なぜ学校で体罰や指導死が起こるのか?――社会に蔓延する“ダークペダゴジー(闇の教授法)”

「汚れた手のジレンマ」

 

――ダークペダゴジーに手を伸ばしてしまう教師の心理とは、どのようなものなのでしょうか。

 

教師がダークペダゴジーに依存する誘因のなかには、単なる精神的疲弊だけでなく、教師という仕事につきまとうモラルジレンマがあると考えられます。現場の学校教師たちの直面するモラルジレンマは、政治哲学における「汚れた手のジレンマ」の一種と考えることができます(注14)。

 

「汚れた手のジレンマ」とは、自分の役割責任を果たすことと清廉潔白に生きることの両方を同時に満たすことができないという葛藤状況を指します。政治家であれば「有権者の代表として政治家を続けるために地域の有力者と取引すべきか否か」「市街地に仕掛けられた時限爆弾の在処を知る捕虜を拷問すべきか否か」などがその例となります。現実の政治家が政治的職業責任を引き受けるために道徳や法に反しなければならないように、現実の教師も、教職の責任を引き受けるなかで、教職倫理である「すべての子どもの最善の利益の保障」を手放さなければならなくなる場合があります。

 

多くの教師にとって自身の役割責任の根源は「子どものため」であり、子どものためを思って最善を尽くし、それで確かな手応えを感じられていればモラルジレンマは起こりません。しかし、現実の学校現場は容易ではありません。子どもを叱るという行為は「指導とケアのモラルジレンマ」を孕んでいますし、授業中に騒いでいる子どもを放置すれば他の子どもの学習権の侵害になりかねません。「いじめ問題」であれば被害生徒の人権を守りつつ加害生徒の人権も守る高度な判断が必要になります。複数の子どもの利害対立をどのように調停するかは常に難問で、教師たちは慢性的な自己不全感に苛まれがちです。

 

 

――ただでさえ多忙な校務を抱える中で、さまざまな立場にある生徒たちをまとめるのは大変ですよね。

 

そうなのです。教師の場合、日々の実践のなかで、意図せず子どもの心を傷つけたり、子どもから恨まれることがあります。あるいは介入すべき問題を看過してしまったり、現実的制約のなかで妥協してしまったり、子どもから軽んじられたりして薄汚れた気持ちになることもあるでしょう。それらは自身の職業的アイデンティティを揺さぶられる危機的体験であり、教師自身も深く傷つきます。現実の教壇に立ち続けることは常に役割葛藤を含むわけです。

 

この苦しいモラルジレンマから抜け出すためには、実践力を磨いて汚れなき理想的教師像に向けて自己実現を進めていくか、認知のあり方を変えて「自分は十分にやっている」と自分を認めてあげるか、あるいはその両方が必要です。さもなければ葛藤に耐えきれず職を辞す他ないかもしれません。

 

「快刀乱麻を断つ」ということばがありますが、ダークペダゴジーには白黒つけにくい問題状況をシンプルに一刀両断にする明解さがありますし、ダークペダゴジーが支配する空間では子どもが萎縮する分、子ども同士のトラブルも減少します。小難しい理想論を捨てることでクヨクヨと悩まずに済みますし、満点ではありませんが、学級崩壊やいじめのような最悪の状況を防いでいるという点では自分を誉めてあげられるのです。前述のとおり教師は過酷な労働環境に置かれていて、世間からの風当たりも強く、もはや社会から見捨てられているも同然の状況ですから、自分で自分を許すほかなくなります。

 

ダークペダゴジー系の教育実践本が売れる理由もここにあります。ダークペダゴジー本は「悪いのは子どもであり制裁を加えてよい。それが子どものためになる」と宣言して教師の満たされない思いを承認してくれますし、「小難しく考えず、これだけやればOK」という要点を提示してくれます。そのことばは教師を続けるべきか辞めるべきか追い詰められている教師にとっては福音になるのです。

 

ダークペダゴジーに手を伸ばすこと、それは「清廉潔白であり続けるために手を汚さないようにする」という理想的状況から「日々を生き延びるために手を汚す」状況への転落であり、さらにその先には、前述の「認知整合」機能による「清廉潔白であり続けるために手を血に染める」という価値転倒が待ち構えています。それはたとえば「悪い生徒から善い生徒を守る正義の番人」という形での自己実現です。

 

