64年東京五輪「日の丸カラー」の選手団公式服装をめぐるもう一つの問題――石津謙介は監修者たりえたか

4.検証(2)――残された可能性、あるいは石津事務所を離れて

 

本稿のはじめに触れた通り、石津謙介は64年東京五輪の選手団公式服装のデザインが決定される過程に何らかの形で関わりを持った可能性がある。その可能性は、石津事務所の主張が信用のおけるものであるかということとは切り離して検討されなければならない。何故なら、彼らの主張が破綻していたということは、それ以上でもそれ以下でもなく、そのことによって、彼らの主張と異なる形で石津がそこに携わっていた可能性までもが否定されるわけではないからである。

 

ここでは、その可能性の検討に必要な三つの材料を示した上で考察を試みることにしたい。

 

 

4―1.確認すべき日本体育協会周辺の状況

 

現在の私たちにとって、望月のような注文服業者は縁遠い存在である。そして、どこか、地味なイメージがある。一方、「VAN」が牽引した60年代のアイビーブームは比較的よく知られている。それゆえ、あれだけの有名人だった石津は容易に望月に指示を与える役割を担いえただろうと考える人が多いようだが、当時の日本体育協会(1988年までJOCの上位団体)の周辺には、そうした服飾デザイナーの介入を許さない特殊な状況があった。

 

JOC第11代会長を務めた柴田勝治(1911-1994)は、望月の自伝『ペダルを踏んだタイヤの跡』(栄光出版、1985年)の冒頭に寄せた文章の中で、東京大会の前後において、「各種の国際大会に参加する日本選手のブレザーは日照堂」というのが当たり前だったと述べているが、とりわけ、オリンピックの選手団公式服装の仕事は、ヘルシンキ大会(1952年)以来、望月と彼の率いるテイラーたちの専売特許であった。そこには、Yahoo!ニュース特集の記事で触れた〝日大コネクション〟と言うべき望月の人脈に加えて(注13)、戦後の物不足の中で、彼が生地の調達に有利なルートを持っていたということも関係しているようだ(注14)。当時は、まだ、オリンピックそのものが現在のように商業化されておらず、アマチュア同士のつながりによって運営されていたということも見落とされるべきでない(注15)。

 

(注13)さらに、望月は、ヘルシンキ大会以前から、各大学の制服を仕立てる指定商となっているテイラーたちを束ねる役割を果たしており、それゆえ、一度に何十着もの選手団公式服装の調製を請け負うことが可能であった。こうした条件もまた、日本体育協会が選手団公式服装の仕事を望月に一任するに至る過程で有利に働いたことだろう。望月の自伝によれば、1946年3月、望月が、生地の配給がないため卒業式に着用すべき制服がない大学生が多いことを不憫に思ってGHQに陳情したところ、これが受け入れられ、生地の配給に合わせて制服指定商の組合が結成されることになった。この組合は、統制経済から自由経済への移行を乗り切れずに解散したようだが、1951年2月、再び、望月が音頭を取って、「東京学生服連盟」という組合が結成された。「東京学生服連盟」は間もなく「東京テーラース倶楽部」と名前を変え、この「東京テーラース倶楽部」のメンバーに大阪と名古屋のテイラーを加えて結成されたのが「ジャパンスポーツウェアクラブ」である。

 

(注14)望月は、日大水泳部出身で「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた水泳選手の古橋廣之進ととりわけ懇意だった。古橋は、1951年に大同毛織に就職しており、そのことも手伝い、望月と大同毛織と日本体育協会の間には強固な結び付きが形成されていったようだ。

 

(注15)2016年9月12日、東京オリンピック組織委員会で最年少職員(当時)として国旗担当職員を務めた吹浦忠正氏(75)にお話をうかがった際にも、「あの頃のオリンピックはアマチュアが集まって作り上げたんです。今と違って。勝見勝さんとかは有名ですが、確かにそういう人たちも関わっていましたが、全体としては、そういう有名な人ではない人の仕事が多い。選手の服を有名なデザイナーに頼んだっていう話自体ちょっと違和感があります」「石津謙介さんが組織委の建物に出入りしていたことは覚えていますが、公式服装に関わっている人という認識は全くなかったですね。あれ(選手団公式服装)は誰もが日照堂の仕事だと思っていました」との証言があった。

 

以上のような日本体育協会周辺の状況をうかがわせる1963年の資料がある。

 

