ふたつの人間関係原理の幸せな「総合」──旧リベラル派の「社会契約」という「ゴマカシ」

今回の記事は、10月下旬にお読みいただく予定でしたが、ここまで執筆が遅れてしまいましたことをお詫びいたします。

 

言い訳がてらになりますが、この連載の第1回から第8回までの記事に加筆修正したものが、このほどPHP研究所さんから出版のはこびとなりました。なんとか無事仕上がりましたのも、読者のみなさんからのご激励、ご批判の賜物と思っております。本当にありがとうございます。

 

PHP新書で、『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼──巨人たちは経済政策の混迷を解く鍵をすでに知っていた』というタイトルをつけていただきました。この数日のうちにはご入手いただけますので、どうかよろしくお願いします。

 

シノドスさんから、今回の記事の締め切りとして最初ご指定いただいた日の朝まで、この本の再校作業をしておりまして、そのあと本稿を書きはじめました矢先、親族の弔事があり数日執筆がストップしてしまいました。そのため、掲載が大幅に遅れてしまいました。毎回お待ちいただいているみなさんには、ご心配をおかけしまして、もうしわけありません。

 

 

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

 

 

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固定的人間関係と流動的人間関係の間の矛盾

 

第9回以降のお話をまとめると、人間関係の原理には固定的人間関係の原理と、流動的人間関係の原理とがあって、その各関係の中でスムーズな協力関係を維持して個々人が便益を得られるためには、両原理それぞれの関係にフィットした特有の振る舞い方や倫理体系があるのだということでした。これらは、両者の人間関係原理の間では、ときには正反対になるぐらい異なっていて、混ぜるとおかしなことになってしまうということでした。具体的には――

 

固定的人間関係では、身内への忠実が第一の道徳となる。自分の意思にかかわらず集団内で与えられている役割を果たすことが「責任」であり、取引というものは集団の外とするもので、その際には他人を食い物にして身内に資することは悪いことではないといった行動原理がフィットする。

 

流動的人間関係では、他人への誠実が第一の道徳であり、自分の自由意思で選んだ結果を引き受けることが「責任」となる。取引とは当事者双方がトクをする善行で、集団の内外でわけへだてすることは悪いことだという行動原理がフィットする。

 

――ということです。固定的人間関係にフィットした道徳は「武士道型」、流動的人間関係にフィットした道徳は「商人道型」ということができます。

 

そして、80年代以降、固定的人間関係がメジャーなシステムが崩れていき、流動的人間関係がメジャーな世界になってきているのに、依然として、人々の頭の中は固定的人間関係向けの行動原理が残っているので、そのせいでお互い食い物にしあったり叩き合ったりする風潮が生まれるのだということを論じました。

 

このように見ると、なるほど両者を混ぜたらおかしくなるというのはわかります。しかし、70年代までだって、固定的人間関係だけで世の中びっちり覆われていたのかというと、そんなわけはありません。ソ連型のシステムの国ではある程度そんな感じだったかもしれませんけど、西側の国々は一応、普通の資本主義を標榜していたわけで、まがりなりにも市場システムが世の中を覆っていました。タテマエだけのときも往々にしてあったにせよ、取引の自由は社会システムの大原則とされてきたわけです。先進資本主義国の中でもとりわけ固定的人間関係原理が強かった日本だってそうでした。

 

そうであるならば、70年代までは、固定的人間関係と流動的人間関係との間の矛盾はどのように解決されていたのでしょうか。

 

 

福祉のための所得再分配は正当化されるのか

 

このことがとくに問題になるのは、戦後先進諸国の福祉国家体制の正当化を考えるときです。なぜ困った人の暮らしを保障するために、税金を取られなければならないのでしょうか。

 

一国全体が固定的人間関係としてばっちり統制のとれた共同体でありでもするならば、話は簡単です。「集団のメンバーとして、困った同胞を助ける責任がある」と言えばそれですみます。イエスもノーもありません。個人が自己決定するかどうかにかかわらず、最初から与えられている義務なのですから。

 

しかし、日々流動的人間関係の中で自由な取引に従事する近代人は、それとは違う原理で動いています。「取引」とは、互いにトクをするように自由に選ぶものです。寄付やボランティアだって同じです。相手もトクをして、自分も、「自己満足」なり「自分の成長」なりを見返りにいただいてトクをする。だからそれ目当てに自由に選ぶものです。市場メカニズムがメジャーにおおう世の中にフィットしているのは、こちらの方の原理です。これを先の「集団のメンバーとしての責任」原理と下手に混ぜることはできません。

 

それなのに、70年代に至ると、自由主義、個人主義の雄、アメリカにおいてすら、まがりなりにも「福祉国家」と呼ばれるシステムが築き上げられました。いったいこれは、どのように正当化されていたのでしょうか。

 

 

ロールズの「無知のベール」

 