 

求められる実践――「ホワイトペダゴジー」

 

――先生たちがダークペダゴジーを用いず、「汚れた手のジレンマ」から脱するためには、具体的にはどのような方法があるのでしょうか。

 

ダークペダゴジーの代替案としていくつかの案がすでに提案されています。そのなかで広範に有効性が認められているのは、教師が強権によって問題行動を制圧し続けるかわりに、平和的に話し合うことでトラブルを乗り越えられるような「仲間づくり」を進めていくという方向性です。欧米には「ジャスト・コミュニティ・アプローチ」(注15)や「修復的対話アプローチ」(注16)と呼ばれる方法論がありますし、日本では全国生活指導研究協議会の「学級集団づくり」(注17)が有名です。教育科学研究会やその他の民間教育研究団体にもたくさんの蓄積があります。

 

共通するのは「子ども一人ひとりの声を聴くこと」「全員でしっかり話しあってルールを決め、それを守るために一致団結すること」「トラブルが起こったら丁寧に当事者の話を聞く機会を作り全員でその解決に向き合うこと」などです。こうした理念を実現するためには大変な時間と労力がかかりますが、即効性はないものの効果は徐々に蓄積していきますし、最終的には生徒自治という高みへ到達することができます。

 

日本の教育行政はアクティブラーニングにせよゼロトレランスにせよスクールスタンダードにせよ、舶来の方法論を有り難がります。しかし、日本の教師たちは、世界一「ブラック」な教育環境のなかで、「汚れた手のジレンマ」を昇華するために質の高い臨床技法と実践例とを編み出してきており、日本の教育実践のなかには、世界的に見ても極めてハイクオリティなものが多く含まれます。

 

散発的に現れては消えるいい加減なダークペダゴジーの言説ではなく、そうした良質な教育実践の蓄積を多くの教師に知っていただければ状況は変わるだろうと思います。たとえば民間教育研究団体の老舗である教育科学研究会の発行する月刊誌『教育』は2017年4月現在で856号、全国生活指導研究協議会の雑誌『生活指導』も731号を数えます。それだけ民間の教育研究団体には良質の蓄積がたくさん存在するのです。

 

しかし、大変残念なことに、多くの民間教育研究団体では、若手への世代更新がうまくいかず高齢化によって学校現場への影響力が失われつつあります。諸団体の発行する雑誌も廃刊や年間刊行回数の縮小が相次いでいるなど悲惨な状況です。多忙すぎて自主研修どころではないという労働環境が、教育の文化を根絶やしにしつつあるわけです。

 

 

――日本でも教育科学の領域では、すでに有効な方法論がたくさん蓄積されているんですね。どうすれば、そうした子ども同士の関係を作っていけるのでしょうか。そのための具体的な方法を紹介していただけますか。

 

前述のような「仲間づくり」の実践は、即効性においてダークペダゴジーに劣るという弱点があり、「仲間づくり」と言われても「何から手を付けて良いか分からない」という声も聞かれます。また良識的な教育実践論は、良識的であるがゆえにダークペダゴジーに対してはかなり冷たいまなざしを向けることが多く、悩める教師に紹介しても「なんとなく責められているようで読む気になれない」という声も幾度と聞いてきました。ダークペダゴジーを捨てて「仲間づくり」に手応えを感じられるまでの間を取り持つような何かが必要なのだと思います。

 

そのため、ここではホワイトペダゴジーというコンセプトを提案したいと思います。ホワイトペダゴジーとは「教職倫理にかなった教授法(ペダゴジー)」のことであり、たとえば「短所や失敗を叱るより長所や成功を誉める」「威圧による服従の代わりに献身によって協力を引き出す」といったコミュニケーション方法が該当します。ホワイトペダゴジーの内容は決して新しいものではなく、良識的な教育実践運動のなかで蓄積されてきた暗黙の臨床知を蒐集したものに過ぎません。前述のとおり日本の教育界は舶来の品を珍重する傾向があるので、暫定的に、横文字のコンセプトにしました。

 

