2012.01.23

「一般意志2.0」実装の鍵はデータベース、ではない?

飯田泰之 マクロ経済学、経済政策

経済 #東浩紀#一般意志

東浩紀氏の『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(以下『2.0』)はルソーの政治・社会思想に現代的な拡張を施すことで、新たな民主主義を構想する快著である。

未読の方のために説明を加えておくと、東氏の解釈によればルソーは『社会契約論』において、個々人の思考と嗜好を「特殊意思」と位置づけ、その特殊意思を単純に足し合わせたものを「全体意思」と名付けた。そして、互いに相反する特殊意思を、その際を保ちながら折り合いをつけたもの(ヘーゲル流に言うならば止揚したもの)が「一般意志」ということになる。

「一般意志」はすでに実現している?

この解釈によれば、個人の意思の発露を制限するのではなく、むしろ個人主義と自由主義を徹底することにおいてのみ、一般意思は形成される。

一般意志の全体意思に対する優位性は、『2.0』の冒頭に掲げられた、

「熟議もなければ選挙もない、政局も談合もない、そもそも有権者達が不必要なコミュニケーションを行わない、非人格的な、欲望の集約だけが粛々と行われる『もうひとつの民主主義』の可能性を説く」(p3、以下ノンブル表示は『2.0』の該当頁)

という宣言に集約されている。

そしてこの可能性が、現在の硬直化した政治に倦んだ多くの読者の心をつかんでいるようだ。情報技術が民主主義を変えてしまうかもしれないという仮説は、たしかにエキサイティングだ。

しかし、読み進むうちに経済学徒としてまた別の感想が生まれる。一般意志はすでに、というよりもとっくに社会のある分野には実装され、稼働済みである。その分野はマイナーな特殊例などではない。自由主義経済における市場均衡(より正確には競争均衡)こそが、ある程度機能している、一般意志にもとづくシステムの実例そのものではないのだろうか。

経済学の起源にみる「2.0」

権力の指令、またはコミュニティ内の慣習による財の分配から、個人の非人格的な選択の集積による財の配分へ。つまりは市場経済への普及と全面化により、現代につらなる経済システムがはじまった。

『社会契約論』(1762年)が公刊された18世紀中葉は、ブルジョワ革命と現代的な資本主義への移行という現代への諸前提が準備・萌芽された時期にあたる。

同時代の道徳哲学者であるアダムスミスの「公正観察者(impartial spectator)」と、その理念が実現される過程をあらわす「見えざる手(invisible hand)」の概念は、一般意志と非常に近接した社会の決定様式 ―― 個人の主体的な決定がつくる個人の際を担保しつつ個人の和を超えた全体が形成されるというビジョン ―― を提示している。

『道徳感情論』(1759年)に提示されていたこの「公正観察者」と「見えざる手」というアイデアが、『諸国民の富の性質と原因の研究』(1776年、いわゆる『国富論』)において財の生産・分配に適用されたことで、経済学は生まれた。

ひとたび「政治学の文脈における一般意志」と「経済学における公正観察者・見えざる手」の対応関係に注目すると、『2.0』における「一般意志」「政府2.0」「データベース」といったキーワードの多くが「市場」と可換性をもつことに気づく。

「政府と一般意志の関係は、選良と大衆という異なった人間集団の意思の衝突として捉えるべきものではない。『大衆の欲望』すなわち一般意志は、国民全体の発言や行動の履歴から統計的に現れてくるものであり、『大衆』という特定の集団がその担い手になっているわけではない。またそれはそもそも……啓蒙によってたやすく制御できるものではない」(p154)

ここでの「一般意志」は、そのまま「市場」に置き換えても違和を感じない。さらに「熟議の限界をデータベースの拡大により補い、データベースの専制を熟議の論理により抑え込む」(p143)というプロセスは、市場経済が国家を代替し、市場の失敗に対して政府の「見える手」による対処が要されるという、ミクロ経済学の教科書的な補完関係と対応する。

「大衆の欲望を制約条件として国家を統治する」(p147)ことの必要性は、市場の力を無視することが不可能な現代においては、もはやいわずもがなのことであろう。

羨望と匿名性

少々遠回りして、市場の機能について若干の説明を加えておこう。

市場の参加者は可能なかぎり、できるだけ高い満足度を得ようとして行動する。企業は利潤を最大化しようとし、個人は効用を最大化する。これらの主体は自らの服する制約 ―― たとえば現在利用できる技術制約や、いまいくら持っているかといった予算制約など ―― のみに従い、あとは好きなように行動する。このような分権的な行動だけでは、ある財の供給と需要は容易には一致しないように感じられる。

