どうしてぼくたちはすれ違うのか ―― 社会学者が語る、震災後の断絶の乗り越え方

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「私のことはほっといて」

 

五十嵐 でも、円卓会議では、やり残している点があります。それは、「0ベクレルじゃなきゃ嫌だ」という人に語りかける言葉を、もっていないんですよ。震災から、2年がたって、それでもまだみたい情報だけみて、信じたいものだけを信じて。そうやって社会が分断されている状況が、ぼくは良いことだとは思わないので。開沼さんは、彼らにどう語りかけていけばいいと思いますか。

 

開沼 難しいですよね。先ほど例にだした「見せる課」の方がこのようなことをおっしゃっていました。市民の態度は4パターンに分けられると。1つ目は「はじめからぜんぜん気にしていない方」、2つ目は「前は気にしていたけど、いまは大丈夫だろうと納得して買っている方」、3つ目は「大丈夫かも、と思いはじめているけど、納得しきっていないので買わない方」、4つ目に「以前からずっと頑なに買わない方」。

 

放射線量をめぐる問題は科学的な話でもあるんですが、もはや宗教的信条として捉えた方が分かりやすい側面もあります。そもそもの生き方や、受けてきた教育、周囲の人間関係、今後の見通し等々にかかわってくる問題であって、科学的合理性で解決しきれる問題ではない。いくら、「農業が」「線量が」という話をしたって、その断絶を乗り越える言葉を見つけるのは難しいのかなと思っています。

 

そのなかで、「頑なに買わない方」をどう変えるか。これには答えはありません。とりあえずは、3番目の「納得していないので買わない方」に働きかける。別に必ず買って貰う必要はないですが、まずはコミュニケーションをとっていく。そして、こういう価値観もあるんだよと、間接的に伝えていく。それしかないのかなと。それくらい、4番目の方は手ごわいなと思っています。

 

五十嵐 「泣くな、はらちゃん」(日本テレビ)というドラマをご存じですか。ぼくは好きで、昨日もみたんですけど。

 

テーマソングの歌詞を調べたら面白いことをいっているんですね。「世界の誰の邪魔もしません 静かにしています 世界のなかの小さな場所だけあればいい おかしいですか? 人はそれぞれ違うでしょ? でしょでしょ? だからお願いかかわらないで そっとしといてくださいな だからお願いかかわらないで 私のことはほっといて」(「私の世界」)こういう歌詞。ある意味、とても多文化主義的なビジョンなんですね。

 

限られたマーケティングを目指している円卓会議自体、じつはこうした「小さな世界」を目指していたという位置づけもできるかもしれません。行政が発信する情報のほかに、セカンドオピニオンをだして、ぼくらの発信方法、ぼくらの基準で納得してくれ、地元への気持ちを共有できるお客さんを見つけながらその人たちに届くことをしようと。そこには、その価値観を共有できるコミュニティをつくる意味合いもあったんですね。

 

原発事故以降、あちこちでまさに「小さな世界」がつくられているという状況がつづいています。いままで絶対に事故は起こさないといっていた科学が、いや心配することありませんって、わーと情報を押しつけてくることに、信用できないとリアクションすることは、当然のことだと思うんです。自分たちの信用したい小さな世界をみて、「私のことはほっといて」「食べて応援なんて押しつけないで」という時期があっても仕方ないんじゃないかな。

 

あれだけの大事故があって、あれだけの混乱があって、なにも信じられないという時期があったのですから、しばらくはそのぐらいの価値観の分断があっても、自然ですよね。

 

ほっとかれる以上に、「農家は毒をつくるな」といわれると、むしろ生産者の側が「ほっといて」という気にはなってくるんですが(笑)。

 

それはそれで必要なプロセスだったと思うんですが、そろそろ、「私のことはほっといて」という世界からみんなが少しずつ踏み出して、歩み寄らなきゃいけないのかなと思いますね。円卓会議のやるべきことはマーケティングという意識だったために、言い方は悪いですが「費用対効果」の悪いゼロベクレル志向の方たちに対しては、「お客様にはご縁がなかったですね」というスタンスをとっていましたので、それ以上は語りかけるべき言葉をもっていませんでした。そこにどう語りかけるべきだったのか、いまになって考えることがあるんです。

 

開沼 そうですね。もめることはいままでも繰り返されて来ています。それで、建設的な議論になればいいんですが、逆に断絶が深まってしまう場合の方が多いのかもしれない。震災以降、議論すればするほど、後者がせり出してしまった状況があるんですね。きっと前者のもめ方ができたのが、円卓会議の事例だと思うんです。

 

成功したポイントが、地域を限ったという点にあるのが面白いですね。地域という「限られた箱」があるからこそ、多様な人々が、誰かを攻撃しても前に進まないし、嫌だったら抜け出せる。そこにいたい人が、地元のために残ると。

 

一方、ソーシャルメディアでの「危険か」「安全か」論争って、実際の空間的な限定がない故に、「自分のことが正しいんだ」という新しい枠組みをつくって、「あいつもこういっている」「こいつもこういっている」という多数派とり合い合戦をしてしまうんですよね。結局、この論争ではなにも生まれていない。

 

地域を限った以外に、柏の成功要因として思いつくことはありますか?