ホワイトペダゴジーの一例としてピグマリオン・メソッドがあります。元々は教育心理学の有名な実験で、教師に対して「検査によって一年後に成績の伸びる可能性の高い生徒のリスト」(実際はランダムに生徒の氏名を掲載したもの)を渡すと実際にリストに名前の載った生徒の成績が上昇するという現象から生まれたものです。教師の思い込みが子どもに対して予言的に機能するわけですね。これを応用し、問題を起こした生徒に対して「だからお前はダメなんだ」と頭ごなしに人格否定をするかわりに「どうした、君らしくないじゃないか。何か理由があるの?」などと尋ねて、生徒の問題行為を貶しつつ、その尊厳を守り励ますことで生徒の問題行動を治めていくという方法です。いわば、教師の信じる「本当のあなた」の側に現実の生徒を引き寄せていく方法といえます。

 

 

――褒めて伸ばす、というようなスタンスですね。

 

おっしゃるとおりです。ピグマリオン・メソッドの真髄は、叱るコミュニケーションの背後にも常に褒めるコミュニケーションが働いている点にあります。この方法は特に自己肯定感が低く荒んだ気持ちになっている子どもにとって有効に機能します。日本の子どもは世界的に見ても自己肯定感が著しく低い状況にありますから、有望な方法に数えられます。

 

もっとも、これを小手先のテクニックとして使うことは悪しき操作主義と言うべきかもしれません。暴力的でない分だけより巧妙なコントロール技法だと言えなくもないわけです。ホワイトペダゴジーに対する評価に関しては賛否両論があると思いますし、実際、月刊誌『教育』(2015年12月号)で「シメない教育のすすめ」を特集した際も隠れた争点の一つになっていました。しかし操作主義を批判する聖人君子的なカリスマ教師もまた実際には自分でも気づかないうちにホワイトペダゴジーを活用しているという現実もあります。ホワイトペダゴジーは、ダークペダゴジーを拒絶しながら子ども集団による健全な学校自治を生み出すための過渡的な必要悪(lesser evil)なのかもしれません。

 

さらに言うと、実はピグマリオン・メソッドは教師自身にとっても有効に機能します。共感的なカリスマ教師でありたいと願い、常に理想的な教師像と一体化して子どもの良いところを見つける努力を続けるうちに、前述の「認知的整合」が起こっていつしか心の底から共感的なカリスマになっていくのです。理想的教師像と一体化するに連れて子どもへの感銘力は高まりますし、ダークペダゴジーの誘惑に対してもタフになれます。心理学ではそうした成長過程を「セルフ・ピグマリオン・プロセス」と呼びますが、ホワイトペダゴジーはそうした意味で単なる小手先のテクニックに留まらない希望があります。

 

繰り返しになりますが、ホワイトペダゴジーには危険性や限界性があることも忘れてはならないと思います。たとえばこれは教育社会学者の吉田美穂さんが「お世話モード」と呼ぶものですが、校則が厳しければ厳しいほど「締め付けから生徒を守る」という役割を教師が負うことで生徒との信頼形成もしやすいのです。警察の尋問などでも強面の鬼刑事と人情味のある仏の刑事の二人で挟み撃ちにする「マット&ジェフ」テクニックという技法が知られています。ホワイトペダゴジーは実はブラックな環境であればあるほど光り輝くという側面があるわけで、そこにはある意味での共犯関係がありえます。

 

また、生徒を指導室に呼んで罵声を浴びせ、生徒が泣いた頃合いを見計らって急に慰めはじめるといったようにして「飴と鞭」を使い分ける教師もいます。いわばダークペダゴジー側によるホワイトペダゴジーの濫用も常にあるわけです。

 

究極的には教育といういとなみ自体に他者介入にともなう暴力性が宿っているという原罪認識が必要です。とはいえ、多くの教師が短期的な手応えと引き替えに理想を捨ててダークペダゴジーを採用するこの難局にあっては、まずは、子どものために疲弊しながらも笑顔を絶やさない教師たちをねぎらいつつ、教育現場を生き延びるノウハウや、理想的教師像へ近づくための実践的叡知を蒐集提供することが必要とされているだろうと思っています。

 

学校教育のいとなみを手放しで「善きもの」とみなすことのできた時代は、学術的にも現実的にも、とうの昔に過ぎ去っていますが、さりとて学校教育を拙速に全否定することが賢明ではないという点も、近年は認識されつつあるように感じます。最近では通信教育やフリースクールなどを舞台とした多様な公教育のあり方が模索されていて、そこにはダークペダゴジーやいじめから逃れるための希望が宿っているとも思いますが、制度化にともなうメリット・デメリット両面について未知な部分も多く、慎重かつ実証的に議論を進めるべきだと思います。

