2017.08.25

無数の断片の中に潜り込みながら――ドクメンタのナラティブ・テクニック

河南瑠莉 美術館・博物館学

文化 #ドクメンタ

今年で14回目を迎える現代美術の祭典「ドクメンタ」。5年に一度、ドイツの地方都市カッセルでは初夏から秋の開催期間にかけて街全体が「100日間の美術館」と化すのだが、今回は「アテネから学ぶ」という主題のもと、カッセルに先立ちアテネで展示がオープンするという異例の2都市開催となった。

かつては敗戦国ドイツの文化・芸術復興の象徴として出発し、今日まで世界最大規模の国際美術展として躍進してきたドクメンタが、この度その舞台の半身としてアテネを選んだことは、それだけでも非常に示唆的だ。未だに金融危機の爪痕を濃厚に残し、バルカンに面したEUの門戸として大規模の難民が流入するギリシアには、今日のEU社会が抱える問題とその希望の針路が集約されていると言えるだろう。

芸術監督アダム・シムジック(Adam Szymczyk)によってこの度アテネに託された「芸術による再生」という期待は、あるいは戦後ドイツにおいてドクメンタに課されてきた復興の願いに比せられるのかもしれない。それだけに、いまドイツの主導になる「アテネから学ぶ」という姿勢には、経済大国であり文化大国にも成り遂げたドイツの寛大さ、そして少なからぬ横柄さが垣間見えるのではないだろうか。

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(フリードリッヒ広場を眺めて左手に見えるのがMarta Minujínによる“The Parthenon of Books”。右手の建物がフリデリチアヌム美術館。美術館の塔から雲へぶつかるように煙が出ているのは、Daniel Knorr によるインスタレーション“Expiration Movement”である。 Photo:Ruri Kawanami)

フリードリッヒ広場にそびえ立つ仮設のパルテノン神殿は、今回の祭典の象徴的存在だと言ってよいだろう。ドクメンタ・ハレやフリデリチアヌムといったメイン会場に周りを囲まれたこの広場は、ひょっとすると輪郭のぼやけがちなこの巨大美術祭における唯一の中心地であり、じっさい、来観客の多くが真っ先に目にする作品もこの神殿なのではないか。

マルタ・ミヌヒン(Marta Minujín)の “The Parthenon of Books” は、鉄柱と発禁書を素材に、アクロポリスの神殿を等身大で再現する。制作にあたっては今まで発禁処分を受けたことのある書物およそ10万点あまりが世界各地から募られ、会期中も書物が集まり次第、徐々に支柱が完成されてゆくのだという。ナチス・ドイツ時代には焚書も行われたという広場の上に、初期民主主義の理想パルテノン神殿を逐一復元していく――この象徴的な行為には、アテネから学びうるものに関して極めて明確なメッセージが具現化される。

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(Marta Minujín “Panthenon of Books” 。鉄柱の神殿に近づくと、ムジール、トゥコルスキー、エンゲルスなどの書物がパッキングの裏から顔を覗かせる。 Photo: Ruri Kawanami )

ギリシアの再来――フリデリチアヌム(Friedericium)

さて、メイン会場の中でもフリデリチアヌム美術館は、その規模においてもコンセプトにおいても「アテネ」の存在を強く体感する場所だ。館内にはギリシア国立現代美術館(EMTS)のコレクションが特別展示されているが、これは展示の副題「ANTIDORON」の額面通り、アテネからカッセルヘ「お返し」の贈り物なのだという。ギリシアを中心に各国アーティストの作品が、戦後から近年までの現代美術の流れを概括的に追う形で展示されているが、特に近年のものではキプロス紛争など、ギリシアを取り巻く政治状況を密接に反映させた作品が目立った。

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(アテネ出身の彫刻家Costas Varotsosによるインスタレーション “Untitled” (2017)。「国家」の象徴である国旗が、ガラスの破片と化しながら海のように交わり合う。Photo:Takafumi Tsukamoto)

会場の一角に展示された、ATMのヴィヴィッドなカラー写真が痛々しく眼にとまる。アテネ出身の写真家Manolis Baboussis の連作“Busts” から、ドイツ、フランス、ギリシア のATM接写が3枚展示されているにすぎないのだが、これは皮肉にも、発表から20年経った今日のギリシアの運命を予言してしまうことになったようだ。銀行機能に打撃を受け、現金が枯渇したギリシアでは、個人の出金額に厳しい制限が設けられた。空っぽになってしまったATMを前に当惑する者の姿が生々しく報道されたのは、わたしたちの記録にも古くはないだろう。彼らが求めたのはもちろん、経済大国ドイツ・フランスの支援だった。

