2012.03.06

もう一度「一般理論」に挑戦する

山形浩生×飯田泰之

経済 #ハイエク#ケインズ#リフレ#雇用と利子とお金の一般理論#クルーグマン

リーマンショック以降、再び注目を集めたケインズ『一般理論』。そこには現在の不況に対する処方箋がたくさん詰まっている。しかし、ケインズの遺産をつつき回すだけでは今後の経済学が発展していくはずがない。経済学の未来はどっちだ! 山形浩生と飯田泰之の二人が語ります。

なぜ今『一般理論』なのか

飯田 まずは、なぜ今ケインズ(『要約 ケインズ 雇用と利子とお金の一般理論』)を訳そうと思ったのかを聞かせてください。

山形 解説にも書いたのですが、最初のきっかけは、松原隆一郎氏が「山形は最近リフレの話を一生懸命しているけど、ケインズは『一般理論』の最後のところでリフレ派を明白に否定しているのに、何を言っているんだ。もの知らずめ。素人め」と言ってきたことです。だから「この素人を相手にそういうことを言うかね、君。ちょっと素人の怖さを思い知らせてやろう」と思って。

まず最初に、最後の章を1段落ずつ要約してみせて、「問題のところはそういう意味じゃない。ここでケインズが『トンデモ経済学者』と指しているのは、明らかにリフレ派とは違う人たちのことなのだ。はい、松原隆一郎、負け。山形、1点」とやったんです。

それが終わった後、前のほうの章も同じように訳していきました。

これまで出されたケインズの解説書は、自分に都合のいいところをつまんで、あとは「ここは関係ないから飛ばして」というのが多いのを不満に思っていたので、全体として何が書いてあるのか自分なりにまとめたかったというのもあります。ひとつ、ふたつと訳を進めていったのですが、真ん中のほうは面倒くさくて飛ばしていたんです。それがあるとき、2ちゃんねるの某スレッドで、諸般の事情で脅されまして(笑)。中断して数年経っていたんですが、そういったひょんなことから、未訳の部分をやろうと思い立ちました。

あともうひとつ、クルーグマンが『一般理論』の読み方として、こういうことを言っていたんです。「この本は前菜が素晴らしい。それから、すごくおいしいデザートがやってくる。前菜では古典派って全然駄目だという話を延々としているので、すごく壮快。デザートの部分はケインズも面白がって『ゲゼルって頭がおかしいと思われているけど、じつはいいんだぜ』とか、どうでもいい話を山ほどして面白い。でも、真ん中のところの彼の理論のところはみんなちゃんと読まないで飛ばしちゃう。そこが『一般理論』の悲しいところだ」と。それじゃあ、みんなが飛ばしちゃうところをやろうじゃないかということで、一通りまとめてみたというところもあります。

飯田 実際、経済学部生でちょっとペダンチックなところがあるやつは『一般理論』を読もうと思うんですね。そのとき、『コンメンタール』(宮崎義一、伊東光晴)と『ケインズ『一般理論』を読む』(宇沢弘文)という、それを読んだ途端にさらにいっそうわけがわからなくなると有名な素晴らしい解説書と併せて読んで挫折する(笑)。だいたい学部のときに1回、院のときで1回、大人になって1回ぐらい挫折していると思うんですよ。

山形 『コンメンタール』とか、『『一般理論』を読む』だと、ケインズが批判している古典派の理論を数式やグラフを使って一生懸命説明して、「こんなのを彼は批判しようとしていたんだ」というあたりで力が尽きている。批判をしてるんだけど、じゃあ、何を言ったのかというあたりまでいっていないんですよね。

飯田 『一般理論』の冒頭を読むと、徹底的に「じつは今の主流の理論はこれから俺が語る理論のごく特殊ケースで、俺の理論ほうが一般理論である」と言っていますね。

山形 そう。でもそこだけだど、ケインズの理論がどう一般なのかがわからない。

この、なにが「一般」かというのは異論があって、その後出てきたヒックスは、やっぱりケインズのほうが特殊だと言ってますね。古典派のほうが一般的で、本来あるべき状態を言っていて、ケインズは普通では起こらない非常に特殊な事例な話をしているんじゃないかと。この「どっちが一般でどっちが特殊か」は、その後の古典派対ケインズの論争でもつづいています。

飯田 この論争については、ケインジアン(ケインズ経済学者)サイドの人が戦略をミスってしまったところがあるんです。そう言い返されたときにケインズ派は、「いや、この特殊な状況はごくしばしば見られるんだ」と返してしまった。そもそもどちらが一般的かについて論争せずに、「このときも、このときも成り立っていた」とやってしまったので、基本的な戦略で負けていたのだと思います。

その結果、1970年代以降、ヒックスが言っているいわゆるIS-LMのようなケインジアン、マクロ経済学の前提がなくなったら、「ほら、やっぱりお前らが特殊理論だった」と追い込まれてしまったんです。新古典派の人が最初からその戦略を練っていたわけではないと思いますが、後から考えて、うまくなかった。でも、そうせざるを得ないぐらい『一般理論』ってわかりにくくて、実際、要らないところが大量にあると思います。

ケインズに対する誤解

山形 『一般理論』の解説書を読むと、ケインズの英文が格調高いからわからないということを書いてありますが、それはウソで、金釘流の訳のわからない書き方をしているから読みにくい。英語の構文として見ると、すごく長い文の間に関係節が山ほど入って、その関係節がさらに分節化して条件になって……というのが散々出てきたりする。

あともうひとつは、ケインズ自身の書き方の問題。「これはこういうことだけれども、すごく特殊な例としてこんなこともあるかもしれないし、あんな例外があるかもしれないし、こんな例外もあるかもしれない」と言った後、最後に「でも、これらは例外だからあまり考えなくていいよね」と書いたりする。じゃあお前、書くなよ、と(笑)。

