日本の産業と経済政策 ―― 過去、現在、未来

【シノドスに参加しよう!】

▶メールマガジン「αシノドス」

 https://synodos.jp/a-synodos

▶セミナー「シノドス・サークル」

 https://synodos.jp/article/20937

▶ファンクラブ「シノドス・ソーシャル」

 https://camp-fire.jp/projects/view/14015

岩田規久男先生が経済学を志した経緯

 

宮川 南部先生ありがとうございました。では次に、岩田先生にこれまでの研究と日本経済についてお話いただきたいと思います。

 

岩田 みなさんお集まりいただきありがとうございます。今日は、わたしが経済学を志したきっかけと現在の経済政策についてお話したいと思います。

 

大学卒業後にちょうど父が退職しまして、大学院にいくお金はだせないと言われてしまいました。心ならず銀行に就職したものの、やはり嫌々ながらの就職は続かないもので、4か月で辞めてしまった。ちなみに南部先生も1ヵ月で辞められています(笑)。

 

どんなに苦しくても大学院に行き研究者になろうと決心し、東京大学の大学院を受験しました。このとき南部先生も同じように試験を受けられ、運よくふたりとも合格しました。

 

もともとわたしは経済理論それ自体にあまり興味がなく、その応用である経済政策を研究し、世の中の役に立てばと思い、東京大学大学院にあるふたつのコース、「理論経済コース」と「応用経済コース」の、応用経済コースを選択しました。

 

当時、応用経済コースで近代経済学を教えられていたのは、その頃はまだ助教授であった小宮隆太郎先生だけでした。小宮先生の研究室を訪れて指導教官をお願いしにいったのですが、とにかく怖かったですね(笑)。小宮先生に「きみはなにをやりたいのか」と聞かれて、ケインズ経済学くらいしか知らなかったものですから「財政政策、金融政策がやりたい」と答えたら「ふーん」と言われてしまった。

 

あの頃は、経済安定政策よりは経済成長論が流行っていて、財政・金融政策のような短期的な政策を研究する雰囲気がなかったんですね。小宮先生は「ずいぶん古いやつだな」とお思いになったのかもしれません。

 

大学院に入って1年後、医学部で事件が起こり、東京大学大学院経済学部研究科が無期限ストに入ってしまった。勉強できなくなって困っていたところ、小宮先生が開発銀行設備投資研究所のアルバイトを紹介くださった。その研究所の面接で「もうひとり困っている大学院生がいるので一緒に採用してください」とお願いしたら、南部先生も採用していただきました(笑)。

 

設備投資研究所のアルバイトは非常に恵まれた環境でした。東京大学の図書館よりも資料がそろっていて、コピーもただでできる。さらに宇沢弘文教授という大先生が顧問をやっていらっしゃった。小宮、宇沢とふたりの巨人に指導を受けたのはわたしくらいではないでしょうか。お二人の先生にご指導いただいたからこそ今日のわたしがあるといっても過言ではありません。ですからわたしは規制改革論者で、政府系の機関はいらないという立場をとってはいますが、開発銀行については一度も批判したことがありません(笑)。

 

修士論文は設備投資をテーマに書きました。論文を書くために企業金融を勉強していたところ、ちょうど小宮先生も企業金融を研究されていました。先生に声を掛けられて、『企業金融の理論』を日本経済出版社から共著で出版しました。

 

4年ほど設備投資研究所にお世話になり、上智大学で金融論を教えていました。じつは金融論はあまりやっていなかったのですが(笑)。

 

 

土地問題と環境問題の研究

 

1970年代に、小宮先生が書かれた地価問題の論文を読んで非常に感銘を受けました。日本人は、地価が高すぎて住宅が買えないことが原因で貧しいんだと思った。そこでわたしも土地・住宅問題を研究し始め、小宮先生と「地価理論の混乱を糾す」という論文を書きました。当時はマルクス経済学が、独特な地価の決定理論を展開していたため、わたしの初めての論争となる地価論争がはじまった。わたしはいままでいろいろな論争をしてきましたが、地価論争がきっかけで、論争するスタイルになったように思います。

 

1977年には『土地と住宅の経済学』という、土地・住宅問題についてまとめた本を出版しています。

 