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(Manolis Baboussis “Busts”(1997/8年) Photo:Takafumi Tsukamoto)

鋭いメッセージを発する「贈り物」を目の前に、カッセルを訪れる私たちはアテネからいったい何を学べるのだろうか。古代ギリシアはいつも、理想化された姿でしか現れない。しかし私たちがアテネを、自らの理想を無限に投射できるような対象としてみなす限り、そこには、ある現実が埋没されてしまう。ギリシアは、ドイツ政府により幾度となく縮小財政を強要され、生活保障や保険など社会福祉のカットを余儀なくされてきた。そんな危機の国ギリシアに今、ふんだんな文化予算を抱えたドクメンタが降臨し「アテネから学ぼう」というのである。

それだけでない。渦中の国ギリシアに対する大国ドイツの寛大な救いのジェスチャーを、文化的に読み替えることもできるだろう。ヘーゲルによると西洋の文明はギリシア・ローマ世界でその萌芽を見た後、ゲルマン世界を通じて大陸ヨーロッパへ伝えられ、そこで精華を結ぶ。世界史を人間の精神が自由を獲得する「西進」の運動として捉えたヘーゲルの歴史哲学においては周知の通り、精神がその頂点を迎えたヨーロッパで、精神文化の産物である芸術もまたひとつの終焉を迎えるのである。EUという共同体の母胎を失いつつあるヨーロッパ社会が、今まさに西洋文明の発祥地であるギリシアを振り返るとは、やや懐古主義的な説教のように聞こえなくもない。

とはいってもこのような批判は、際立ってフレデリチアヌムに体現されるドクメンタのグランド・ナラティブを、その隙間に顔を覗かせる<個別>の物語との相関関係において検討しない限り、片手落ちと言わざるを得ないだろう。それでは、アテネの他にはどんな物語が語られるのだろうか。

展示というナラティブ

先を急ぐ前に、筆者自身の立ち位置を明らかにするためにも「展示」というメディアについて少し考えてみたい。展示されているものが、芸術作品であるか歴史的な資料であるかはひとまずは問わないでおこう。

展示空間は、個別のオブジェの選別、配置、あるいは不在を通して、一定のまとまりをもつナラティブを展開する。これは展示という空間が媒体的である以上、つまり展示がオブジェのみからは成立し得ず、そこにはつねにすでに空間を作る者(キュレーター等)と観る者が介在する限り、否応無しにつきまとう問題だ。だから、ある実現された展示を、それを通じてナラティブが構成されるメディア空間として捉えるとき、あるいは特定の知が集積・伝達される知の装置として捉えるとき、その「語り」の有効性と権力構造を確認すること、これは博物館学的に重要な関心である。

もちろん、だからといって展示されたオブジェの固有性がないがしろにされていいわけではない。作品はひとつひとつが交換不可能で、代替不可能であるような究極的な単独を形成する。それが伝える物語は固有のものだし、そうした究極的な<個別>との対峙から生まれる芸術経験は、どこまでいっても<全体>のナレーションには還元されきれない唯一無二のもののはずだ。

けれど特にドクメンタのようなテーマ展であったり、展示が単なる見本市ではなく一定の態度表明である場合、それが芸術を通じて問おうとする問題設定の有効性、あるいは語ろうとする「物語」の恣意性を、展示されたオブジェとの相関関係において吟味する、このことは、芸術の政治性を考察するにあたって有効な批判的視座を与えてくれるのではないだろうか。それはつまり、限りなく個別であり単独である作品を、ドクメンタという祭典がまさに「ドキュメント=記録」しようとするナラティブと照らし合わせることによって、ドクメンタの「物語」のテクニックを批評することだ。

したがってこの論考でも、個々の作品をその美学的な側面以上に、それを位置付ける広い座標系との関連において吟味することに大きな関心が寄せられていることを、断っておきたい。

ノイエ・ギャラリーと見晴らしの丘

メイン会場の中でも、ノイエ・ギャラリー(Neue Galerie)とそれに隣接するパレ・ベルヴュー(Palais Bellevue)では特に、西洋の植民地主義、国民国家主義の時代が残した負の遺産に対峙する作品が多く見られる。