オリンピック特集が組まれた1963年5月号増刊の『デザイン』(美術出版社刊)がそれだ。そこには、同誌の編集者(無記名)と建築家の浜口隆一のやり取りが収められており、それによると、いざ取材を始めてみたところ、既に進行中の東京オリンピックのデザインワークの意思決定を行う主体が複数に分散しており、中には、「デザイナー不在」の部門もあることが分かったため、この号の後半では、そうした問題点を補完するような若手のデザイナーたちによる「提案」を掲載することにしたという。そこには、石津の右腕として知られたくろすとしゆきによる提案も収められている。選手団公式服装を含むあらゆるユニフォームの「デザインはすべて共通に」「選手はグレー、役員は黒、ガイドはブルーというように」色で変化をつければよいという提案である。

 

そこにくろすの提案が掲載されることになった経緯をめぐる彼らのやり取りを引用してみよう。

 

 

浜口 オリンピックの服装についてはデザイナー不在ということはありますか?

 

――もともと体育協会というのがアマチュア精神のメッカみたいなところですから、一般のデザイナーには絶対にデザインは頼まないわけです。昔からオリンピックのブレザーコートとかユニフォームは、全部体協に寄附されてくるわけです。布地でも大きなメーカーが、自分のところのものを提供しようと躍起になっています。ですからほとんど駄目だという感じです。

 

浜口 しかし、そういう場合にも、材料はテキスタイル・インダストリーから出るとしても、ドレスデザイナーは参加できそうなものだが?

 

――それには、ある洋服屋さんの集まりがあって、一応決まったものがつくられるわけです。これは国際的な競技には大事なことなので、たいへん意気ごんでいたのですが、結局VANジャケットの方に、色の問題として提案してもらったにとどまりました。

 

 

「ある洋服屋さんの集まり」とあるのは「ジャパンスポーツウェアクラブ」のことだろう。そこに彼らではなくくろすが登場することになった経緯の詳細は分からない。この頃既に「服装審議会」の設置に向けた何らかの動きがあり、石津がそれに関係していたことからの流れで依頼されたか、単純に、若者たちの間で人気の「VAN」の関係者ということで依頼されたかのどちらかだろう。

 

いずれにしても、この数か月後には、選手団公式服装の試作品の仮縫いが始められ(注16)、1963年10月1日には、「ジャパンスポーツウェアクラブ」の主催で、日本体育協会や東京オリンピック組織委員会も後援に加わり、「オリンピックブレザーパレード」というファッションショーのようなものが開催されていることから(注17)、少なくとも、この時点まで、日本体育協会周辺の状況に大きな変化はなかったと考えられる。

 

(注16)「ブレザーコートを試作:まずは選手用を八着」『朝日新聞』1963年8月21日。

 

(注17)「東京五輪ブレザーパレード:日本古来の色で…」『朝日新聞』1963年10月2日。

 

 

4―2.「アイビー」周辺からの批判

 

くろすとしゆきは、先の『デザイン』1963年5月号増刊の「提案」の中で、「オリンピックの選手団の服は皇太子の服とともに、時代ばなれしている。流行をとり入れることに軽ハクな、ミットモナイことだと信じこんでいるんじゃないだろうか。これは本人達の責任ではない、まわりにいるワケのわからない連中や、ファッションにはまるで興味を示さない、技術がなによりだと思いこんでいる洋服屋の責任だ。ユニフォームはオーダーなんかするよりも、安くてセンスの良いレディメードで十分だ。最近のレディメードのサイズは豊富にそろっている。選手団のほとんどは既成サイズで十分間に合うはずだ」と述べている(注18)。

 

(注18)くろすは、1964年11月号の『メンズクラブ』に掲載された「あいびいあらかると」という記事において、「日本のオリンピック・チームのユニフォームは赤のブレザーだそうだ。スラックスは白だという。日の丸の配色をそのままイカしてみました。というところなんだろうが、あまり感心した組合せとは思えない。第一、スタイルも着こなしもあまり良くない日本人が、そんな派手なブレザー着て似合うかネ。着る御当人だって悪デレしちゃうにちがいない」とも述べている。

 

Yahoo!ニュース特集の記事でも触れた通り、石津謙介もまた、1964年6月7日の『読売新聞』で、「貧乏人の注文服:東京オリンピックのブレザーコート」と題し、東京五輪に参加するアメリカ選手団の公式服装が既製服であることを引き合いに、日本選手団のそれが注文服であることを痛烈に批判していた。さらに、「VAN」「JUN」に次ぐ第三勢力となるべく誕生したメンズアパレルブランド「JAX」の伊藤紫朗は、1964年9月14日号の『平凡パンチ』に掲載された「替え上衣:あなたのためのストックブレザー」という記事の中で、唐突に、「ところで、わかっちゃいない洋服屋のオッさん連中がよってたかって作った、今度の日本のオリンピック選手団のブレザーはどうだろう」という批判を差し挟んでいる。