ちなみにこの『一般理論』の中にたったひとつだけグラフが使われていますが、そのグラフも「こんな話が出てくるけど、これはこの線とこの線が独立であることを設定しているので、このグラフでは何も言えません」というためのグラフで、そんなグラフを載せないでくれよというものです。グラフを理解しようとして一生懸命読んできた人は、そこですごい脱力感にとらわれる。

要するに、ケインズの書き方は構造的に複雑で、さらに無駄な部分が多いせいで理屈の本質をとらえにくくなっている。『一般理論』は自分の集大成だから全部書いておきたかったというケインズの気持ちもわかるんですけどね。

飯田 たしかに関係節がやたらつながって、駿台の英語みたいな感じです(笑)。そのうえ本筋と関係ないグラフまで入っている。後世の人が「このグラフはわざわざ書いたんだから、とんでもなく重要な意味が隠されているに違いない」というミスリードをして、関数の3回微分、4回微分の符号についての論争が起こったこともあるんです(笑)。もし本人がもう少し長生きだったら、「そこは関係ないです」と言ってくれたかもしれないんですけどね。

それから、IS-LMにはいいところと悪いところがあります。ヒックスは「ケインズと古典派」というタイトルの論文の中で、『一般理論』をIS-LMというものすごくわかりやすいひとつの図にまとめてしまった。そのせいで、ケインズが言っているけどIS-LMの枠をはみ出したところにある部分がなかったことのようになってしまった面があります。

山形 「期待の役割みたいなものが完全に抜けちゃってるじゃないか」というのはしばしば言われますよね。たしかにあの論文では簡単にするために単純化しているのは事実なんですよね。そもそもレビュー論文というか、「だいたいこんな話だよ」というためのものであって、「これぞ本質」というものではなかったはずなんです。ヒックスも後になって、「これはちょっと俺の思っていた話とは違っているんだけどな。それでノーベル賞くれちゃってるし、俺、どうしようかな」となって。

飯田 晩年のヒックスは「そこまで真に受けられるとは思わなかった」とIS-LM批判に転じていますよね。

山形 とはいえ、『一般理論』をここまで簡単にまとめられたヒックスが天才だというのは間違いがない。論文を見ると、ヒックス自身は嫌なやつだとよくわかりますけど(笑)。

飯田 「ケインズと古典派」で面白いのは、(初出掲載誌の)裏表紙の部分に「これがIT革命だ」みたいなことがずらっと書いてあるんです。これはベル社の広告で、電話というのは当時のIT革命ですよね。世の中いつも革命が起きている。

山形 その辺りについては『ヴィクトリア朝時代のインターネット』(トム・スタンデージ著、服部桂訳)という、電話がいかに当時のIT革命としてすごいと思われていたかを書いた本が翻訳で出ています。ぼくが訳したわけではないですが、面白い本なのでぜひご一読を(注:正しくは電話よりはむしろ電信の話)。

ケインズ理論は、最終的には理論家の人には「IS-LMモデルなんだね」と理解されていきました。それから後、政策的な意義としては、赤字国債を発行してガンガン公共投資をして経済をよくしていいということになった。「赤字支出はよくないんじゃないか」という意見を受けつつも、1950年代、60年代はそれでだいたいうまくいっていました。

それが70年代、80年代に入ると突然駄目になってしまい、「ケインズは死んだ」と言われるようになってしまう。教科書では「スタグフレーションが起こって何も説明できなくなったからだ」と説明してあって次のところにいくのですが、それでいいんですか?

飯田 いつも思うのは、なぜスタグフレーションでケインズが駄目になるか、ワケがわからないということです。ぼくの学部から大学院にかけての師匠である吉川洋先生も、いつも「スタグフレーションぐらいAD-ASモデルできれいに説明がつく現象はない」と言っていたくらいです。AD-ASモデルはIS-LMを拡張したものですから、なぜスタグフレーションがケインズモデルの欠点なのかわからないです。「財政を出したり引っ込めたりすれば、何とか経済はコントロールできる」という意味での俗流ケインズ主義ではたしかにスタグフレーションについては何も説明できないし、対応できないでしょう。でも、AD-ASモデルなら説明できる事態です。ところが実際は、ケインズの登場以降主流の座を転げ落ちていった新古典派の人が、ここぞといって復活しました。そのトップスターがミルトン・フリードマンですよね。

ケインズ経済学の伏流

山形 その後、だんだん時流は逆転していって、赤字出動をするとインフレにはなるけど、景気も回復しないし失業はそのままだし、いいことはないという、今の日本によく言われるのと同じような状況になった。

もうひとつは「公共が事業をいろいろやると効率が悪いじゃん!」というもの。知っている人はわかると思うけれど、昔の電電公社はやっぱり効率が悪いし、態度が横柄だし、殿様商売するし、「もう少しましなやり方もあるんじゃないの?」と言ってたら、いろんなことが民間でできるようになってきた。「ほら見ろ。だから政府があれこれしなくてもいいんだ」という状況が現実に起きたし、理論の側でも「もっと市場に任せればいい」という話になった。

飯田 さらに70年代、アメリカが固定相場制を放棄しました。そうすると、マンデルフレミングモデルで考えると、先進国にとって財政政策が効かない条件が全部そろってしまったことになりますよね。たとえば、日本に東名高速がなかったときに東名を通したほうがいいというような、馬鹿でもわかるというような案件もなくなり、変動相場制になり、財政政策が無効になる条件が整ってしまった。