中でもノイエ・ギャラリーの正面展示室に設置された、図書館の一角を彷彿とさせる書架のインスタレーションは、その日常的な場景ゆえになおさら注目を集める。マリア・アイヒホルン(Maria Eichhorn)は、ベルリン中央州立図書館(ZLB)の蔵書から、対戦中にユダヤ人から強制没収・売却された書物の一部を取り出し書架として展示する。

いくつかの図書は、ユダヤ人であることを表す「J」の登録番号を背中にのせているが、戦時中に略奪された書物の中でもこうして出自が判明しているものは、ほんの一部でしかない。というのも、略奪書の出自をめぐってはようやく2010年になって調査チームが作られ、将来的には本来の持ち主(とその所有を受け継ぐもの)への返却手続きがとられることになったのだという。現在明らかになっているだけでも、1943年にはおよそ4万点の書籍がユダヤ人住居から没収され、戦後もさらに2万点あまりが寄付と称して図書館に流れ込んだという。アイヒホルンはこの他にも、ドクメンタ会期中に始動するプロジェクト「Rose Valland Institute」を立ち上げ、ユダヤ人から奪われた物品に関する情報を募っている。

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(Maria Eichhorn “Unlawfully Acquired Books from Jewish Ownership” (2017) Photo Takafumi Tsukamoto)

文化と略奪をめぐっては他にも、コンゴ出身でベルギー在住のサミー・バロジ(Sammy Baloji)の展示が興味深い。ラフィア葦から織られたマットや、高級布地の模様をネガにした木版画など、コンゴの民芸織物がガラスケースに飾られているが、他の展示と同様、ここにもオブジェの使われた文脈を「解説」する注釈などは一切なく、ただただ美学的な鑑賞物として陳列される。

先に、展示されるものが芸術作品か歴史資料であるかは、とりあえずはさて置くと話した。そもそも「芸術作品」と文化人類学的な「資料」という範疇を決める基準そのものの恣意性を自己批判的に反省することは、ドクメンタのみならず近年の美術展が己に課してきた重要な課題である。19世紀のヨーロッパにおいて「美術」と「民俗学」がそれぞれ独立した分野として確立しようとするとき、ミュージアムもまた「美術館」と「博物館」へと分離していったのだが、展示という装置はそこでも「物語」によって――つまり「他者=民俗芸能」から「自己=芸術」を隔てる言説を作り出すことによって――芸術の定義を試みてきたのだった。

とはいっても、展示室に申し訳なさそうに非西洋諸国の民芸品を当てがい、それが本来属していた文脈と切り離した上で美術作品として「復権」させたり「昇格」させようという試みは、単に父権主義的なお節介であるだけでなく、博物館が依然として有する知の権力構造を別の形で露呈させることにもなるだろう。

この意味でバロジの展示は両義的だ。一方では民芸品であり、他方では作品であることによって、芸術の無根拠性を無言でドキュメントする。芸術が歴史的につくられてきた概念であるならば、国際美術展がそもそも「芸術」の祭典である限り、非西洋文化圏のアーティストにはどんな表現が残されているというのか。彼女の作品は、美術史上における復権や承認を要求することはない。大きな波紋をたてることなく、しかし、ただそこに鎮座することによって、歴史的構造物としての「芸術」の根拠の暗さについて対話を求めるのである。

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(Fragments of Interlaced Dialogues” Photo: d14 Sammy Baloji Installation View Neue Galerie©Mathias Voelzke)

カッセル市内でも随一の見晴らしのよい丘の上に、その名「bellevue」に恥じることなく君臨するノイエ・ギャラリー。奇しくもその内部において、まさしく19世紀の西洋近代が確立しようと試みた「近代芸術」が、自らの生み出した矛盾の重みに耐えきれずに内側から自壊されていく、とそのような幻想を心に抱くのは深読みすぎるだろうか。【次ページに続く】

権力の表象

フリデリチアヌムとノイエ・ギャラリーでは各会場のテーマに添いながらも常設コレクションから多く展示されていたのに対し、ドクメンタ・ハレ(documenta Halle)、そして中央郵便局を改修したノイエ・ノイエ・ギャラリー(Neue Nue Galerie/Neue Hauptpost)には新作が多数集まった。

少数民族やマイノリティーの文化抑圧、未だに強く根付く人種差別などヘビーな政治的テーマをめぐり、ストレートで実直な表現をする作品が目立ったが、ここでは同じ「抵抗」をめぐるふたつの全く異なる表現を紹介しよう。