しかし、一定の条件のもとで供給よりも需要が多い超過需要状態ならば、その財の価格は上昇し、供給が増加し需要が減退するというプロセスを通じて、市場は競争状態に至ることになる。超過供給の場合には価格低下により均衡が達成される。内生的な価格の変化によって達成される競争均衡状態は、パレート効率性の意味で最適であることが数学的に証明されている。

個々人が需要し、供給するというかたちで表明される、〈個人的であるがゆえにテンでばらばら〉の行動が市場で結びつくことで、取引数量と取引価格という市場の「出力(outcome)」が決定する。少なくとも経済の分野においては、個人主義・自由主義を徹底するがゆえに、そのたんなる合計ではない市場が誕生しているのだ。

ただし、市場の出力が効率的となるためにはいくつかの条件がある。

そのなかで、なぜか初等教科書では無視されがちなものが匿名性の前提である。取引の結果が効率的になるためには、個々人の満足度が他人のそれに左右されない、という前提が必要となる。

たとえば、誰かが利益を得たときに、自分自身に経済的損失はなくとも ―― 場合によっては得であっても ―― 満足度が下がってしまう、といったことが起こらないという前提だ。これを経済学では「Envy Freeの仮定」という(Envy Freeでなくとも、パレート効率的な均衡があるじゃないかというマニアックでトリビアルな指摘はひとまず脇に置いておこう)。

しかし、近年の行動経済学の成果をもち出すまでもなく、わたしたちの満足度は他人のそれに大きく左右される。仲の悪い知人が大金を稼いでいると知ったら、ほとんどの人の満足度は下がるだろう(少なくともわたしはそうだ)。その一方でどこの誰かも知らない人がいくら儲けていようと、わたしたちはそれほど関心を払わない。スーパーで野菜を買うときに、スーパーの社長や生産者が儲かることを考えて地団駄を踏むという人はいないだろう(いるかもしれないがそれはかなり例外的であろう)。

誰がつくり、誰が儲かるのかわからない、少なくとも直接の知り合いではないという匿名性が、効率的な市場均衡において大きな力を発揮する。宗教的な意味合いを含みに理解されがちな沈黙交易は、匿名性の担保という意味で、現代的な市場の成立要件をも備えていたわけである。

特殊意思そのものが特殊意思を調整する

そして第二の条件は、価格支配者、または市場参加者のあいだで、価格支配力を得るための協調行動がないことも、市場均衡が効率的であるための必要条件だ(その他にもいくつかの数学的条件が要されるが、それほど特殊で奇異なものではない。詳細はミクロ経済学の中級テキストを参照いただきたい)。

個々人の無政府的な行動が効率的な市場の出力に至る過程は、特殊意思から一般意志が形成されるストーリーとパラレルだ。そして、東氏のイメージする「一般意志2.0」の要諦は、特殊意思を匿名化するプロセスにある。さらに談合の排除は、一部の特殊意思が全体の意思になる危険性から、ルソーが『社会契約論』において政党を忌避したことと類似している。

このように両者の類似性をあげると、ふと新たな疑問が首をもたげてくる。スミスの公正観察者と見えざる手は経済学という学問分野を生み、現在に至る経済システムに実装されていった。その一方で、なぜルソーの一般意志はver.1.0のまま、目立ったアップデートをされることのない理論的な仮説(夢想?)でありつづけたのだろうか。

ここでキーになるのは市場を均衡させるもの、すなわち「価格」の存在である。個別主体の異なる欲求に折り合いがつかない(超過需要・超過供給が生じる)ときに、それを仲介し、妥協点を探る要因となるのは価格である。需要の過多は外的な強制ではなく、売り手にとっては「もっと儲けるチャンスだ」、買い手にとっては「少し高くついても買い逃しは避けたい」という意思によって解消される(超過供給の場合はその反対に「もう少し安くしてでも売り抜けよう」「もっと安い値段でも売ってくれるはずだ」という個人の予想が値下がりをもたらす)。

一般意志のアナロジーを使うならば、経済の取引においては個々人の特殊意思そのものが「特殊意思の相反を調整する機能」をも持っているというわけだ。価格という調整弁の存在によって経済の世界では、差異を保ちつつ無数の欲望が重なり合うことで形成される「一般意志」に至ることができた。

一方の政治の文脈においては、「特殊意思のみから出発し、かつ特殊意思間の調整をつける機能」が備わっていなかった。理論的不可能性ではなく、当時は、そして後に述べるように現在においても、経済における価格にあたる調整弁が発見されていない。そのため、ルソーの発想は実装・活用の方向に発展することがなかったのではないだろうか。

誰も逃れることのできない〈価値〉の不在

『2.0』ではネットワーク技術の進歩と普及によって、かつて不可能であった政治的な意味での一般意志の実装が可能になった(または近い将来に可能となる)という希望が提示される。しかし、この予想の実現にはいまだ大きなハードルがあるように感じられる。