山形 そういうこともあるかもしれませんが、ちょっと言っておきたいことがあります。東名高速や名神高速、あと新幹線を造るとき、当時日本は敗戦国で後進国だったので、世界銀行の金が借りられたんです。でもそのときに世銀のエコノミストは「あんな敗戦国に、そんなもの要るわけねえじゃん。貸しても無駄だよ」という報告書を書いていやがるんですね。結局、日本は「でも、敗戦国だから貸してよ」といって借りて、ちゃんとすべてお金を返したし、今は出す側に回ったことがある。つまり新幹線や東名は今から見れば「造って当然でしょ!」と思うけれども、当時はそんなこともなかった。

飯田 なるほど。昔から公共投資は難しかったのかもしれないですね。

山形 とはいうものの、多分、今よりは簡単でしょうね。第二東名を造るのと、第一東名を造るのとどっちがいいですかという話だったら、第一東名のほうでしょう。

飯田 その意味でいうと、ケインズからはちょっと外れてしまいますが、今は東北を中心に壊れたインフラを直すという、収益性が高い公共事業があることはたしかですよね。

話を戻すと、その一方で、一気に「新古典派じゃないと経済学じゃない」という雰囲気になっていったのですが、その間にアメリカでは長期の停滞があったり、それこそクリントン政権のほどほどのインフレと安定的な好景気という「すばらしき十年」があったり、いろいろなことがあった。ところが、日本国内の流行はなぜか一方通行なんですよね。海外だと必ず伏流水があって、ミルトン・フリードマンが雌伏何十年を経て、やっと新古典派として復活、ということがあるのですが、日本ではそういうイメージがないですね。

山形 それはやっぱりマル経(マルクス経済学)が強くて、さっき話が出た昔のケインズの解説書を読むと、「ケインズにおいては階級理論はあるか」といった話がされているんですね。『コンメンタール』でも、「『一般理論』の中では、一般に働く人と、アニマルスピリットを持って事業をする人と、金利生活者が描かれている。これは社会における階級でなくて何であろうか。金利生活者の死は階級闘争に比肩するもので、つまりケインズにもマルクス的な要素はあるんだ」というのをかなり一生懸命説明しようとしています。マルクス経済学に擦り寄らなきゃいけない面もありつつ、でもあまり擦り寄るとレーゾンデートルがなくなるから、古典派と共存もしないといけない。そういう力学もあったんじゃないかと思うなあ。

飯田 たしかに日本の場合、マルクス経済学の影響は大きくて、今でさえもじつはだいたいの大学は近代経済学とマル経プラスマル経崩れが半々ぐらいだと思うんですよね。

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IS-LMの功罪

飯田 そういった状況のなかで、IS-LMがもたらした罪もあると思うんです。それはIS-LMそのものでもあるし、新古典派総合ケインジアンと呼ばれるタイプの人々は、価格硬直性だけで乗っかろうとしたんですよね。ただ、『一般理論』を読んでみると、価格硬直性の話はそんなに重要視されてないんですよ。

山形 最初の古典派をやっつけるあたりでは出てきますけどね。

飯田 そう、最初はすごく出てくるけど、真ん中ぐらいになると、そんなに重要じゃなくなってくる。だから、ケインズ自身がどの程度、価格硬直性に重きを置いていたのかは、もう死んじゃったからわからないし、ケインズの言うとおりである必要もないけれども、ちょっと疑問だなと思うところがあるんですよ。

山形 なるほど。最近の潮流だと、飯田さんは一応ニュー・ケインジアンということなんですよね。

飯田 そうですね。学術論文はそういうのが中心ですね。

山形 とくにぼくは経済学者ではなく「実務エコノミスト」なので、DSGE(Dynamic Stochastic General Equilibrium/動学的確率的一般均衡)とか、何の略だったか言える人すらいないような難しいモデルは使ってないんです。でも、リーマンショックでニュー・ケインジアンもDSGEも役に立たないことが証明されて、「やっぱりそういうときに使えるのはIS-LMだけだったろう。ほら、ケインズをやれ」というような話をよく聞きます。ぼくがよく見ている人がそういうことを言っているだけかもしれないですが、これはニュー・ケインジアン的にはどういうふうに期待します?

飯田 そもそも経済理論には、全部を説明する理論はないし、もし全部を説明する理論があったら、それはウソだと思うんですね。「道で仏陀に会ったならば仏陀を殺せ」という話と同じで。「全部説明できますよ」というのはだいたいウソです。じゃあ、DSGEは何を説明するモデルなのかといったら、普段のよくあるショックに対してファインチューニングをするための理論なんです。たとえると、普通車を普通の道路で普通に運転するための理論です。だからサーキットで運転する場合や、巨大地震が起きたときにどう運転すれば安全かといった話は、DSGEからすると、「そんなところまでは考えておりません」としか言いようがない。

その一方で、じつはIS-LMも、たとえばサプライショックが中心のときは、「サプライショックだとこうなる」と言えるけれども、それについてどうコントロールするかは言えません。経済理論はあくまで現実のごくごく一部を切り取ることなので、症状によってモデルを切り替えなきゃならないんです。

でも理論経済学者は、大げさにいうと「大統一理論」のように、すべてを説明し尽くせるモデルを夢見てしまうものです。自分で論文を書いていても、夜中の3時くらいのテンションになると、「これはすべてを説明できるのではないか」と思っちゃうんですよね。

DSGEはかなりそのテンションが高くて、2003~2004年にNew neoclassical synthesis=新新古典派総合という言葉が流行って、「経済学の歴史はここに終わるのだ」と言っちゃった経済学者も結構いたんです。つまり、DSGE以降は、DSGEに問題に応じたアタッチメントを付けるだけで、すべての経済問題を説明し尽くすことができると考えてしまった。そういう熱病的なテンションがあったのが2000年代前半です。結構、最近のことだから怖いです。経済学者は30年か40年に一度そうなっちゃうんですよね。