その哲学的正当化をやったことで有名なのが、ジョン・ロールズ(1921-2002)です。彼が1971年に出した『正義論』[*1]が、アメリカでは「リベラル派」のバイブルとなって、福祉国家の構築を基礎づけたと言われます。ヨーロッパではいまでも、「リベラリズム(自由主義)」というのは、もともとの意味のとおり、経済活動の自由を志向する資本側の思想というニュアンスが強いらしいのですが、アメリカでは、ヨーロッパでは社会民主主義に属するような、社会福祉志向を持つ潮流がなぜか「リベラル」と呼ばれます。

 

[*1] ここでは、川本隆史、福間聡、神島裕子訳『正義論』改訂版(紀伊国屋書店、2010年)を用いる。1971年に初版が出たあと、さまざまな批判がなされたのを受けて、1999年に大幅な改訂がなされた新版が発表された。同上書はその改訂版の日本語訳である。本稿で言及されている箇所は、基本的に初版から共通する見解の部分である。

 

とはいえ、もちろんアメリカの「リベラル」だって、「リベラリズム」と言うからには自由主義の一種には違いないので、個人の自由に第一の価値を置くはずです。そうでありながら、福祉のために税金をとることをどう正当化したのでしょうか。

 

ロールズの編み出した理屈は、「無知のベール」と称する道具立てを使うことでした。それは、自分と他者の能力や立場についての知識をまったく持っていないということです。みんながこのような「無知のベール」に覆われた状態を「原初状態」と言い、そのもとで、理性的個人である各自が、みんなで知恵をしぼって基本的な社会原理を契約すると考えます[*2]。

 

[*2] 同上書18ページ。26-28ページ。

 

おとぎ話風に敷衍すれば、私たちがみな、生まれる前の天使だった状態を考えるわけです。みんなとっても賢くて、嫉妬なんて知らない無垢な天使です。だけど、どの地域に、どんな家に、どんな才能を持って生まれるかはまだ決まっていません。この状態で、天使たちが集まってきて、いい方法がないか考えた末、「ボクたち、どんな境遇に生まれても、最悪なことにはならないように助け合おうね」と、みんなで契約を結ぶというわけです。

 

いま私たちが、余裕があれば福祉のために税金を取られているのは、生まれる前の天使だったときに、こういう契約を交わしていたことの履行なのだということになります。

 

この契約の内容が「正義の二原理」[*3]と称する二つの原理です。その「第一原理」は、みんなが平等な「基本的自由」を持つということで、この自由は他人の自由と互いにぶつからない範囲のものでなければならないとされます。「第二原理」は、貧富の格差とか地位の格差は、あってもいいけどそれは条件付きだということを言っています。その条件は、ひとつは、この格差のおかげで、世の中で一番不遇な人々の境遇を、なんとか一番マシな状態にもっていける場合であること。もうひとつは、格差がもたらされるのは、誰に対しても開かれている地位や職務からくる場合にかぎることです。この一番目の条件が「格差原理」と呼ばれます。

 

[*3] 同上書84ページと114ページ、または402-404ページ。

 

この二つの原理のうち、第一原理がまず最優先で、それが満たされた上で、第二原理が満たされなければならないとされています。この第二原理の中の格差原理によって、困った人のために余裕のある人から税金をとる福祉政策が正当化されているわけです。

 

 

近代民主国家も理屈づけている「社会契約説」

 

こんな理屈を聞いても、「オレはそんな契約をした覚えはないぞ」とお感じになる読者も多いことでしょう。まったくそのとおりで、「天使の契約」なんてもちろんフィクションです。そのような違和感には大いに根拠があるでしょう。

 

でも、この種の理屈は、「フィクションだから」と言うだけで、簡単に切って捨てるわけにはいかないのです。こういった理屈の立て方は、「社会契約説」と言われて、そもそも近代民主国家というもの自体がこれに基づいて正当化されているものです。だから、これを否定すると、この日本国憲法体制も含めて、民主主義国家というもの自体がひっくり返ってしまいます。

 

すなわちこの理屈によれば、自由で独立した個人が、ばらばらに生きていたのでは不都合が多いので、みんなで、「こりゃいっちょ国家というものを結成しましょうや」と契約したのが「国家」というものだということになります。だから、主権は人民に帰属し、国政は人民の信託に基づき、民意にしたがって、人民の利益のために運営され、政府は民意にしたがって交代させられるということが正当化されます。

 

実際には、私たちは誰もこんな契約なんか結んでいないかもしれません。しかし、こういうフィクションを立てることで、独裁者による国政の私物化を避けて、人々の厚生を向上させる政治が実現できるわけです。

 

「契約」というものは、流動的人間関係の基本原理の一つです。結ぶも結ばないも自由ですが、結んだ以上は誠実にそれを履行することが流動的人間関係の中で課せされる責務です。この概念を利用して、本来別の原理でできているはずの国家という固定的人間関係を、自由な契約の産物として正当化しているわけです。【次ページへつづく】

 

 

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