学校なんか行っても意味がない?

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0.はじめに

 

こんにちは、畠山です。この世の中には、学校で勉強することなんて意味がないと主張する人たちと、いやいや学校で学ぶことには意味があると主張する人たちがいます。

 

実際に、高卒と大卒の賃金差や失業率の差を見ると、日本でも米国でも大卒のそれは高卒よりも状況が良いので(詳しくは、「大学生は多過ぎるのか、大学に行く価値はないのか?」という記事の中でデータを提示しています)、やはり学校に行く価値はある。…と考えることができれば話は楽なのですが、実際のところはそうではありません。

 

なぜかというと、紹介した記事の中でも言及していますが、大卒の賃金が高く失業率が低いという現象を説明する相反する二つの理論が存在していて、どちらの理論が優勢かによって、学校に行く価値があるとも無いとも言えるからです。今回は、教育経済学のもっとも基礎となる、このトピックについて話をしようと思います。

 

 

1.なぜ学校なんか行っても意味が無いのか?

 

学校に行くと賃金が高くなるのに、学校に行くこと自体に意味はない、というのはシグナリング理論によって説明されます。この理論の礎はノーベル経済学賞受賞者であるスペンスによって築かれます。この理論は結構難しいのですが、簡単に説明してみます。この理論の肝は二つの点に分けられます。一つは労働市場です。

 

考えてみると、応募者が把握している自分の能力値を、たかだか数時間の面接や、仕事の内容とどれだけ関係あるのかよく分からない筆記試験などのエントリープロセスを通じて、企業側が正確に把握してくれる、というのはなかなか難しいことではないでしょうか。そうであれば、労働者の能力値について、応募者側と雇用者側に情報の非対称性が存在している、と考えられます。

 

このような状況下では、自分の能力値が過小評価されて雇用されない・低賃金になることを避けるために、応募者は自分の能力が容易に雇用者に伝わるようなシグナルが欲しくなるはずです。人脈・職歴・資格など、いくつかの要因がシグナルになりそうですが、その一つとして学歴・学校歴も挙げられます。とくに日本の大卒新卒市場だと、学校歴が持つシグナリングの効果は、エントリー段階での学歴フィルターの存在などを考えると、小さなものとは言えないはずです。

 

学歴・学校歴が応募者の能力値を企業側に伝えてくれるとすると、ここでもう一つの肝である教育市場が出てきます。分かりやすさのために、ここでは議論を大学の学校歴に話を絞ります。日本の大学は難易度がピラミッド式になっていて、不正もあったりしますが、一般的には偏差値の高い大学ほど入学試験を潜り抜けるのが困難になってきます。

 

ここでさらに話の分かりやすさのために、能力値の高いAさんと、能力値の低いBさん、偏差値の高いX大学と偏差値の低いY大学に登場してもらいましょう。

 

入試突破のために割けるリソースがAさんとBさんで同じだと仮定すると、X大学に行くか、Y大学に行くかの分かれ目は能力値になってきます。AさんにとってはX大学に入学するためのコスト(時間・お金・精神的なもの、など)は手持ちのリソースで十分対応できるかもしれませんが、Bさんにとっては高過ぎるコスト(A大学に合格する学力に持って行くためには、高校三年間+浪人生活では間に合わない、教育費がかかり過ぎる、勉強が嫌いなのでそもそも無理など)になるかもしれません。

 

以上のような仮定を置くおくと、個々人の能力によって行ける大学のレベルが分かれてくるので、どのレベルの大学に入学したかは、労働市場における応募者の能力値のシグナルとして良く機能することになります。

 

つまり、シグナリング理論が成り立っている状況では、たとえ大学教育そのものに価値が無くとも、学歴・学校歴を得るためのプロセスが個々人の能力のシグナルとなるため、大卒者や難関大学卒業者の賃金が高くなり得るということになります。

 

そうであれば、個々人にとって意味があるのは選考プロセスであって、学校教育ではないので、最低限卒業できるだけの努力をしておけば良いのであって、それ以上の努力をして学ぶのはバカバカしいということになります。また、もし学歴・学校歴以上に自分の能力値を上手くシグナルしてくれるものを手に入れられるのであれば(人脈など?)、まさに学校なんか行っても意味が無い、ということになります。

 

そして、シグナリング理論が成立している状況は、個人以上に政府にとって大きな意味を持ちます。なぜ政府が学校にわざわざ介入しなければならないのかは、「アフリカから学ぶべき日本の教育無償化のダメな議論」という記事の、教育の外部性の中で詳しく解説しています。要約すると、教育には個人に留まらず社会や次世代に波及する効果があるので、個々人に教育投資の判断を完全に委ねてしまうと、その波及効果の分だけ社会全体での教育投資の水準が社会的に望ましい水準を下回ってしまうからだ、ということです(他にも資金制約の緩和・貧困層のリスク回避と情報の非対称性という重要な問題もあるので、ぜひ紹介した記事の方に目を通して見てください)。

 

しかし、シグナリング理論が成立している状況では、教育そのものには意味が無いので、この外部性も存在しないと考えられます。このような状況下で政府が教育にお金を突っ込むと、能力値が高い人が高学歴・学校歴というシグナルを獲得するためのコストを、能力値が低くすでに学校システムからドロップアウトし労働に従事している人が納めた税金で補助するという、逆再分配的なことになってしまいます。

 

ここで、個々人が自分の能力値を正確に把握していて、それに見合った学歴・学校歴を獲得するという仮定に対するツッコミがあるでしょうし、個々人が持っているリソースが一定なわけがないだろうというツッコミがあると思いますが、これらの仮定を緩めたモデルの説明はかなり複雑になって、それだけで字数を喰って編集長に怒られそうです。ここでの目的は、シグナリング理論というものがあって、それが成り立つ状況下では確かに学校に行っても意味が無いという状況があり得るということを理解してもらうことなので、話を先に進めていきたいと思います。

 

 

2.シグナルと関係なく学校に行かされた場合、どうなるか?