山形 60~70年代の新古典派総合がそれだった。

飯田 IS-LMとフィリップス曲線と、せいぜいインフレーションアジャストメントカーブや失業関数を入れたら、あとはコンピューターさえ進化すれば、完全なIS曲線とLM曲線が出てくるので、コンピューターの進化を待ってやっているんだ、というノリにはなっていたんです。

山形 なるほど。社会主義計算論争で「そういうのは無理だ」と言われていたのは、60~70年代よりも前の時期ですよね。社会主義の側は、社会主義・中央統制経済ですべてが回らないとは理論的には言えないんじゃないか、と言っていたけど。

飯田 そうですね。社会主義計算論争も「コンピューターが進化すれば」というんですけど。

山形 たしかに、あらゆることを知っていてすべてをちゃんと計算し尽くせたら、最適な配分を決めることができるかもしれない。理論的には。だから社会主義は正しいというのが当時の社会主義側の言い分だった。一方、自由主義の側は、「そんな計算しきれないよ。計算しきれないから社会主義は駄目だ」と言った。その後、実際社会主義は駄目になったので、「ほら見ろ」という話ではあったんですよね。どこかで計算できなくて、だからこそ何となく市場というものに突っ込む。そうすると市場さまが自動的に答を出してくれる。それに対して「自由主義に逃げた」ということはできる。

飯田 ちょっと引っかかるのは、社会主義計算論争や一時期のケインジアンも、コンピューターに信用を置きすぎているんじゃないかということです。ぼくも文系なので、いつの日かコンピューターがすべてのことをやってくれるようになるんじゃないかという気持ちに、たまになっちゃうんですよね。手塚治虫の漫画にも、そういう場面がよく出てきたし、その幻想が面白いんですが。

山形 昔のSFは、巨大マザーコンピューターが出てきて地球を支配するものがたくさんありましたよ。前に別の対談でも話したんですけど、今そういうSFを読むと、「このコンピューターに支配していただいたほうが人間は絶対に幸せだ」という話ばかりなんだけど(笑)、人間は馬鹿だから、そこで「自由が欲しい」とか言って反抗するんですよね。

飯田 それはいいな(笑)。でも、その意味で経済モデルはやっぱり「応病与薬」。病気に応じて使うモデルは違う。大統一理論なんか程遠いのに、しばらく同じ方法でうまくいくと、キャップロックが掛かっちゃうみたいに、「これしか正しくない」という雰囲気になりがちではありますよね。

山形 同じ理論が10年つづいて、ほかの理論があまり成果を上げられないと、成果のない理論がだんだん隅に追いやられるのは仕方ないところもありますけどね。

人は自分の都合のいいように考えてしまう

飯田 ちょっと技術的な話なんですが、DSGEモデルは均衡点を出して、その均衡点の近傍を取るんですね。単純にいうと、局所の線形近似を使うんですけれども。線形近似というのは大きな動きをすればするほど、あんまり現実をとらえられなくなるんですよ。これは近似の次数を上げても根本的には同じこと。均衡点の近くでは似てると言えなくもないけど、グローバルに見ると全然違う線なんですよね。つまり、局所だけに注目しているDSGEには、大きい動きは取り扱うことができない。リーマンショックが起きたときに、各国の財政当局、中央銀行側は、「ぼくらの持っているモデルの手には負えません」と早めに言ってしまうべきだったのかもしれないですね。

山形 これはぼくの感触なんですが、DSGE理論が良いとなった背景には、50~60年代に比較的経済が安定していて、その後もグリーンスパンが出てきたり、「もう大恐慌は起きないよ」という見方が主流になっていたことがあるんでしょうね。もしそういう前提があるんだったら、それ以降はDSGEですべてできるという尊大な気持ちになるのもわからないでもない。

飯田 DSGEというのは「ほどほどのショック」をコントロールするためにあるんですね。でも、10年近くまあまあうまくいったので、何となく自分たちがショックを押さえているような気分になってしまった。でも、それはたまたまその期間に大ショックがなかったというだけの話です。

不謹慎かもしれないけど、3.11以降の日本の状況を見るとよくわかると思うんです。東電はこれまでもちょこちょこと事故を起こしてましたが、大事故は起こしていなかったので、「このままいけるんじゃないか」という気分になっていた。でも、大地震や大津波のような特別なショックは、どうやってもあるときにはある。そのことを忘れてしまうんですよね。

山形 これは自分の反省も込めてのことなんですけれども、たとえば国交省の人たちは100年に一度、150年に一度の震災に備えた水準で橋や堤防をつくるわけですね。しばらく前に、「災害の想定規模を100年に一度じゃなくて200年に一度、300年に一度にしたら、もっと公共事業に金が回るし、自分たちも仕事ができるんじゃないの」という不純な話を建設省(当時)の人たちとしたことがあったんです。そのときにわれわれは、「それは不純だからやめたほうがいいし、300年に一度の災害なんて300年に一度しか来ないんなら、来たときにあわあわ対応すればいいかもしれないですよ」というようなことを、つい言ってしまった記憶がある。今にして思えば、浅はかな考えではありますよね。千年に一度とか1万年に一度とか、どこまで備えるべきなのかは、わからないといえば、わからないんですけど。

ただ、昔思っていたほど簡単な話ではないし、その場で対応というのをやってみて、こんなにひどいことになっているのを見ると、やっぱりあのときの自分の考えは浅はかだったなと思わざるを得ないですよね。