ノルウェー人アーティスト、マレット・アンネ・サラ(Máret Ánne Sara)も、スウェーデン人アーティストのブリッタ・マラカット=ラッバ(Britta Marakatt-Labba)も、どちらも北欧先住民族サーミの伝統文化である「トナカイ」をモチーフに、政府の抑圧と抵抗を表現している。伝統的に遊牧民であったサーミにとって、トナカイとは単なる食料や財産ではなく、彼らの生活文化一般に広く浸透した文化的遺産だ。

ノルウェー政府は2007年、トナカイの生体数削減を目的として、サーミの所有するトナカイの強制処分を可能にする法律を制定した。サラは、トナカイの頭蓋骨からは巨大なカーテンを、身体の骨とその遺灰からは人の大きさほどもあるネックレスを作ることで、ノルウェー政府の強引なトナカイ処分を批判する。家紋付きのカーテンや高価な素材をあしらったネックレスは、古くから王権や国権を象徴する装飾品であったのだが、こうした権力の装具がまさに他者の死体から作られていることを、サラの作品は極めて明確に可視化させているだろう。

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(Máret Ánne Sara ”Pile o’ Sámpi (2017) ” Neue Neue Galerie, Photo Ruri Kawanami)

まったく対照的な作法で失われつつあるサーミの生活文化を表現したのは、スウェーデンで代々トナカイ業に携わる家庭に生まれたマラカット=ラッバだ。彼女は、20mを超える一枚の反物の上にサーミの歴史と文化を繊細な刺繍で織り込めた。そこには、まずは森があったこと、森から狐や熊、トナカイといった動物が生まれたこと、次にサーミ族が現れ、そして人間とトナカイの共同生活がはじまった様子など、サーミの宇宙観がひとつひとつ丁寧に描かれている。反物の奏でる神話の世界を追ってゆくと、政府による抑圧や自決集会といった抵抗の瞬間も登場し、一枚の反の上にサーミの文化史が神話的起源から現代にひきつがれる形で凝縮されている。

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(Britta Marakatt-Labba”Historja” (2003-07)より一部拡大. documenta Halle. Photo Ruri Kawanami)

権力をめぐる作品で最後にひとつユーモアのある作品を紹介しよう。たっぷりの光が流れ込むドクメンタ・ハレでは特に大型展示に視線が移りがちだが、その中で、単なる床もしくは通路として見逃してしまいそうになる舞台装置がある。「Scène à L’Italienne, Proscenium(2014)」は、何も起こらない舞台だ。むしろ何も起こってはいけないという。アニー・ヴィジエとフランク・アペルテ(Annie Vigier & Franck Apertet)は、舞台の歴史を権力の歴史だと捉える。それは、例えば演劇であれば役者と観客、討論であれば論者と聴衆との間に明確な線を引き、いちど舞台建築によって固定化された両者の関係は「インタラクティブ」などという都合の良い民主的な言葉では拭えない力の隔たりを生むからだ。

何も起こらない舞台装置は、舞台という芸術メディアに孕む権威をアイロニカルに自己言及するが、それは決して、舞台であることをやめたわけではない。半ば展示空間の床と化した舞台で唯一壇上に上げられるもの、あえて言うならばそれはドクメンタという展示、そして美術館をおとずれる私たち鑑賞者の姿なのだ。そこでは、「芸術」を支える制度としての美術展示、そして自発的(とされた)鑑賞者の主体そのものが、揶揄的な観察の対象となるのである。

「知の編纂」から「アーカイブ的錯乱」へ

とにかくドクメンタは巨大である。カッセルだけでも、4つのメイン会場群にはじまり市内には35会場延べ160あまりのアーティストの作品が茫漠と広がる。文脈に依存したドキュメント形式の作品が多く見受けられる割には、背景知識を補うようなキャプションや説明は控えめで、観覧者は次から次へと作品を鑑賞する行為そのものに、疲労をおぼえるときもあるのではないだろうか。一方ではアテネが象徴的に具現化されているものの、映画館、大学、屋外展示など会場ごとにテーマは煩雑で、作品を求めて市内を彷徨すればするほど、ドクメンタの全体像は、砂がこぼれ落ちるように遠のいてゆくのだ。

西洋近代に生まれた「ミュージアム」とはかつて、オブジェを蒐集し、分類体系を整え、それを選択的に展示することで、万物を説明する体系を築こうとする知の権力装置であった。美術館における「展示」というメディアは、――まるでパノプティコンが囚人に監視の視線を内面化させていったことに酷似するかたちで――観る者に一定の「正読法」を内面化させることによって、芸術にまつわる特定の知を形成していったのだった。