 

シグナリング理論が成立している場合、学校が人々の賃金を高めているのではなく、もともと高い賃金を得られる人たちが学校に行っているというセレクションバイアスが発生していることになります(タイトルはあれですが、東大生やその母親が語る「合格体験記」の信頼性が高くない理由、という記事の中で、教育経済学とバイアスについて簡単に説明しているので興味のある人はぜひ参照してみてください)。

 

裏を返すと、このセレクションバイアスに対処した場合に、それでもまだ学歴・学校歴が高い人ほど賃金が高いのであれば、それは学校に行くことに意味があった、つまりシグナリング理論と対立する理論である人的資本論が優勢であった、ということが示唆されます。

 

セレクションバイアスと関係なく、人々が学校に行く状況の代表例として、義務教育の拡大が挙げられます。この義務教育の拡大を利用して、学校に行くことに意味があるのかどうかを初めて検証した論文が、Angrist, J. D., & Keueger, A. B. (1991). Does compulsory school attendance affect schooling and earnings?. The Quarterly Journal of Economics, 106(4), 979-1014.です。

 

この論文はアメリカの話ですが、分かりやすさのために日本風に説明してみようと思います。日本だと義務教育は中学校卒業までと決められていますが、昔の米国はそうではなく、16歳の誕生日を迎えるまで、というかなり変わったものでした。しかし、学校は4月に始まると決められているので、義務教育修了の誕生日が来たら即退学するという集団に限って言えば、4月生まれの集団は3月生まれの集団と比べて、ほぼ一年早く学校を退学していくことになります。

 

この状況下で、義務教育修了の年齢を16歳の誕生日から17歳の誕生日へと延長するものの、そのタイミングが州ごとにバラバラだと、Difference-in-Difference(差の差)という、RCTに代表される因果推論の手法の一つが使えるようになります(近々Diff-in-Diffも解説しようと思いますが、待ちきれない場合は「原因と結果の経済学」や「データ分析の力 因果関係に迫る思考法」といった本を読んでみてください)。

 

この論文はこの手法を用いて、義務教育修了年齢が16歳から17歳に延長されて、能力と無関係に学校に強制的に行くことになった(セレクションバイアスが発生していない)インパクトを分析しています。その結果は、一年間強制的に教育を受けさせられて、賃金が6-8%程上昇したというものでした。

 

この結果を額面通り受け取ると、学校に行くことには経済的な意味がある、となりますが、解釈に注意が必要です。なぜなら、この分析の対象になっているのは、義務教育修了の誕生日が来たら即退学する局所的な集団であって(義務教育修了年齢の延長によって就学率は4%程度しか伸びていない)、平均的な人にとってはどうなのかがイマイチ良く分からないからです。もう一つ、3月生まれと4月生まれ云々のところも問題があるのですが、こちらも説明しだすと字数を喰うので、この相対年齢効果についても、またそのうち記事を書いてみようと思います。

 

そこで、Oreopoulos, P. (2006). Estimating average and local average treatment effects of education when compulsory schooling laws really matter. American Economic Review, 96(1), 152-175.という論文は、イギリスの義務教育修了年齢延長のインパクトをRDを使って分析しました。

 

アメリカのケースでは人口のわずか数%にしかインパクトがありませんでしたが、イギリスの場合は影響を受けた年齢の退学率が下の図にあるように、57%から10%に減少しているので、平均的な人々へのインパクトが見えます。結果はアメリカのそれとほぼ同じで(切断面で賃金がピョコンと上がっているのが分かると思います)、学校に行くことに経済的な意味があるというのは、局所的というよりも平均的だということが示唆されました。

 

 

 

 

 

学校が能力値を高めるのではなく、もともと能力値の高い人が学校へ行くというセレクションバイアスを取り除いてみても、教育は人々の賃金を上昇させたり、人々の健康なども改善したので、学校なんか行っても意味が無いというシグナリング理論が、教育のすべてを説明するわけではないということが分かります。

 

じつはシグナリング理論への挑戦は、このセレクションバイアスへの挑戦以外の角度からも行われているので、それらの結果も章を改めて紹介しようと思います。【次ページにつづく】

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.268 

・植原亮「エンハンスメント論争の行きつくところ――BMIから徳へ?それとも?」

・出井康博「留学生という名の単純労働者」

・堀内進之介「学び直しの5冊〈現代社会〉」
・有馬斉「患者が望まない延命治療を行うことは正当化できないパターナリズムか――『死ぬ権利はあるか』出版に寄せて」
・穂鷹知美「移動の自由がもたらす不自由――東ヨーロッパを揺り動かす移住・移民問題」
・多賀太「男性の「ケア」参加はジェンダー平等実現の決め手となるか」
・吉永明弘「ローカルな視点からの環境論」