 

こうした当時の資料からは、注文服に代わって台頭しつつあった既製服のブランドを手がける彼らの間で、選手団公式服装の仕事が依然注文服業者によって独占されていることに対する不満が渦巻いていたのではないかという想像が働くのだが、ここでは、ひとまず、東京五輪の前後において、選手団公式服装をめぐって、注文服業者に敵愾心を燃やす彼らの姿があったという事実を指摘しておきたい。

 

 

4-3.可能性を示唆する資料

 

先述の通り、『第18回オリンピック競技大会報告書』からは、JOCの「服装小委員会」が青木半治をはじめとする8名のJOCの委員によって構成されていたということしか分からない。また、『オリンピック大会資料1~6』にも、選手団公式服装が決定される過程に「服装審議会」の関係者が携わったことを裏付ける記述は見つけられない。

 

しかし、一方で、次のような資料がある。

 

1964年3月3日の『読売新聞』の記事には、同年3月 2日に行われた「第二回服装小委員会」に「伊東茂平、諸岡美津子氏ら服飾研究家」が招かれ、さらに、3月11日に国立競技場で行われる予定の試作品展示会で「関係者や服飾研究家に再検討してもらい、よければ同日決定」とある。伊東茂平と諸岡美津子と言えば、「服装審議会」におけるスタッフ用ユニフォームの選考で主導的役割を果たした服装審議委員である。この記事は、JOCの「服装小委員会」と東京オリンピック組織委員会の「服装審議会」の間で連携が取られていたことを裏付ける非常に重要な意味を持っている。

 

以上のような連携が裏付けられたところで、石津は、服装審議委員ではなく指名コンペの参加者の一人であるため、そこから、ただちに、石津も選手団公式服装の仕事に携わりえたと考えるのは飛躍なわけだが、もう一つの同時代資料を踏まえた時、その可能性はより現実味を帯びたものとなって浮上してくる。その資料とは、「五輪服装史」という連載の一環として1964年9月号の『日繊ジャーナル』に掲載された、先の石津の「貧乏人の注文服」批判に対する反論記事だ。そこには、次のような一節が見られる。

 

 

「ブレザー製作を担当する大同毛織やJ・S・C側は『およそナンセンス』として一笑にふしているが、石津氏の論は、日本の服飾界の現状をいささか知らなすぎることで、かえって驚くくらいである。率直にいえば海外を見分し帰国した人がよく日本の悪口をいう、あのセンスがうかがえるし、しかも東京大会の服装審議会の下部の専門家委員の一人として日本選手団のブレザーの一部を担当しているだけに、不快な印象すらうける。」

 

 

「服装審議会の下部の専門家委員」とあるのは、指名コンペの参加者として選出された13名の服飾デザイナーのことだろう。それでは、「日本選手団のブレザーの一部を担当」とあるのはどのように理解すべきだろうか。

 

この一文を読み解くために必要な材料として、今更ながら、ここで、選手団が身に着けるブレザーに二つの種類があったということを確認しよう。一つは、公式服装の上衣である例の赤いブレザー。もう一つは、「平服ブレザー」あるいは「平常着ブレザー」と呼ばれる紺色のブレザー。後者は、選手たちが式典以外の場面で着用するためのもので、金色の三つボタンにセンターベンツ、下にはダークグレーのスラックス(女子はボックスプリーツのスカート)が組み合わされた。いずれも、JOCの「服装小委員会」の選考を経て決定されたが、『第18回オリンピック競技大会報告書』によると、平服の選考は遅れ、公式服装の色が既に「第一回服装小委員会」(1964年2月3日)で決まっていたのに対し、平服の色は「第三回服装小委員会」(同年3月11日)まで決まらなかった(注19)。

 

 

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東京大会の選手団平服(『体協時報』1964年9月号より)

 

 

(注19)この平服もまた注文服として制作されたが、『第18回オリンピック競技大会報告書』や『日繊ジャーナル』1964年10月号の記事によると、こちらは、生地を提供した日紡のバレーボール部(日紡貝塚チーム)のユニフォームを松坂屋が制作してきたつながりから松坂屋のテイラーたちによって手がけられたようだ。

 

