『乗数効果と公共事業の短期的効果への疑問──藤井聡先生へのリプライ』への追加コメント

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民間と政府の合理性についての論点

 

まず、当方が申し上げた討論について、飯田氏がどの様に回答されたのかを、確認いたしたいと存じます。

 

『藤井:第一に、そもそもGDP統計は経済規模を測る統計数値です。民間の活動と政府の活動の合計が国民経済の規模でありますので、何が「泣き所」なのか計りかねます。民間経済規模だけ測りたいなら、国民所得(NI)を用いればよろしいかと思います』

 

この点について、筆者の誤解でなければ、飯田氏は、「家計や民間企業が事前に価値がないと思っているものに支出すると言うことはない」という前提に立ち、かつ、マーケットメカニズムの中で無駄な投資を繰り返している民間企業は市場から退出する(倒産する)ため、基本的に市場には、無駄な投資をする企業は存在しない、という「考え」を「表明」され、かつ、その「考え」が、現代経済学で共有されている教科書的な大前提であるということを「説明」しておられます。

 

一方で、政府は、(無駄ではない投資をすることも当然あり得るが)マーケットメカニズムが働かないために無駄な投資を続けることができるという「仮説」を「暗示」しておられます。

 

この飯田氏のご回答は(重ねて筆者の誤解でなければ)要するに、飯田氏が二つの仮説を前提としておられることを示唆しています。

 

 

(仮説1)民間企業は基本的に、合理的な投資を行う。

(仮説2)政府は基本的に、民間企業よりも非合理的な投資を行う。

 

 

しかし、まさに、当方が討論で申し上げたいのは、こうした「考え」や「仮説」が

「現実と乖離している疑義が濃厚である」

 

という一点であります。

 

そして、この当方の指摘は、上記の第一の当論点のみならず、以下の様に、第二、第三、第四、第五の、合計5つの討論点全てに共通する指摘です。

 

『藤井 第二に、それはさておくとしても、この主張は「政府の投資は無駄」である事が多いと言うことを暗に前提にしておられるようですが、…(略)』

 

(⇒これは、上記飯田氏の「仮説2」(政府は基本的に、民間企業よりも非合理的な投資を行う)が非現実的ではないでしょうか、という指摘であります)

 

『藤井 第三に、製鉄会社や造船会社等が、自社のために道路を引き、それを一般に供用するという例は、全国でしばしば見られます。この場合、できあがる道路は、利用者にしてみれば政府がつくる道路と差異がありません……(中略)……。この点を踏まえるなら、政府の道路投資をGDPに計上することだけが不合理であるかのように論ずることこそが、不合理であるという結論を受け入れざるを得なくなるのではないかと思われます』

 

(⇒これは論理的には、上記飯田氏の「仮説1」(民間企業は基本的に、合理的な投資を行う)が非現実的ではないでしょうか、という指摘であると解説することができます)

 

『第四に、この飯田氏の主張では(原稿全体を通して)、民間の消費・投資については言及しておられないのですが、このことは、民間の消費・投資には無駄は無いという事を前提しておられることを暗示しています……(略)』

 

(⇒これは文字通り、上記飯田氏の「仮説1」(民間企業は基本的に、合理的な投資を行う。民間企業は、合理的な投資を行う)が非現実的ではないでしょうか、という指摘であります)

 

『藤井 第五に、上記の様な議論を経ずとも、以下の仮想ケースを一つ想像するだけで、政府支出だけを取り出して、「統計の泣き所」と指摘する態度は、正当化しずらくなるように思います。すなわち、「どこかの物好きの金持ちが、穴を掘って埋める事業を見たいからといって、それを建設業者に頼んだ」という場合です』

 

(⇒これは上記飯田氏の「仮説1」(民間企業は基本的に、合理的な投資を行う)が非現実的ではないでしょうか、という指摘であります)

 

つまり、当方は要するに、上の第一から第五を指摘することを通して、

 

 

(仮説1)民間企業は基本的に、合理的な投資を行う。

(仮説2)政府は基本的に、民間企業よりも非合理的な投資を行う。

 

 

という、飯田氏が言うところの、『一般的な経済学のテキスト』が陰に陽に前提としている2仮説が、現実と乖離しているのではないか、そして、そういう誤った仮説に基づいて検討した「経済政策」を、雑誌という公器において主張することは、国益を毀損する可能性を増進させるのではないでしょうか、という趣旨の「討論」を飯田氏にさせていただいた次第であります。

 

そして飯田氏は、この点については、飯田氏の書籍『飯田のミクロ』(光文社)をはじめとした、『一般的な経済学のテキスト』が、この二仮説が正しいと論じ、かつ、その仮説に基づいて理論体系を構築してあります、という事実をご説明いただいた次第であります。

 

実を言いますとこの論点は、心理学、とりわけ昨今のノーベル経済学者の業績で言いますとダニエル・カーネマンやハーバート・サイモン等の、社会心理学、認知心理学研究に基づく経済学批判の中で、何十年という長い間繰り返し論じられてきた論点であります。

 

そして、少なくとも、「実証科学的」な視点から言うならば、(筆者の学者人生を賭して断定しても構いませんが)「(仮説1)民間企業は基本的に、合理的な投資を行う」という仮説は成立しない、と断定申し上げてもよろしいのではないかと主観的に感じております。

 

