは分析美学がもたらしてくれる副次的なメリットである。

 

(注26)考えてみれば、分析美学者の中には、学際的な研究を行っている者も多い気がする。近年は、神経美学(neuroaesthetics)という分野が盛んになっていることもあって、分析美学と脳科学・心理学との共同研究はかなり増えてきている。分析美学者たちは、協働的に議論する態度を常日頃から磨いているので、他の領域との学際的な対話に向いているのかもしれない(とはいえ、学際的研究ができるかどうかと良い研究かどうかは別レベルの話だし、プレゼンの上手さが必ずしも研究の良し悪しを意味するわけでもない。そして学際交流に向いているかどうかは、結局のところ人格的な部分に依るところが大きい。)

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

 

 

1 2 3 4
シノドス国際社会動向研究所

vol.276 

・橋本努「新型コロナウイルスとナッジ政策」
・三谷はるよ「市民活動をめぐる“3つの事実”――「ボランティア」とは誰なのか?」
・五十嵐泰正「『上野新論』――「都市の時代」が危機を迎えたなかで」
・倉橋耕平「メディア論の問いを磨く――言論を読み解く視座として」
・山田剛士「搾取される研究者たち」
・平井和也「コロナ情勢下における香港と台湾に対する中国の圧力」