飯田 今度のリーマンショックに対するもので典型的だったのは、正月の「クローズアップ現代」です。番組の構成としては、「リーマンショックもユーロ危機も新自由主義経済の行き詰まり」なんですよ。ぼくはあのふたつは真逆の理由で起きた事件だと思っています。「何かまずいことがふたつあった。きっと新自由主義が悪い。これからはそれだけじゃない。第3の道だ。終わり」という話じゃない。伊藤隆敏先生がときどき的確なコメントを返すんですけど、番組全体としては「このふたつの危機に見られるように、新自由主義経済は崩壊を迎えるのだ」というところに寄せられてしまう、つくった人の歳が見えてきそうなものでした。

この番組のように、大きなショックが連続すると、なぜかそれぞれにすごく強い論理的関係があるかのように語られることがままあります。「飛行機はなぜつづけて落ちるのか」という問いがよくあるんですが、完全にランダムに落ちていても、なぜか人間はその間に理屈をつけたがるものですよね。でも、たとえば100年に一遍のことが1年に2回起きることも、1万年に一遍ぐらいはあるわけです。今回の危機もそうだし、さまざまな問題が1本の道で説明できるのは、気持ち悪いというか、変に思います。

山形 「自由主義経済の崩壊」を待っていた人たちが何でもいいからとにかく乗っかっているんでしょうね。昔のマルクス主義が、第2次大戦も資本主義の行き詰まりだし、ウォール街の大暴落も行き詰まり。とにかく悪いことがあったら、それは全部資本主義の行き詰まり、ということを言うようになっていったのと同じですよね。使えるものなら何でも使ってしまえという気持ちはわかるんですが(笑)。

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ケインズは、どう利用できるか?

山形 そういったことを踏まえたうえで、今、ケインズを読み直したほうがいいのかしら。それともケインズと全然違うところで何かをしたほうがいいのかしら。今回の危機に対してIS-LMもそこそこうまく動いたし、アメリカのやったいろんな資金注入や公共的な支援もだいたいそれで説明がつきそうな感じではある。大学のマクロ経済学の一番最初で学ぶような話ですべてが片付いちゃったんだから、それをもう少し頑張るということでいいのか。ここらへんでケインズの今の意義というのを話さなきゃいけないかなって。

飯田 山形さんにこんな話をするのは釈迦に説法ですが、ケインズの意義というと、経済学者以前にケインズの研究者みたいな人が、「ケインズは本当はこう思っていた」論を言い出したりするんですよね。でも、ケインズが”本当に”どう考えていたかはどうでもいい話で、ケインズの理論から現在的な意味で何をカンニングできるかが重要です。カンニングのネタ本のようにケインズを使うのが、ケインズの役立て方だと思うんですよね。

山形 そうですね。やっぱり『一般理論』の小難しくも面白いところは、彼がうねうねしながら議論を進めるところ。その中に、本筋とは外れるけれど注目に値する部分が書かれているんですよね。

飯田 その意味でいうと、ある人が若手の経済学者に向けて「ミルトン・フリードマンの本を全部読め」という話をしていました。ミルトン・フリードマンは数学で経済を語ることが大嫌いな人で、シカゴ大学の大学院で数理経済学部のコースを設置するのに大反対だったそうです。そのせいか彼の書く経済の本は全部言葉とグラフで書いてあるから、何だかわからない部分があるんですよ。そのせいで、フリードマンのアイデアを数式で書いたらそれだけで論文のトップジャーナル行きが決定していたような時代があったと言われます。

すでに言葉で書かれているものを数学モデルにするのは、検証のために計量モデルに乗せられるかどうかが非常に重要な意味をもつからです。DSGEが流行ったのも、計量モデルに乗っかるのがポイントです。かつてのIS-LMもそう。だから、『一般理論』の中から、「これって数式になるんじゃないか」とか、「計量可能なかたちにできるんじゃないか」という部分を見つけるといいかもしれない。

山形 『要約一般理論』の解説にも書いたんですけど、アカロフとシラーというすごく有名な経済学者が最近『アニマルスピリット』という本を書いています。

アニマルスピリットというのは、『一般理論』の中では「事業家って投資を決めるときに予想収益率とかを計算して、『これは利子率より高そうだから投資する』なんてこと実際はしないよね」という話。大半の事業家は何かを見て、「俺はこれをやるぞ!」と思って、とにかく勢いでガーッとやっちゃう。そういった、理屈にならない感情的な部分をアニマルスピリットと呼ぶことにして、それが経済に与える影響を考えなきゃいけないとケインズは言っている。

ところが、アカロフとシラーの本の中では、「人は理屈に合わないことでも、何となく周りの空気に流されてしまう」とか、4~5年いい状況がつづくと、「このままずっとそれがつづくよね」とつい言ってしまう心理のことが「アニマルスピリット」だと言われていて、ケインズが言っているのとかなり違う。

彼らとしては「理屈に合わないものも見ないといけないよな」というところを『一般理論』から読み取ったのだと言いたかったんだろうけど。

飯田 ケインズが書いているのは、シュンペーターのイノベーションの話に近いですよね。ただ、アカロフとシラーの気持ちを想像すると、数理モデルもなければ論理的なモデルもちょっと薄いというときに、論理の代わりにケインズの名前を持ってくるのは仕方がない部分もあったのかも。

今回解説を書くにあたって読み直して思ったのは、ケインズが言っていることは行動経済学に近いということです。ぼくの解説に対してTwitterで、「ケインズのやろうとしていることって動学一般均衡行動経済学だったんじゃないか」と書いている人がいて、まさにそれだと思いました。すごく非合理的というよりも、たとえば、働き手と雇う側、貯金する側とそれを使って投資する側は、それぞれ別の論理で動いているんだということを強調している。ここがIS-LMにはあまり入ってないところで、なおかつ最近の行動経済学がよく研究していそうなところなので、この辺りにヒントがあるのかもしれない。