そのあたりは、当方の2000年代前半の頃の下記の研究論文(Fujii, Kitamura, Suda, 2004; Fujii& Garling 2003; 藤井,2001,2010)を中心にご参照頂ければと思いますが、要するに、人間の主観的な価値・満足度にせよ選好(効用)にせよ、意思決定、選択、判断にせよは、僅かな要素(情報の提示のされ方や、その時の気分、提示の順番等)に極めて甚大な影響を受けるのであり、かつ、その僅かな要素は短期的に目まぐるしく変化するものである以上、そうした選好や選択等もまた短期的に目まぐるしく変化し得る、ということが科学的に明らかにされているのであります(例えば、需要側供給側双方のあらゆる側面で流行は目まぐるしく変化します)。

 

これらの研究から暗示されるのは、「(仮説1)民間企業は基本的に、合理的な投資を行う」という仮説が真であるとは考えがたい、という論理的帰結です。

 

とはいえ、飯田氏が主張しておられるように(あるいは、現在主流となっている一般的な経済理論がおおよそ前提としているように)、帰結の観点から不合理な企業(つまり、たとえば、儲けられない企業)は、自由なマーケットが存在していれば退出(つまり倒産)することが期待されます。その結果、「儲けられる合理的な企業」だけがマーケットの中で生き残り、その結果、やはりマーケットに残っている企業は「合理的な投資を行う企業」だけとなっていく、ということは「理論的な可能性」としてはあり得ることになります。

 

これが飯田氏、あるいは、一般的な主流派経済理論の基本的な主張であると考えられますが、残念ながら、その「理論的な可能性」が現実のものとなる「可能性」は、「極めて低い」と、理性的な論者であるなら言わねばならないのではないかと考えられます。

 

なぜなら、「マーケットからの退出」プロセスは、「選好や行動、あるいは、流行がめまぐるしく変化していくプロセス」に比べて遙かに「緩やか」にしか進行しないので、その時々の非合理的な企業を目まぐるしく退出させていく事は、現実的に不可能であると言わざるを得ないからです。

 

(このあたりの指摘は、ケインズが、美人投票の比喩で論じようとしたものと同様だと言うこともできます)

 

したがって、(無駄な投資をするような法人が退出をして)「市場価格が主観的な価値とおおむね一致する」という飯田氏が主張されるような事態は、心理学上の科学的知見に基づくなら、論理的に到底受け入れがたい主張であるということとなるのであります。

 

逆に、飯田氏がおっしゃる「主観価値」は長期的な合理性を反映出来ぬものであることは、行動心理学で何十年も繰り返し証明され続けた命題でもあり、かつ、社会的文脈でも繰り返し証明され続けている命題でもあります(詳細は、例えば心理学のテキストであります藤井(2003)や、動物行動理論の数理モデルを描写した竹村・藤井(2005)をご参照ください)。

 

そして、マーケットによる退出プロセスは、短期的な主観的合理性(例えば流行を追いかけるだけの合理性)よりは「長期的合理性」(いわば、「神」に近い合理性)の方が実質的により強い影響があることは論理的に明白であると考えられる以上、この点からも「市場価格が主観的な価値とおおむね一致する」という事態が生ずるとは、やはり考え難いわけであります。

 

いずれにしても、「心理学」を中心とした「行動科学」「認知科学」に基づくと、飯田氏が主張している「(仮説1)民間企業は基本的に、合理的な投資を行う」という仮説は、理性的な論者であるなら到底受け入れがたいものであることが一目瞭然のものとなるのでは無いかと、筆者には思われます。

 

(なお、これは全ての企業が非合理的であると主張したり、マーケットは合理性の確保において全く無意味である、という強い主張をしているわけでは無い点、ご了解願います。筆者はただ、「常に民間企業は合理的だ」と考える事は不可能であろうし、おおむね基本的に合理的だと信ずることも極めて厳しいのではないか、と言うことを主張しているに過ぎません)

 

その一方で、政治的決定に基づく国土計画、都市計画はいずれも、短期的、狭域的合理性を達成しようとするものではなく、長期的広域的合理性を保障しようとするものです。

 

その具体的詳細は、同じく当方の公共選択の社会科学についてのテキスト(藤井、2008)を参照頂きたいと思います。無論、当方が、このテキストで記載した通りに常に政府が動いているという事を断定している訳ではありませんが、過去のインフラ投資が各国の経済成長に多大なる影響を及ぼしている事は、当該テキストにも論じた通り明白であると考えられる訳です。

 

そして、合理性は短期的なものよりも長期的な合理性がより、我々の人生、社会にとって重要な意味を持つことは明白でありますから(明白でないとお考えの場合は、当方の社会的ジレンマ、公共心理学のテキストであります藤井(2003)をご参照下さい)…。

 

仮に、政府において市場の退出メカニズムが働かないと暗示する飯田氏の指摘が真であることを鑑みましても、「(仮説2)政府は基本的に、民間企業よりも非合理的な投資を行う」という仮説を、飯田氏のように自明の前提のようにして議論を展開することは、理性的な態度とは乖離している疑義が見受けられるように、少なくとも筆者には思われる次第であります。

 

ただし、以上はあくまでも筆者の議論にしか過ぎませんので、上記の様な参考文献の提示した上で、後は、読者の皆様方の誠実な理性を信じ、これ以上の議論については、ここでは差し控えたいと思います。

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.269 

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・中西啓喜「データサイエンスは教育を「良い方向」に導くのか?――学級規模の縮小を例として」
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