 

今後、公教育がどうなっていくにせよ、学校教育をリスクや改善点の多い「必要悪」とみなしたうえで、如何にして過不足なく適正に使用していくかという論点は残り続けるでしょう。ダークペダゴジーをホワイトペダゴジーに置き換えていき、やがては公教育自体をよりよい対人援助のあり方へと置き換えていく、そのような漸進主義のなかの一つの布石として、ホワイトペダゴジーというコンセプトは有益だと思うのです。

 

 

学校からダークペダゴジーを駆逐するには

 

――教師が子ども中心の授業に取り組めるための社会側の改善策として、どのようなことが挙げられるでしょうか。

 

教員のストレスを下げるとともに、子どものために使える時間を用意する必要があります。そのためには当然のことながら「教員の労働環境」を改善する必要があるでしょう。この間メディア等でも前述したような教員の多忙状況に注目が集まっており、教員の労働時間に上限を設ける署名運動も行われています。朝から晩まで働かないと間に合わないような仕事量は減らされるべきですし、教師本人が望まない部活動顧問を強制されるといった状況は改善されなければならないと思います。

 

その意味では、労働時間に上限規制を設けたり「午後6時以降の在校禁止」などのような一律禁止による労働習慣の改善も過渡的には必要かもしれません。ただ、敢えて言えば、それらは問題の本質からするとやや一面的というか、あくまでもセカンドベストの方法かもしれません。

 

教育社会学者の久冨善之が興味深い指摘をしています。「教員の多忙」はブラックな社会構造によって強制された部分ももちろんありますが、それだけでなく教員文化に深く根付いた倫理的な行動様式としての側面を持つと言うのです。昔も今も尊敬される教師は「私生活を犠牲にして子どものために尽くす献身的教師」であって「定時で帰るサラリーマン教師」は軽蔑の対象になります。教師はそういう社会からの期待のまなざしを知っており、そういった価値観の内面化もしているため、なかなか多忙状況を手放すことができません。つまり多忙であることは教育者としての正統性の源泉としても機能しているのです。

 

別の言い方をすると、心配性の母親がお節介によって子どもの心身を束縛するように、教師もまた粉骨砕身して生徒に献身するその姿勢によって生徒や保護者に対する権威や信頼などの統制力を維持している側面があるのです。心理学では暴力や命令などによる統制をサディスティック・コントロールと呼び、お節介や献身による統制をマゾヒスティック・コントロールと呼びます。悲しいことですが「教師の多忙」は、ダークペダゴジーのようなサディスティック・コントロールを強化するだけでなく、抑制するためにも機能しているのです。

 

もちろん余暇を心置きなく楽しめることは労働者の権利として極めて重要であって、教師がその高度な専門職性を社会から認められ、授業準備や研修、部活指導など諸々を含めて1日8時間労働が守られる状況こそが理想的だと思います。しかし教員の権威や社会的信頼を維持増進する別案のないところで労働時間だけを抑制しようとすると「休めと言いつつ休んだら軽蔑する」というダブルバインド(二重拘束命令)となって、教師をかえって追い詰めることになりかねないのです。

 

教師が安心して労働時間を守れるように制度保障を進めていくためには、拙速なかたちで労働時間だけを枠にはめようとするだけでなく、事務処理や会議などに追い回されて授業準備や子どもとの接触交流の時間がとれない現状を変えて、それぞれの教師の理想的な教育実践を可能にすることも同時に進めていかないといけません。実際、職務ストレスに関する研究でも、「労働時間の長さ」は重要なストレス要因ではありますが、数あるストレス要因の一つに過ぎないとも言えます。「責任の過重さ」「やりがいの不足」「自己決定権の不足」など改善すべき点は他にもあるわけで、ストレス要因間のバランスをとりながら改善を進めていったほうが効果的だと思います。

 

そのためには「教員一人あたり生徒数」を現行の20人からTALIS調査参加国平均である12 人程度、いずれは優れた教育環境として有名な北欧諸国の平均水準である8人程度まで引き下げ、教師1人あたりの義務的労働負担量を減らす必要があるでしょう。そのうえで、良識的な教師たちが培ってきたホワイトペダゴジーを普及させる教師教育体制を作っていく必要があります。

 