ルソーの時代にはなく、熟議の民主主義にもない。それでいて一般意志にもとづく政治にとって必須なもの。それを欠くことが一般意志にもとづく政治を不可能にしてきた決定的なボトルネックは ―― データベース「ではない」。情報技術の進化は共有されるデータの量を飛躍的に増大させた。このことを疑う余地はない。しかし、それは量的な変化であって質の変化ではない。

むろんこの変化は社会に大きな影響を及ぼすだろう。街頭演説、メディアによる調査といった情報の提示や収集に比べ、匿名性と網羅性は圧倒的に高まった。それによって一般意志2.0の実装に向けて一歩接近したという感覚は間違いではないかもしれない。

しかし、「コンピューターとネットワークがあらゆる環境に埋め込まれ、ソーシャルメディアが社会を覆い、統治制度の透明化と可視化が極限まで進められ」(p236)たとしても、それだけでは、一般意志2.0から政治・統治へという門戸は閉ざされたままであろう。

そこに欠けている、そして不可欠なものは(比喩的な意味での)「価格」だ。価格は個人・個別企業の匿名の選好表明行動(つまりは需要行動・供給行動)から決まる一方で、個人・個別企業の匿名の行動を変化させる。一般意志の実装にとって必要なものは、ネットワークにおいて見解の相違を丸めてくれる内生的なフィードバックメカニズムである。

ネットに情報を提供すること、ネットで意見を表明すること。そしてそれを見た論者や代議士たち、そしてユーザー自身がそれに応じて行動することにはフィードバックの効果があるようにも思われる。しかし、「コメント」「RT」「トラックバック」などがその機能を果たすのは現時点ではきわめて難しい。それらの受け止め方は、人によってあまりにも違うからだ。

たとえば、ニコ生のコメント欄には大量の相反する見解が寄せられる。そのなかで一方の意見に賛同者がつき、コメント欄世論(?)の大勢が定まったとしても、敗者側には自身の見解を変えるインセンティブはもたらされない。

これは出演者側にとっても同じことだ。特定の、ときに少数派の意見を墨守することで、よりコアなファンを確保できるとするならば、ニコ生コメント欄で何を言われようと気にしないという姿勢を貫くことは、十分に合理的な行動である。代議士にとってはなおさらのことだろう。

価格においては「わざと高く買ってくれる」主体の存在は売る側にとってありがたいかぎりである。しかし、批判コメント・RT・トラックバックをつけた相手が批判を「おいしい」と感じる(いわゆる炎上マーケティング)ならば、そのネット上のコミュニケーションはなんらの調整機能も果たしてくれない。

ケインズは『雇用・利子および貨幣に関する理論』(1936年)において、需要側と供給側ではその動機づけがまったく異なるため、需要の量と供給量が一致する内在的なメカニズムはないと指摘している(一般的なマクロ経済学では、価格が十分に変化しないことを総需要と総供給の不一致の原因としている。しかし、筆者が『要約 ケインズ 雇用と利子とお金の一般理論』(山形浩生訳・要約、ポット出版)の解説に書いたように、これはケインズ自身の考えとは趣を異にしている)。

企業側は技術と実質賃金、販売価格という経済的なインセンティブにしたがう。そうであるがゆえに、価格というシグナルに敏感に反応する。それに対し、家計にとっては、たとえば「大の大人たるものこれくらいは労働するべきだ」、あるいは「自身の社会的地位から考えるとこれくらいは消費するものだ」などといったものが金銭的要因よりも大きな動機づけとなることもある。両者の「見ているモノ」が異なるため、調整はうまくいかないというわけだ。

ネット上に集積されるデータベースが一般意志を表現するようになるためには、ネットでの評価・評判などをどのように受け取り、感じるかに関するノルム(規範)が確立している必要がある。もちろん全面的なノルムの共有がなされるのは難しいだろう。しかし、価格のように、基本的には(または平常時には)全員が考慮する何か、つまりは、十分な調整能力のある指標がなければデータベースは一般意志を表明しない。

ネットにおける「価格」はどこにあるのだろうか……もっとも、価格にしたところで近代資本主義期にいたって突然誕生した概念というわけではない。案外と、現在ネットのなかで普通に使われている技術や習慣のなかにすでに存在し、それでいていまだ調整と集約の機能を果たしきれていないものがあるのかもしれない。

プロフィール

飯田泰之マクロ経済学、経済政策

1975年東京生まれ。エコノミスト、明治大学准教授。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。著書は『経済は損得で理解しろ!』(エンターブレイン)、『ゼミナール 経済政策入門』(共著、日本経済新聞社)、『歴史が教えるマネーの理論』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(ちくま新書)、『ゼロから学ぶ経済政策』(角川Oneテーマ21)、『脱貧困の経済学』(共著、ちくま文庫)など多数。

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