日本は、線路沿いに住宅密集地がありますね。しかし欧米を旅行すると、都市を出ると、あとは農地ばかりで住宅をみかけないんです。コンパクトに都市に住んでいるということです。近代の交通体系から考えると、このような土地利用でないと環境のよい都市はできないのではないかと思いました。

 

加えて、当時は大阪空港騒音訴訟、新幹線騒音訴訟、自動車の騒音公害問題など、騒音問題がとてもクローズアップされていた。この問題も土地の利用方法が不適切なために生まれていると思いました。土地問題は法律にも関連します。そこで土地の買収や騒音被害者にはどのように賠償すべきかを「損失賠償の経済分析」という論文にまとめました。

 

こうした研究をしていたところ、経済学者のもうひとりの巨人・稲田献一先生から「環境問題を研究してみないか」と言われた。というわけで、環境問題を10年ほど文科省の科学研究費の援助を受けながら研究しました。このとき稲田先生から八田先生を紹介いただき、一緒に研究しました。

 

しばらくは環境問題の研究をしていたのですが、1980年代にバブルで地価があがり、出版社やマスコミから「昔、土地問題を研究していたでしょう」と声がかかるようになり、土地問題に先祖返りしました。このときは上智大学の山崎福寿先生などと共著で『土地税制の理論的・計量的分析』という本を出版しています。

 

 

マネーサプライ論争の始まり

 

そして90年代にバブルが崩壊しました。

 

あるときわたしの上智大学の教え子、というよりもわたしが教わったというべきなのかもしれませんが、大和総研で働いていた岡田靖さんが1枚のグラフをもってきてわたしにこう言いました。「岩田先生、マネーサプライがこんなに落ちています。日銀はこれを放置しているんですよ」。

 

岡田さんがもってきたグラフを見ると、マネーサプライが1930年代のアメリカそっくりに急激に減少しているのです。「これを放置しているなんてけしからん!」と思い、1992年9月に、週刊東洋経済に「『日銀理論』を放棄せよ」を寄稿しました。ちなみにこの題名はわたしがつけたものではありません。出版社が命名する権利をもっているんです。初めて題名をみたとき「『放棄せよ』なんて酷いじゃないか!」と思いましたが、確かに「放棄せよ」といった内容ですからしょうがないですね(笑)。

 

「『日銀理論』を放棄せよ」では、「世界の標準的な理論からみて、日銀理論はおかしい。このままでは日本はどんどん悪くなる」と主張しました。この主張に対して、日本銀行の翁邦雄さんが反対してきた。マネーサプライ論争の始まりです。地価論争に始まり、さまざまな論争をやって、もう論争はこりごりだと思っていたのに、また始まってしまいました。

 

1998年に消費者物価指数でも日本はデフレになりました。論争は本格化していくのですが、どういうわけか日本銀行を支持するエコノミストばかりで、孤立無援状態でした。しかも師匠である小宮隆太郎先生が、「日本銀行の金融政策は100点満点だ」といった論文を書かれた。このときは決定的なダメージを受けましたね。師匠との論争は非常に難しいんですよ。日本は目上の人に敬語を使わなくてはいけませんよね。皆さんもぜひ敬語で論争してみてください。難しいですよ(笑)。

 

孤立無援の状況で孤独な戦いをしていたのですが、東洋経済新報社の中山英貴さんの呼びかけで昭和恐慌の研究が始まり、わたしにも研究仲間ができました。これにはとても救われましたね。

 

もう20年くらい日銀理論を批判してきましたが、安倍首相が現れて、少しずつ変化の兆しがみえてきました。日本銀行の金融政策が変わって、デフレ脱却への道筋がみえてきているように思います。あとは、若い人たちにリフレ政策を理論化して欲しいなというのがいまのわたしの願いです。

 

 

1 2 3 4 5
シノドス国際社会動向研究所

vol.266 

・山本昭宏「平和意識の現在地――〈静けさ〉と〈無地〉の囲い込み」
・田畑真一「【知の巨人たち】ユルゲン・ハーバーマス」
・吉田徹×西山隆行×石神圭子×河村真実「「みんながマイノリティ」の時代に民主主義は可能か」
・松尾秀哉「【学び直しの5冊】〈現代ヨーロッパ〉」
・木村拓磨「【今月のポジだし】活動を広げよう――不登校支援」
・鈴木崇弘「自民党シンクタンク史(10)――「シンクタンク2005年・日本」自民党政権喪失後」