以上のことを踏まえて、先の「服装審議会の下部の専門家委員の一人として日本選手団のブレザーの一部を担当している」という一文を読むと、少なくとも、次のような四通りの理解が可能になる。

 

 

・「一部を担当」とあるのは、選手団が身に着けるブレザーのうち、公式服装のブレザーの選考過程に携わったという意味である。

 

・「一部を担当」とあるのは、選手団が身に着けるブレザーのうち、平服ブレザーの選考過程に携わったという意味である。

 

・「一部を担当」とあるのは、選手団が身に着けるブレザーのうち、男子用ブレザーの選考過程に携わったという意味である。

 

・「一部を担当」とあるのは、ブレザーを限定するための表現ではなく、選考過程の一部に携わったという意味である。

 

 

これらのうちのいずれが〝正解〟であるかは分からない。分からないが、先の『読売新聞』の報道も踏まえると、選手団のユニフォームをめぐって、「服装小委員会」と「服装審議会」の間で連携が取られており、石津もまたその連携の中で何らかの役割を果たしていたことは確かだろう。

 

なお、この記事の内容が事実誤認に基づくものである可能性は低い。それと言うのも、『日繊ジャーナル』は、翌10月号で、この連載の最終回として、望月や伊東を含む関係者のインタビューを掲載しており、「服装小委員会」と「服装審議会」それぞれの位置付けは正確に把握していたと思われるからである。

 

 

4―4.考察と仮説

 

以上の材料を踏まえた時に言えることは、石津謙介は、64年東京五輪の選手団公式服装のデザインが決定される過程に何らかの形で関わりを持った可能性があるということ、しかし、だからといって、彼を〝主役〟とする筋書きが可能になるわけではないということだ。

 

先述の通り、1963年10月1日に「オリンピックブレザーパレード」が開催された時点で、選手団公式服装の仕事は望月と彼の率いるテイラーたちによって主導されており、彼らよりさらに上位の存在として石津のような服飾デザイナーの入り込む余地が残されていたということは考えにくい。石津が選手団公式服装の仕事に携わったとすれば、それは、1964年に入り、「服装審議会」の設置が具体化を見せ、一方で、「服装小委員会」の選考が最終段階に入った頃(注20)、「服装審議会」と「服装小委員会」の間で何らかの連携が取られたその時だろう。問題は、そうした連携の中で石津の果たしえた役割がどのようなものであったかということだが、資料から判断する限りで、伊東茂平ら「服装審議会」の関係者とともに選考過程の一部に携わりえたという以上のことは不明である。「第三回服装小委員会」で「関係者や服飾研究家に再検討してもらい、よければ同日決定」という1964年3月3日の『読売新聞』の一文を踏まえて想像を働かせるなら、おそらく、既に前年から検討が重ねられてきた選手団公式服装のデザインの細部について意見を述べるというようなことであったろう。

 

(注20)選手団公式服装のデザインは、「第一回服装小委員会」(1964年2月3日)、「第二回服装小委員会」(3月2日)、「第三回服装小委員会」(3月11日)を経て最終決定に至った。

 

しかし、繰り返しになるが、石津が関わりを持ったのが選手団公式服装のブレザーであったか、一方の平服ブレザーであったか、あるいはその両方であったか、確かなことは分からない。この点については、新たな資料による裏付けが求められるところである。

 

ここで再び本稿が掲げる「石津謙介は64年東京五輪選手団公式服装の監修者たりえたか」という問いに立ち帰るなら、「服装審議会」の関係者の一人として意見を述べることがあったかもしれないしなかったかもしれないというレベルのことを拠り所として、「石津謙介監修」と言うことはできない。それを「監修」と言うのは、「監督すなわち多くの者を取りまとめ指揮・指導すること」という「監修」の語義からしても明らかな言語矛盾であろう。

 

さて、ここで一つの仮説を立てることにしよう。

 

石津が64年東京五輪のユニフォームの仕事に携わっていたことは確かである。すなわち、彼は、東京五輪をめぐって、望月や日本体育協会の関係者たちとほとんど同じところで仕事をしていた(注21)。石津は、そこで、注文服業者がやたらと幅を利かせているのを目の当たりにして何か思うところがあったのではないだろうか。そうした日本体育協会周辺の状況は、物資調達がままならなかった頃の彼らの働きゆえのものだが、視点を換えてみれば、石津のような既製服業者から活躍の機会を奪うものでもあった。石津がそれに不満を持ったとしても不思議ではない。その発露として、彼が、先述の『読売新聞』に掲載された「貧乏人の注文服」批判を書いたと考えることはそう無理のある推論でもないだろう。