また、我々の調査結果では、小中学校の区別なく学校の状況が困難であればあるほど強権的な校風になりやすいという結果も出ています(注18)。ダークペダゴジーを駆逐したければ、困難校に重点的に資源投入を行うことも有効だろうと思います。

 

 

――「一人一人の理想的な教育実践を可能にする」というのは面白いですね。単に労働時間を減らすだけではなく、一人が受け持つ生徒を減らすという施策も、ぜひ実現してほしいです。

 

はい。ただ、ダークペダゴジーを駆逐するためにはそれだけでは足りません。「元気になった教師がやる気を出してダークペダゴジーを活用して子どもの人格改造へと邁進する」という場合がありえるからです。教育への飽くなき情熱がダークペダゴジーを呼び起こすという側面もあるわけですね。

 

「教育の欲望」が暴走することを防ぐためには、学校運営に保護者や地域住民など外部の風を入れることが有効です。先ほどルシファーエフェクトを紹介しましたが、逆にいえば抑圧的な密室状況を開放することによってダークペダゴジーを抑制することが可能なのです。

 

もちろん「学校を開放しさえすれば万事うまくいく」というわけではありません。保護者や地域住民のなかにも体罰を礼賛したり、「トラブルメイカーの子どもを学校から排斥せよ」と言う者が含まれますし、教師が監視されることによって見栄えがよいだけの浅薄な指導が跋扈する可能性もあります。学校をどの程度外部に開放するのがよいのかは、各々の学校において教職員集団の精神的なゆとりや学校の人権意識などが最大化される条件を個別に模索していくほかないのではないかと思います。

 

ただ、前述の我々の教員調査では保護者が教育活動に積極的に参加していたり、保護者同士で活発に交流している学校ほど、教員の教育信念は協調的かつ発達支援的でしたし、教員の精神的疲弊もいくぶんマシでした。児童生徒の授業や学校行事への積極性も高くなる傾向があります。単なる監視強化の結果であれば、教員の精神的疲弊が高まるはずですが、実際はそうなっていないのです。

 

一概には言えませんが、保護者や地域住民を積極的に学校に呼び込むことは、教員の仕事の大変さや家庭の状況について相互に理解を深め信頼関係を結びなおす好機となったり、教師の手の届かない生徒指導を家庭や地域で分担してもらえるようになるなど、好ましい効果をもたらす場合のほうが多い可能性があります。

 

もうひとつ、学校に「外部の風」を入れるという点で注目すべき事例として「子どもオンブズマン」制度があります。オンブズマン(ombudsman)はスウェーデン語で「代理人(護民官)」を意味することばで、体罰やいじめ、虐待などの人権侵害に対して自分で声を上げづらい子どもの救済を行うための実行力を持った公的第三者機関を指します。

 

オンブズマンは国連「子どもの権利委員会」が設置を勧告している制度で、日本でも志のある自治体ではすでに10年以上の歴史があります(注19)。今後すべての基礎自治体に対してこうした機関の設置を義務化して有効に機能させることができれば、学校や家庭をはじめとする社会の各所に棲息するダークペダゴジーに対する市民の側の「切り札」のひとつになると思います。

 

 

社会全体に広がる悪循環の構造

 

――ここまで伺ったお話は、学校だけでなく、家庭や職場や医療施設など、さまざまな環境に当てはまりそうですね。

 

ダークペダゴジー問題を学校に特有の問題として見るのは問題の矮小化にあたります。詳細は『〈悪〉という希望』(教育評論社、2016年)所収の拙稿をご覧いただきたいのですが、攻撃性や自己中心性、強権志向や不寛容は「ブラック」な社会システムに対する人間の心的システムの側の反応として発生するものです。

 

社会に抑圧と競争の機運が高まれば、そこかしこで組織が「ブラック」化し、人間のダークサイドへの転落が起こります。ダークサイドに転落した人間は抑圧や競争に対して適応・卓越化しようとしますから、そこには悪循環が発生します。特に学校や家庭での暴力被害は子どもに原体験として刷り込まれ、世代交代の流れに乗って社会の隅々へと暴力を拡散させていきます。

 

学校からダークペダゴジーを駆逐することは、こうした悪循環を抑制するための重要な一手ですが、悪循環構造全体の潮流に逆らうものだけに、学校内部だけを改革対象としても実現困難です。そもそも教員の多忙さには、家庭や地域で担いきれない子育て役割を無限定的に引き受けることによって生起している側面があるわけで、家庭や地域の子育てに対して手厚い支援を行うことも教員をダークサイドから解放するための方法に数えられます。