経済学が袋小路へ進む理由

山形 一方で、クルーグマンは『一般理論』の本質は静的なモデルであって、動学的な部分に注目するのは違うんじゃないかと言っていたりしますね。

飯田 たしかにIS-LMは比較静学モデルなんです。ぼくはいまだにIS-LMをどう評価していいのかわからないんですが、こういう思い出話があるんです。

ぼくの事実上の師匠である岡田靖さんがよく言っていたのは、「IS-LMは(「攻殻機動隊」に出てくる)村井ワクチンのようなものだ」ということでした。村井ワクチンは、もともとは丸山ワクチンをモデルにしたと言われている、「何だかわからないけど効く薬」です。IS-LMはそれに近くて、最終的に論理の部分で、どうして成り立っているのか微妙にわからないんですね。だけどIS-LMを使うと非常にクリアな説明を与えてくれたりする。それがIS-LMの怪しい魅力であり、使っていて怖くなっちゃうところでもあるんですよ。

山形 先ほどからぼくはDSGEについて話したりしていますが、実際は実務エコノミストなので、DSGEを使う場なんてほとんどないんです。途上国に行って「この橋を造りますか」とか、「あんたらの財政施策はどうしなきゃいけないですか」という話をするときは、だいたいIS-LMで用が足りるし、IS-LMでもちょっと難しいので、それをどう簡単に説明するのかが問題だったりするんですね。だからぼくはIS-LMについては、「あんなに使い勝手がいいものはないのに、何で学者さんたちはみんな悪口を言うんだろうな。もっと認めてほしいな」と思うんですよね。

飯田 ひとつは学者の性なんですが、教科書に載っていることを100本論文に書いてもまったく昇進や就職に結びつかないんですよ。だから新しいことを何か書かないといけない。新しいものを書きやすいのはフロンティア分野なので、どんどんマニアックな方向にいってしまうのはそのせいです。

もうひとつ、日本人の経済学者が論文を書く場合、英語の壁があることが多い。英語が下手なので、数学的に細かいところ、統計的に細かいところを打たないと、なかなかジャーナルに載らない。だから、どんどん細かく、マニアックなことをやる。

そして気がついたら実務エコノミストと学者がまるでコミュニケーションできない状態までいってしまっていた。そういうことがあるんです。

山形 その難しさは物理学も同じで、物理学ではガリレオの理論があって、ニュートンが一般化して、それをさらにアインシュタインが出てきて、だんだん広げてできたものです。でも現実の社会では、物理学が必要とされる大概の部分、たとえば建物を建てたり、ミサイルを撃つくらいはニュートン力学でこと足ります。ニュートン力学から外れる部分が問題になってくるのは、素粒子を加速器でぶつけるといったような特殊な状況に限られている。

経済学もそうで、最初にアダム・スミスが「見えざる手」と言ったところで世の中の8割くらいはカタがついちゃった。それ以降の経済学は、それに当てはまらない部分、どんどん特殊なところに注目していかざるを得なかったんです。

とことが、人々が経済学者のほうをたまに振り返るのは、何かすごく変なことが起きちゃって、「どうしたんでしょうか?」と聞きたいときです。そうすると、「見えざる手だ」と言うだけじゃ話にならない。そうでない場合の話をみんな求めているわけですから。

理論と現実のバランス

飯田 ぼくの友達の統計学者の矢野浩一氏は、自分のブログに「ハリ・セルダンになりたくて」というタイトルをつけてるんですが、これはアシモフの小説、ファウンデーションシリーズに出てくる天才歴史心理学者の名前です。

山形 「サイコヒステリック」ね。

飯田 天才なのか気違いなのかわからない歴史心理学者です。それにあこがれている。経済学者には、「将来を見通したい」という思いで経済学者になった人と、文系学問の中では一番緻密だという意味での「知的パズルが好き」だからなっている人がいるんです。知的パズルもときにすごく面白いし重要なこともあると思うけど、知的パズル組の人は必ずしも現実経済に興味がなかったりする。極端に言うとリーマンショックですら興味がなかったりするんですよね。

山形 経済をやるからにはどこかで理論と現実との対応を見なきゃいけないから、まったく現実を見ないことにはできないと思うんですが。

飯田 それが不思議で、たとえば、ある優秀な理論経済学者の方はかつて、「マネーが物価を動かさない」というモデルをつくったんですね。「なぜならば、日本はまだデフレにならないじゃないか」と。「もう2年以上にわたって物価が低下しています」と言ったら、「それは違うんだ。物価指数は低下しているけど、物価は低下していない」と。純粋な理論の人は、理論に合わない現実のほうをシャットダウンする人もいます。そういう人のほうが格の高いジャーナルに載っていたりすると、なかなか話がややこしくなります。

山形 なるほど、なるほど。美しい理論がある場合と、現実はぐちゃぐちゃしていてなかなか説明つかないよという場合と、どっちが世間的に感心されるかというと、やっぱり美しい理論のほうだ、という話かもしれませんね。

飯田 あともうひとつ。純粋理論だけやっていた人の中には、日銀や財務省の役人に「現実はそんなもんじゃないよ。ずるずるべったりですよ」と言われて、とつぜん「なるほど」と全面的に納得しちゃう人も結構いるんです(笑)。全然知らない世界の話だから何かすごいことを言われているように感じてしまう。「実務家が全部正しくて、経済学は全部間違えているんだ」というところまで、いきなり変わっちゃう人さえいます。たしかに官僚は「これは何とか法で、これは何年に何とか内閣で法律を通して」ということには詳しくて、「うわ、すごい頭いい」と思うけど、よく考えると大した話じゃないことが多い。でも、それにやられてしまう経済学者がいるんです。

