無数の断片の中に潜り込みながら――ドクメンタのナラティブ・テクニック

権力の表象

 

フリデリチアヌムとノイエ・ギャラリーでは各会場のテーマに添いながらも常設コレクションから多く展示されていたのに対し、ドクメンタ・ハレ(documenta Halle)、そして中央郵便局を改修したノイエ・ノイエ・ギャラリー(Neue Nue Galerie/Neue Hauptpost)には新作が多数集まった。

 

少数民族やマイノリティーの文化抑圧、未だに強く根付く人種差別などヘビーな政治的テーマをめぐり、ストレートで実直な表現をする作品が目立ったが、ここでは同じ「抵抗」をめぐるふたつの全く異なる表現を紹介しよう。

 

ノルウェー人アーティスト、マレット・アンネ・サラ(Máret Ánne Sara)も、スウェーデン人アーティストのブリッタ・マラカット=ラッバ(Britta Marakatt-Labba)も、どちらも北欧先住民族サーミの伝統文化である「トナカイ」をモチーフに、政府の抑圧と抵抗を表現している。伝統的に遊牧民であったサーミにとって、トナカイとは単なる食料や財産ではなく、彼らの生活文化一般に広く浸透した文化的遺産だ。

 

ノルウェー政府は2007年、トナカイの生体数削減を目的として、サーミの所有するトナカイの強制処分を可能にする法律を制定した。サラは、トナカイの頭蓋骨からは巨大なカーテンを、身体の骨とその遺灰からは人の大きさほどもあるネックレスを作ることで、ノルウェー政府の強引なトナカイ処分を批判する。家紋付きのカーテンや高価な素材をあしらったネックレスは、古くから王権や国権を象徴する装飾品であったのだが、こうした権力の装具がまさに他者の死体から作られていることを、サラの作品は極めて明確に可視化させているだろう。

 

 

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(Máret Ánne Sara ”Pile o’ Sámpi (2017) ” Neue Neue Galerie, Photo Ruri Kawanami)

 

 

まったく対照的な作法で失われつつあるサーミの生活文化を表現したのは、スウェーデンで代々トナカイ業に携わる家庭に生まれたマラカット=ラッバだ。彼女は、20mを超える一枚の反物の上にサーミの歴史と文化を繊細な刺繍で織り込めた。そこには、まずは森があったこと、森から狐や熊、トナカイといった動物が生まれたこと、次にサーミ族が現れ、そして人間とトナカイの共同生活がはじまった様子など、サーミの宇宙観がひとつひとつ丁寧に描かれている。反物の奏でる神話の世界を追ってゆくと、政府による抑圧や自決集会といった抵抗の瞬間も登場し、一枚の反の上にサーミの文化史が神話的起源から現代にひきつがれる形で凝縮されている。

 

 

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(Britta Marakatt-Labba”Historja” (2003-07)より一部拡大. documenta Halle. Photo Ruri Kawanami)

 

 

権力をめぐる作品で最後にひとつユーモアのある作品を紹介しよう。たっぷりの光が流れ込むドクメンタ・ハレでは特に大型展示に視線が移りがちだが、その中で、単なる床もしくは通路として見逃してしまいそうになる舞台装置がある。「Scène à L’Italienne, Proscenium(2014)」は、何も起こらない舞台だ。むしろ何も起こってはいけないという。アニー・ヴィジエとフランク・アペルテ(Annie Vigier & Franck Apertet)は、舞台の歴史を権力の歴史だと捉える。それは、例えば演劇であれば役者と観客、討論であれば論者と聴衆との間に明確な線を引き、いちど舞台建築によって固定化された両者の関係は「インタラクティブ」などという都合の良い民主的な言葉では拭えない力の隔たりを生むからだ。

 

何も起こらない舞台装置は、舞台という芸術メディアに孕む権威をアイロニカルに自己言及するが、それは決して、舞台であることをやめたわけではない。半ば展示空間の床と化した舞台で唯一壇上に上げられるもの、あえて言うならばそれはドクメンタという展示、そして美術館をおとずれる私たち鑑賞者の姿なのだ。そこでは、「芸術」を支える制度としての美術展示、そして自発的(とされた)鑑賞者の主体そのものが、揶揄的な観察の対象となるのである。

 

 

「知の編纂」から「アーカイブ的錯乱」へ

 

とにかくドクメンタは巨大である。カッセルだけでも、4つのメイン会場群にはじまり市内には35会場延べ160あまりのアーティストの作品が茫漠と広がる。文脈に依存したドキュメント形式の作品が多く見受けられる割には、背景知識を補うようなキャプションや説明は控えめで、観覧者は次から次へと作品を鑑賞する行為そのものに、疲労をおぼえるときもあるのではないだろうか。一方ではアテネが象徴的に具現化されているものの、映画館、大学、屋外展示など会場ごとにテーマは煩雑で、作品を求めて市内を彷徨すればするほど、ドクメンタの全体像は、砂がこぼれ落ちるように遠のいてゆくのだ。