 

(注21)本文中でも触れた通り、服装審議委員を務めた柴田勝治と近藤天はJOCの委員で「服装小委員会」のメンバーでもある。

 

 

――――――

 

最後に、以下の二つのことを強調して本稿を締め括りたい。一つは、石津謙介が東京五輪の選手団公式服装の仕事に携わっていなくとも、彼が手がけた「VAN」の服飾史的意義は揺るがず、また、同様にして、「VAN」の服飾史的意義がいかに大きなものであろうと、それは、望月靖之という一人の人間の仕事とそこに込められた思いがいい加減に扱われることの免責理由にはなりえないということ。もう一つは、今後、新たな資料が発見ないしは公開された時、歴史の記述に再び何らかの修正が求められる可能性も決してゼロではないということである。

 

 

【追記】

2016年11月17日、筆者は、石津謙介の右腕として知られたくろすとしゆき氏(82)にお話をうかがう機会を得た。非常に貴重な機会であったと思う。

 

2007年7月26日から2016年9月8日まで、JOCのホームページには、64年東京五輪の選手団公式服装に関するくろす氏のインタビュー記事が掲載されてきた。それをデザインしたのは石津謙介であるという内容だった。

 

くろす氏によると、この記事の内容はくろす氏の実際の発言に相当編集が加わっており、くろす氏ご自身の記憶としては、石津謙介が東京五輪の仕事に携わっていたことは確かだが、64年当時から、くろす氏を含む「VAN」の関係者たちは、あの選手団公式服装が石津によって手がけられたものであるとの認識は持っていなかったという。一方で、64年頃に石津から「オリンピックのブレザーのデザイン画を描いてくれ」「色は赤」との指示を受けたことがあり、上記インタビュー記事のために秩父宮記念スポーツ博物館で行われた対談でもそのことには触れたという。しかし、この「オリンピックのブレザー」というのが、正確に何のためのものであったか、選手団公式服装なのかスタッフ用ユニフォームなのか、最終的にどこに提出されたかといった詳細は分からず(注22)、そのデザイン画が選手団公式服装の原案になったというニュアンスでそう語ったわけではないようである。また、対談の際の印象として、「石津謙介がやったことにしたいみたいな雰囲気」があったそうだ。

 

筆者は、当初、くろす氏のこうした説明に対して半信半疑だったのだが、確かに、他の機会におけるくろす氏の発言は、「あの当時は金ボタンのブレザーは派手すぎてなかなか売れなかった。オリンピックを期に風向きが変わり、VANへのブレザーの注文も増えていった」という点である程度一貫しており(注23)、上記インタビュー記事の「発言」だけが不自然に浮き上がっていることは事実である。あるいは、ほとんど〝捏造〟に近い形で編集が行われたのかもしれない。ちなみに、JOCと秩父宮記念スポーツ博物館に問い合わせたところ、当時の担当者の他界や移動などによって詳細な事実関係の確認は困難であるとの回答だった。

 

なお、くろす氏は、本稿で言及した1963年5月号増刊の『デザイン』に掲載されていた記事についてはほとんど記憶がなく、「63年だと、『VAN』の人間に話を聞きたくて僕に取材を申し込むってことはまだないはずだから、まず石津に依頼が来て、石津が僕に回したんだと思います」とのことであった。

 

 

(注22)『オリンピック大会資料1~6』には、スタッフ用ユニフォームのコンペのために石津を含む13名の参加者たちから合計147点のデザイン画が提出されたとの記録がある。石津は、最終的に採用された作業員と用務員の男性用ユニフォーム(黄土色)のほかに、少なくとも、最終審査で採用されずに終わった「事務局一般職員及び事務局職員に準ずる者」と「守衛、競技運営本部要員」の男性用ユニフォームのデザイン画を提出していたはずであるから、くろす氏が依頼されたという「オリンピックのブレザーのデザイン画」はそのためのものであった可能性もある。

 

(注23)例えば以下の資料を参照。くろすとしゆき「『第二の黒船』来たる」『スポーツ文化』第3号、2006年7月。くろすとしゆき「1964年男性カジュアルファッションの幕開け」『オリンピック1964-2006』メディアバル、2006年。くろすとしゆき「アイビーはとんかつ。日本流にアレンジしたアメリカンファッションだった」『日本の男服:メンズファッションの源泉』神戸ファッション美術館、2013年。

 

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