山形 「緻密な理論と雑な現実」ということでいうと、『ルワンダ中央銀行総裁日記』という本があります。この本は、日銀の人がルワンダの中央銀行の総裁になり、非常に基本的な理論を使いつつも、現実には合わないことは裁量で調整するという美しいことをやって見事に成功したというものです。自分で書いているから、どこまで手前みそなのかというのはどこかで検証しなきゃ思っているんですが、そんなに外れたことは書いていません。学者としての成功と、現場として何を使うべきかのバランスは、その場にいないとわかりにくいところがあるので、非常に難しいところではありますよね。

飯田 このあたりは海外のほうが、まだ上手くいっているイメージですね。向こうでは、エコノミストという肩書きの人の数が日本の100倍以上いる。そうすると、ちょうどいいバランスの人から、ものすごく変な人まで、いろんな人がいる。

山形 そうですね。まともな経済学者がちゃんとブログとかで発言してくれるし、分析も提示してくれるし、経済学者同士の議論がわれわれの読めるところで展開される。とくにアメリカを中心としたそういった状況は、幸せだし、うらやましいですよね。日本では本当に偉い人やもう少しきちんと発言してほしい人はあまり発言しないで、ちょっとおかしいんじゃないか、ゆがんでいるんじゃないかと思う人がかなり大きな声で発言していたりする。誰かもう少しこの人たちを押さえてもらえないものかと思いつつ、たまにぼくが出てケンカとかしていますけれども、もう少し援軍が欲しいなという気はします。

飯田 そういう不思議な自信家って、日本ではどうしても目立ってしまうんですね。たとえば最近でも、3.11が起きて3日後に原子力の専門家になっている人みたいな(笑)。Twitterでも、「10年間原子力のことを考えていました」というノリの人が急に増えたのは不思議です。

ただ、ちょっと話を戻すと、データにべったりつき合っている実証の人は、純粋な理論学の人と比べて、コロッといってしまうことは少ないです。理論系の人は、一気に突っ走って突き抜けちゃうから理論家をやれるところがあるのかもしれませんね。

山形 それは建築家の世界でもある話で、黒川紀章先生は晩年都知事選に出たりして、ちょっとどうかしてしまった感じでしたよね。それがたまたま何を間違えたのか六本木にある国立新美術館を取ってしまったので、「やばい、何ができるか」とみんなヒヤヒヤして見ていたら、意外とまともだったので、晩年を汚さなかった。

飯田 晩年ということでいうと、ケインズは早めに亡くなっていますよね。ケインズが80歳まで生きていたら経済学の歴史がすごく変わっていたか、本当に頭のおかしい人になっていたか、どっちかだと思うんです。若いころから突き抜けている感じがあった人ですもんね。

山形 彼はバレー団に入れ揚げて、そこのバレリーナと結婚しちゃったわけですが、ある人に言わせると、当時のバレー団を追っ掛けるという趣味は超ミーハーで、今でいうとAKBの追っかけになってメンバーの誰かと結婚するようなものだということです。そういう変なことを平気でやっていた。当時イギリスの文化人は多少奇矯なことをやるのがいいことだとされてたということもありますが、変なやつではあったんですよね。

数学をやって官僚になって、その後経済学をやって、経歴的にもいろいろな分野を押さえてるし、あれこれエッセイを残している。そういう意味では非常に総合的な文化人だし、主要ではない変なところに手を出していた人ではありますよね。

飯田 当時のイギリス社会で自覚的な無神論はかなり勇気が要ったことだと思うけど、それも平気ですしね。だから、お年寄りまで生きていたら、かなりめちゃくちゃなことを言って終わったんじゃないかなと。

山形 どうでしょう。最後に老成したかもしれないし、わからないですよね。

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ケインズ以外の古典にも挑戦する

飯田 あとひとつ。ケインズの著作は古典としてヒントになるところがあったり、もしかしたら、そのまま適用できるところもあるかもしれません。その一方で、ケインズ以外に面白い古典は何があるでしょうか?

山形 ぼくはケインズに手を着ける前にアダム・スミスとマルクスをちょこっとやっていて、どっちもそれなりに面白いけれども、今なら式で一発で書けるものを、何で一章かけてやっているんだという感じなんですよね。ケインズの『一般理論』もそうですが、やっぱり最初から最後まで細かく読んですべてを理解するというよりは、流し読み、拾い読みしつつヒントを拾っていくほうがよろしい。

その意味ではアダム・スミスは面白いし、マルクスも好き嫌いはともかくとして面白いものではあるとは思います。ただ経済学に関しては、古典を読むよりは有志がネット上で翻訳したものだったり、クルーグマンのエッセイなんかを読んでいたほうが多分楽しいし、現代との関わりにおいても勉強になるでしょう。

飯田 毎日英語はきついなと思ったら、「道草」(http://econdays.net/)というサイトで主要な経済エッセイが有志によって毎日和訳されているので、ぜひ見てみてください。

ぼくから1冊あげるとすると、アダム・スミスの『道徳感情論』です。このあいだ東浩紀の『一般意志2.0』を読んだときに、『道徳感情論』にすごく近い話をしていると思いました。ぼく自身『道徳感情論』をまじめに読んだことがなくて、解説書に書いてある『道徳感情論』に近いなと思ったということなので、ちゃんと読みたいなと思っています。

エッセイでは岩波文庫になっている『石橋湛山評論集』がすごくいいです。全集だと長過ぎて嫌になっちゃうんですけど、この本はいい感じのエッセイが入っていて、みんな単語だけ知ってる「小日本主義」の意味もすごくよくわかる。「植民地はいけない」という話ではなく、「全部損得だけで考えよう」という話を延々としていたり、ある意味経済学的でもある。坊さんなのにどうしてそういう感覚を身につけていったのか不思議です。

会場からの質問

質問 いろんな経済学者がいますが、結局そのときの議論で優勢に立ったほうが政策を決めているように見えます。実際のところはどうなんでしょうか?