この規範は、展示メディアが19世紀的なミュージアムから、20世紀の均質的空間(ホワイトキューブなど)へと変移しながらも継承されてきたし、むしろ展示というものが、アーカイブに無限に保存されうる情報や知見を選択し編集することで、そこにあらたな価値を付与するものである以上、こうした編纂行為としてのキュレーションには、今日でもますます積極的な意味が期待されている。

そう考えれば、この肥大化しようするドクメンタにまつわる疲労はある意味では、地図上から「監視塔=知の伝達者」の置かれていた場所を、完全とは言わずとも、ある程度塗りつぶすことによって生まれた錯乱だと言えるのかもしれない。展示だけではない。ドクメンタの取りとめのなさは、100日間日替わりで開かれるトークやワークショップなどのイベント、700頁越のガイドブック『Reader』や作品のコンセプトブック『Day Book』、公式雑誌『South』など膨大な数の出版物といった、個人にはとうてい消化できないほどの情報過多によっても現わされる。

情報・資料の過剰、これは、肥大化したドクメンタの余分なのだろうか。未編纂の情報の波の中からは、ともすると時事的に消費されてしまいかねない「アテネ」という主題には収斂されることのない、拡散的で多声的なエピソードが浮かび上がる。であるならば、こうは言えないだろうか。全体を透視する立場を拒むような疲労と錯乱のアーキテクチャによって、ドクメンタにおいて展示というメディアは知の伝達と教育のための道具であることをやめ、個々人の経験に開かれるのだと。国際美術展に、テーマ性に基づく見通しのよい展望を予期していた者は、期待を裏切られることにもなるだろう。

そもそもドクメンタの<全体>など俯瞰的に捉えるのが不可能なわたしたち個人は、<個別>の作品との対峙によって薄片的な、しかし一回限りの体験をするしかない。ドクメンタが記録しようとする<全体>への手がかりは、まさにどこまでもいってもランダムな薄片である<個別>の経験との照らしあいによってしか浮かび上がらないのだ。

<個別>にまつわる独自の経験から直ちに<全体>を導き出すことはできないにせよ、そのことを承知の上で、観る者が断片的なものの集積から自分なりの総体を作ること、そして無数の断片の中に潜り込みながら芸術の意味を積極的に咀嚼してゆくこと――もしかしたら、このアーカイブ的な錯乱こそが、中央集権的な知の装置であることをやめたドクメンタの提示する、新たな国際美術展のひとつの可能性なのではないか。

「展示に近づく最良の方法とは、自分が今まで知ってると思い込んでいたものを忘れてみることだ」とはアダム・シムジック自身の言葉である。ドクメンタは、近代的美術館が自明としてきたストラクチャー(観察者という主体を作品のメタレベルに立たせ、鳥瞰的ナラティブのもとに芸術を理解するという構造)を再現するのではなく、むしろ美術館にまつわる透視的な眼差しのレッスンそのものを芸術のイデオロギーとしてカッコにいれること、それによって、<全体>として物語化されてしまう以前の単独の経験を担保しようとしたのかもしれない。

さて、これまでドクメンタの<個別>と<全体>の緊張関係を問題にすることで、ドクメンタという美術祭のナラティブ・テクニックを考察しようと試みてきた。しかし、「国際」美術の祭典であるドクメンタもまた、ビエンナーレやトリエンナーレなどの大規模美術展が頻発する今日のアート界の中のでは、やはり一つのローカルな<個別>にすぎないことも主張しておこう。

敗戦国ドイツという歴史的に固有の土壌から生まれ、そして、EU屈指の経済大国ドイツの文化事業として、ドクメンタが芸術を通じて語ろうとする物語は、ドイツという必然性から離れられることはない。2017年はヴェネチア・ビエンナーレやミュンスター彫刻プロジェクトなど国際美術の祭典が重なる10年に一度のゴールデンイヤーである。芸術を、それにまつわる物語の中で構築されるような構造物として見るとき、国際美術祭という語り部が、何をどう語ろうとするのか、非常に興味深い。

documenta 14

開催期間:アテネ 2017年4月8日〜6月16日/カッセル:2017年6月10日〜9月17日

www.documenta14.de

プロフィール

河南瑠莉美術館・博物館学

1990年生まれ。ベルリン・フンボルト大学文化科学研究科 修士課程在籍。専門は、美術館・博物館学、メディア文化史、近代思想史。

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