「一般意志2.0」実装の鍵はデータベース、ではない?

羨望と匿名性

 

少々遠回りして、市場の機能について若干の説明を加えておこう。

 

市場の参加者は可能なかぎり、できるだけ高い満足度を得ようとして行動する。企業は利潤を最大化しようとし、個人は効用を最大化する。これらの主体は自らの服する制約 ―― たとえば現在利用できる技術制約や、いまいくら持っているかといった予算制約など ―― のみに従い、あとは好きなように行動する。このような分権的な行動だけでは、ある財の供給と需要は容易には一致しないように感じられる。

 

しかし、一定の条件のもとで供給よりも需要が多い超過需要状態ならば、その財の価格は上昇し、供給が増加し需要が減退するというプロセスを通じて、市場は競争状態に至ることになる。超過供給の場合には価格低下により均衡が達成される。内生的な価格の変化によって達成される競争均衡状態は、パレート効率性の意味で最適であることが数学的に証明されている。

 

個々人が需要し、供給するというかたちで表明される、〈個人的であるがゆえにテンでばらばら〉の行動が市場で結びつくことで、取引数量と取引価格という市場の「出力(outcome)」が決定する。少なくとも経済の分野においては、個人主義・自由主義を徹底するがゆえに、そのたんなる合計ではない市場が誕生しているのだ。

 

ただし、市場の出力が効率的となるためにはいくつかの条件がある。

 

そのなかで、なぜか初等教科書では無視されがちなものが匿名性の前提である。取引の結果が効率的になるためには、個々人の満足度が他人のそれに左右されない、という前提が必要となる。

 

たとえば、誰かが利益を得たときに、自分自身に経済的損失はなくとも ―― 場合によっては得であっても ―― 満足度が下がってしまう、といったことが起こらないという前提だ。これを経済学では「Envy Freeの仮定」という(Envy Freeでなくとも、パレート効率的な均衡があるじゃないかというマニアックでトリビアルな指摘はひとまず脇に置いておこう)。

 

しかし、近年の行動経済学の成果をもち出すまでもなく、わたしたちの満足度は他人のそれに大きく左右される。仲の悪い知人が大金を稼いでいると知ったら、ほとんどの人の満足度は下がるだろう(少なくともわたしはそうだ)。その一方でどこの誰かも知らない人がいくら儲けていようと、わたしたちはそれほど関心を払わない。スーパーで野菜を買うときに、スーパーの社長や生産者が儲かることを考えて地団駄を踏むという人はいないだろう(いるかもしれないがそれはかなり例外的であろう)。

 

誰がつくり、誰が儲かるのかわからない、少なくとも直接の知り合いではないという匿名性が、効率的な市場均衡において大きな力を発揮する。宗教的な意味合いを含みに理解されがちな沈黙交易は、匿名性の担保という意味で、現代的な市場の成立要件をも備えていたわけである。

 

 

特殊意思そのものが特殊意思を調整する

 

そして第二の条件は、価格支配者、または市場参加者のあいだで、価格支配力を得るための協調行動がないことも、市場均衡が効率的であるための必要条件だ(その他にもいくつかの数学的条件が要されるが、それほど特殊で奇異なものではない。詳細はミクロ経済学の中級テキストを参照いただきたい)。

 

個々人の無政府的な行動が効率的な市場の出力に至る過程は、特殊意思から一般意志が形成されるストーリーとパラレルだ。そして、東氏のイメージする「一般意志2.0」の要諦は、特殊意思を匿名化するプロセスにある。さらに談合の排除は、一部の特殊意思が全体の意思になる危険性から、ルソーが『社会契約論』において政党を忌避したことと類似している。

 

このように両者の類似性をあげると、ふと新たな疑問が首をもたげてくる。スミスの公正観察者と見えざる手は経済学という学問分野を生み、現在に至る経済システムに実装されていった。その一方で、なぜルソーの一般意志はver.1.0のまま、目立ったアップデートをされることのない理論的な仮説(夢想?)でありつづけたのだろうか。

 

ここでキーになるのは市場を均衡させるもの、すなわち「価格」の存在である。個別主体の異なる欲求に折り合いがつかない(超過需要・超過供給が生じる)ときに、それを仲介し、妥協点を探る要因となるのは価格である。需要の過多は外的な強制ではなく、売り手にとっては「もっと儲けるチャンスだ」、買い手にとっては「少し高くついても買い逃しは避けたい」という意思によって解消される(超過供給の場合はその反対に「もう少し安くしてでも売り抜けよう」「もっと安い値段でも売ってくれるはずだ」という個人の予想が値下がりをもたらす)。

 

一般意志のアナロジーを使うならば、経済の取引においては個々人の特殊意思そのものが「特殊意思の相反を調整する機能」をも持っているというわけだ。価格という調整弁の存在によって経済の世界では、差異を保ちつつ無数の欲望が重なり合うことで形成される「一般意志」に至ることができた。

 

一方の政治の文脈においては、「特殊意思のみから出発し、かつ特殊意思間の調整をつける機能」が備わっていなかった。理論的不可能性ではなく、当時は、そして後に述べるように現在においても、経済における価格にあたる調整弁が発見されていない。そのため、ルソーの発想は実装・活用の方向に発展することがなかったのではないだろうか。

 

 

 

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vol.2019.4.15 

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