 

そもそも、この「ブラック」な社会環境のなかで苦闘しているのは教員だけでなく民間の労働者や中央省庁の官僚、専業主婦や生活保護受給者、障害者、高齢者、子ども、その他のマイノリティなど(もちろん程度の差はありますが)皆同じです。逆にTALIS調査で優れた教育労働環境であることが示された北欧諸国は、人権意識や社会保障などについても好ましい状況にあることが各種統計指標によって明らかになっています。このように学校と社会のあいだには相同性や循環関係があるわけで、学校からダークペダゴジーを放逐することは人間・社会のダークサイドとの全面的な文化的闘争の一手として位置づけられる必要があると思います。

(2017年4月22日)

 

 

【注釈】

(注1)Alice Miller 1980 Am Anfang war Erziehung, Suhrkamp Verlag Frankfurt am Main(=A.ミラー 山下公子[訳]『魂の殺人:親は子どもに何をしたか』新曜社、1983年). なお、Schwarze Pädagogikの訳はブラックペダゴジー、ポワゾナスペダゴジー、闇教育、闇の教育術など複数存在します。

(注2)ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復〈増補版〉』みすず書房、1999年、p.115。

(注3)荒木紀幸[監修]道徳性発達研究会[編集]『モラルジレンマ教材でする白熱討論の道徳授業―中学校・高等学校編』明治図書出版、2013年。

(注4) 連合総合生活開発研究所「教職員の働き方・労働時間の実態に関する調査」2015年。

(注5)ベネッセ教育研究開発センター「第4回学習指導基本調査」2007年。

(注6)詳細は勁草書房から近日出版される共著の山田哲也論文をご参照ください。

(注7)山本宏樹「政治科学の進化論的転回」宮台真司[監修]現代位相研究所[編]『悪という希望―「生そのもの」のための政治社会学』教育評論社、2016年。

(注8)久冨善之[編著]『教師の専門性とアイデンティティ―教育改革時代の国際比較調査と国際シンポジウムから』2008年。

(注9)牧柾名・今橋盛勝[編著]『教師の懲戒と体罰』エイデル研究書、1982年。

(注10)友田明美『[新版]いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳』診断と治療社、2012年。

(注11)友田の研究は基本的に家庭内の虐待事例を元にしたものですのでやや文脈が異なりますが、小学校の場合は最低1年間にわたって朝から夕方まで暴力的教師と一緒におり、中高でも部活動は土日も含めて長期にわたって指導を受けるため、脳器質に影響が現れる可能性があります。詳細は山本宏樹「体罰を科学する」(『理大科学フォーラム』2016(5)、pp.34-39)をご参照ください。

(注12)フィリップ・ジンバルドー『ルシファー・エフェクト―ふつうの人が悪魔に変わるとき』海と月社、2015年。

(注13)これについても、詳細は山本宏樹「体罰を科学する」(『理大科学フォーラム』2016(5)、pp.34-39)をご参照ください。

(注14)マイケル・ウォルツァー『政治的に考える』風行社、2007年。

(注15)荒木寿友『学校における対話とコミュニティの形成―コールバーグのジャスト・コミュニティ実践』三省堂、2013年など。

(注16)山下英三郎『修復的アプローチとソーシャルワーク―調和的な関係構築への手がかり』明石書店、2012年など。

(注17)全生研常任委員会[企画]『生活指導と学級集団づくり―小学校』高文研、2016年。同『生活指導と学級集団づくり―中学校』高文研、2015年など。

(注18)山本宏樹「垂直的注入 vs 水平的発達支援―教師の教育的信念に関する実証分析」日本教育学会 第74回大会[テーマ部会B-2]学校のリアリティと教育改革の課題(a)『日本教育学会大会発表要旨集録』第74巻、および勁草書房から近日出版される共著をご参照ください。

(注19)詳細は、桜井智恵子『子どもの声を社会へ―子どもオンブズの挑戦』(岩波新書、2012年)や、喜多明人・荒牧重人・吉田恒雄・黒岩哲彦[編]『子どもオンブズパーソン―子どものSOSを受けとめて』(日本評論社、2001年)などをご覧ください。

 

 

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