山形 そうはなりません。ケインズは『一般理論』の最後で「思想が最終的に世界を動かすのだ」という話をしていて、長期的にはそういう面もあると思いますが、短期的には逆に、政策のほうが都合のいい理屈を探してくる。わたしもいろんな省庁の委員会のお膳立てや事務局をやったりしていて、たとえば、ある政策を通したいから、そのための委員会をつくらなきゃいけないというお仕事がままあるわけです。世の中の評議会や審議会は、本当はフェアな立場でいろんな人が話をしなければいけないんですが、実際は何かの政策を裏づけるためにできるので、たとえば飯田さんが政策に反対しそうであれば呼ばないということがある。議論よりも先に政策があるんです。

飯田 これもクルーグマンの受け売りですが、その一番の典型は、ぼくはハイエクの再発見だと思っています。最近は「ケインズの世紀からハイエクの世紀へ。そしてまたケインズの世紀へ」といった表現がされている。実際ハイエクは同時代の経済学においても一流学者のひとりではあったと思いますが、アカデミックな経済学にリアルタイムでの影響はほとんどないといっていいです。後になって政策の側が都合のいい人としてハイエクを「発見」した。

ただ、経済学者の理論によって世論が徐々に動いて、世論が動いたことによって政治が動くという間接的な影響は十分あり得ると思います。その点で、政策論争というのは意味があります。

質問 山形さんはクルーグマンとケインズの両方を訳されていますよね。クルーグマンはケインズの影響を受けているところがあると思いますが、訳者の立場からはどういった影響を見て取りましたか?

山形 クルーグマンが今の立場になっていく途中、98年くらいに「IS-LMって結構いいよ」という論文をいくつか書いていているんです。その中で、実務家が使うIS-LMと、理論家の「IS-LMはもうダサいから俺たちやらないね」という意見の断絶を彼は結構本気で心配しているんです。彼は政治的な動きがいまいち下手な人なんですよね。それが彼の良さでもあり、また彼を実際の政策の現場に親分として取り立てるのが難しい理由でもあるんですけれども。

クルーグマンの、いつも実務的なものに目を向けて「じゃあ、実際に世の中を動かしていくにはどうしたらいいのか」という部分をちゃんと考えて理屈をつくるという姿勢は、ケインズ的な考え方の影響だと思います。

飯田 『一般理論』も、最初に「専門家を説得するために書きました」と宣言してるわりに、後ろはエッセイみたいな感じになっているので面白いですよね。おそらくケインズ自身も、ギャップを埋めるという意図を持っていたんだろうなと。クルーグマンも、上手かどうかはともかく、間を埋めなきゃいう意識があるのでしょう。たとえば、1998年の「It’s Back」のようにIS-LM版と動学的一般均衡版をやって、「ほら、同じでしょ?」というのを示してくれたりするのは、わかる人にとってはすごくいい先生です。

山形 ちなみにクルーグマンは、とくに「ニューヨークタイムズ」に書くようになって顕著ですが、それ以前からもウェブに論文を出したりして、メディアには敏感です。ケインズにも同じようなところがあって、彼が連続出演していたラジオ番組があるんですね。彼は当時、半分官僚で半分経済学者みたいな状況で、平和条約や金本位制とはこんなもので、よくないのはどうしてだ、という説明をしている番組なんですが、そこそこ面白い。今はテープ起こしをしたものしか読めないので冗長で読みにくいんですが、多分、ラジオで流れてきていたのはかなり面白かっただろう思います。そういう一般に対して説明する役割をケインズはちゃんと持っていて、そういうところも似ているのかなと。

最後にひとつだけ宣伝。今回ポット出版から出した『一般理論』は「要約」なんですが、これでは信用できないという人は、全訳がすでにウェブ上にあります(http://genpaku.org/generaltheory/)。そして、この全訳にクルーグマンの序文と、ケインズを語るにあたっては欠かせないヒックスのIS-LM論文とをまとめて、講談社学術文庫から3月13日に出ます。中身はウェブにあるものと同じですので、ウェブを見て買いたいかどうか決めてください。

(2012年1月28日 ジュンク堂新宿店にて)

プロフィール

飯田泰之マクロ経済学、経済政策

1975年東京生まれ。エコノミスト、明治大学准教授。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。著書は『経済は損得で理解しろ!』(エンターブレイン)、『ゼミナール 経済政策入門』(共著、日本経済新聞社)、『歴史が教えるマネーの理論』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(ちくま新書)、『ゼロから学ぶ経済政策』(角川Oneテーマ21)、『脱貧困の経済学』(共著、ちくま文庫)など多数。

この執筆者の記事

山形浩生

1964 年東京生まれ。東京大学工学系研究科都市工学科修士課程、およびマサチューセッツ工科大学不動産センター修士課程修了。大手調査会社に勤務するかたわら、科学、文化、経済からコンピュータまで、広範な分野での翻訳と執筆活動を行う。著書に、『新教養主義宣言』『要するに』(ともに河出文庫)、『新教養としてのパソコン入門』(アスキー新書)、訳書に『クルーグマン教授の経済入門』(日経ビジネス人文庫)、『アニマルスピリット』(東洋経済新報社)、『服従の心理』(河出書房新社)、『その数学が戦略を決める』『環境危機をあおってはいけない』(ともに文藝春秋)、『戦争の経済学』(バジリコ)、『雇用と利子とお金の一般理論』(ポット出版)ほか多数。

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