 

西洋近代に生まれた「ミュージアム」とはかつて、オブジェを蒐集し、分類体系を整え、それを選択的に展示することで、万物を説明する体系を築こうとする知の権力装置であった。美術館における「展示」というメディアは、――まるでパノプティコンが囚人に監視の視線を内面化させていったことに酷似するかたちで――観る者に一定の「正読法」を内面化させることによって、芸術にまつわる特定の知を形成していったのだった。

 

この規範は、展示メディアが19世紀的なミュージアムから、20世紀の均質的空間(ホワイトキューブなど)へと変移しながらも継承されてきたし、むしろ展示というものが、アーカイブに無限に保存されうる情報や知見を選択し編集することで、そこにあらたな価値を付与するものである以上、こうした編纂行為としてのキュレーションには、今日でもますます積極的な意味が期待されている。

 

そう考えれば、この肥大化しようするドクメンタにまつわる疲労はある意味では、地図上から「監視塔=知の伝達者」の置かれていた場所を、完全とは言わずとも、ある程度塗りつぶすことによって生まれた錯乱だと言えるのかもしれない。展示だけではない。ドクメンタの取りとめのなさは、100日間日替わりで開かれるトークやワークショップなどのイベント、700頁越のガイドブック『Reader』や作品のコンセプトブック『Day Book』、公式雑誌『South』など膨大な数の出版物といった、個人にはとうてい消化できないほどの情報過多によっても現わされる。

 

情報・資料の過剰、これは、肥大化したドクメンタの余分なのだろうか。未編纂の情報の波の中からは、ともすると時事的に消費されてしまいかねない「アテネ」という主題には収斂されることのない、拡散的で多声的なエピソードが浮かび上がる。であるならば、こうは言えないだろうか。全体を透視する立場を拒むような疲労と錯乱のアーキテクチャによって、ドクメンタにおいて展示というメディアは知の伝達と教育のための道具であることをやめ、個々人の経験に開かれるのだと。国際美術展に、テーマ性に基づく見通しのよい展望を予期していた者は、期待を裏切られることにもなるだろう。

 

そもそもドクメンタの<全体>など俯瞰的に捉えるのが不可能なわたしたち個人は、<個別>の作品との対峙によって薄片的な、しかし一回限りの体験をするしかない。ドクメンタが記録しようとする<全体>への手がかりは、まさにどこまでもいってもランダムな薄片である<個別>の経験との照らしあいによってしか浮かび上がらないのだ。

 

<個別>にまつわる独自の経験から直ちに<全体>を導き出すことはできないにせよ、そのことを承知の上で、観る者が断片的なものの集積から自分なりの総体を作ること、そして無数の断片の中に潜り込みながら芸術の意味を積極的に咀嚼してゆくこと――もしかしたら、このアーカイブ的な錯乱こそが、中央集権的な知の装置であることをやめたドクメンタの提示する、新たな国際美術展のひとつの可能性なのではないか。

 

「展示に近づく最良の方法とは、自分が今まで知ってると思い込んでいたものを忘れてみることだ」とはアダム・シムジック自身の言葉である。ドクメンタは、近代的美術館が自明としてきたストラクチャー(観察者という主体を作品のメタレベルに立たせ、鳥瞰的ナラティブのもとに芸術を理解するという構造)を再現するのではなく、むしろ美術館にまつわる透視的な眼差しのレッスンそのものを芸術のイデオロギーとしてカッコにいれること、それによって、<全体>として物語化されてしまう以前の単独の経験を担保しようとしたのかもしれない。

 

さて、これまでドクメンタの<個別>と<全体>の緊張関係を問題にすることで、ドクメンタという美術祭のナラティブ・テクニックを考察しようと試みてきた。しかし、「国際」美術の祭典であるドクメンタもまた、ビエンナーレやトリエンナーレなどの大規模美術展が頻発する今日のアート界の中のでは、やはり一つのローカルな<個別>にすぎないことも主張しておこう。

 

敗戦国ドイツという歴史的に固有の土壌から生まれ、そして、EU屈指の経済大国ドイツの文化事業として、ドクメンタが芸術を通じて語ろうとする物語は、ドイツという必然性から離れられることはない。2017年はヴェネチア・ビエンナーレやミュンスター彫刻プロジェクトなど国際美術の祭典が重なる10年に一度のゴールデンイヤーである。芸術を、それにまつわる物語の中で構築されるような構造物として見るとき、国際美術祭という語り部が、何をどう語ろうとするのか、非常に興味深い。

 

documenta 14

開催期間:アテネ 2017年4月8日〜6月16日/カッセル:2017年6月10日〜9月17日

www.documenta14.de

 

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