 

 

議論をずらす

 

五十嵐 野菜を買う、買わない、というのを議論するときに、安全性だけを問題にしてしまったら、すごく苦しかったと思うんです。よく、「買って応援・食べて応援」という言葉が使われますが、「応援」ってちょっと違うよね、という意識を共有できたのは大きかったのではと思います。

 

「応援」って、助ける人がいて、助けられる人がいて、なんだか消費者が被災者に対して上から目線で「助けてあげる」みたいな感じじゃないですか。柏の野菜はすごくレベルが高くて美味しい。自分たち消費者にとっても、これは自分が美味しい地元の野菜を食べつづけるための運動なんだと、価値づけと目的意識を転換することが重要でした。この地域の魅力を失いたくないという思いを消費者の側もベースとして共有できたから、農家と消費者という一番対立しやすかった関係を繋げられた。要は、柏の農業に魅力がなかったら、この試みはそもそも駄目だったと思うんですよ。

 

一方、「ここが駄目なら引っ越せばいいじゃん」といった、移動へのハードルが低く、地域への愛着が薄い住民に対しては、価値観を共有できなかった可能性はあります。地域の消費者と生産者という、ぼくらが一番越えたかった分断は越えられた反面、この運動によって、もしかしたら別の区切りを生んでしまったのかもしれません。

 

開沼 いまのお話を伺って思いだしたことがあります。以前、東海村の原発を考えるフォーラムで議論の進行役をしたんです。原発のシンポジウムって、独特の雰囲気になることも多くて、株主総会とか糾弾会かと思うくらいに野次・怒号が飛び交うときもある。どう話合っても価値観がズレる人たちが集ってしまう場なので。だから、はじめから脱原発派しか集まらなかったり、推進派しか集まらなかったりすることも多い。

 

でもそれじゃあ「議論」にならないから、ちゃんと推進・容認派も反対・慎重派も集めて議論の場をつくっていこうとする動きも出てきている。東海村も、そういう対立する意見も同じ場に集めようとフォーラムを毎年開いているんですが、やはりもめることもあったそうです。それで、ただもめて終わっても仕方ないんで、工夫をしました。どうするかっていうと、論点を「原発推進/反対」から「東海村の未来のためになる/ならない」という軸にずらしたんです。つまり、「あなたは原発に反対するのか、賛成するのか」ではなく、「どのように地域をよくしていくのか」と問いました。

 

すると、原発推進派の人が、皆が納得しながら原発と地域とが共存できる方法を話したり、反対派の人が雇用がなくなってもこういう方法があるのでは、と建設的な話になったりして。こういうふうに論点を切り替えるだけで、ものごとがすんなりいくようなことってあると思っています。

 

震災後の状況に対し、「原発さえなければ」という話をしだすと、そこで話が止まっちゃうんですよね。その論点を、「自分たちはこれから、なにがしたいのか」「この地域をどうしていきたいのか」という話に切り替えていくと、安全性は確保したいよね、原発はこう考えたいよね、と建設的に話合える。少しずつ答えは見えてくるのかなと思いますね。

 

とはいえ、問いをずらしながら価値観の違う人どうしの境界をちょっとずつゆるめていくことで解決できる部分と、できない部分があります。できない部分はどうしたらいいんでしょうね。

 

福島の場合は、震災後の一定期間、地元のスーパーにいくと福島産の野菜と、非福島産の野菜の売り場が別れているのもみられました。福島産のものがちょっと安くて、お年寄りが買っていくという光景があった。一方、柏の場合は東京の飲食店に提供したりと、自分たちでは処理できない部分があると思うんです。非当事者にもこの価値観をどうやって輸出していくのか、考えていることはありますか。

 

五十嵐 これだけの流通が発達した消費社会では、当事者性って地域だけではいえないところがありますよね。たとえば、いま、いわきで円卓会議のような取り組みをいっているグループと交流があります。いわきは大生産地なので東京にも出荷していますが、地域のなかで循環させるには人口密度が希薄だという弱いこともある。柏と同じような方法では難しいと思うんです。彼らもそう感じています。

 

一方、いわきは湯本温泉だとかアクアマリンだとか、観光という魅力もあり、いわきが好きで、震災前はよく観光に来ていた人たちもいます。ここに住んでいるから「当事者」ではなく、ある種の交流人口も含めて当事者性をもたせていく。あるいは、大規模流通を前提に仲買や卸業者の人も、いわき版円卓会議には加わってもらう。大消費地の東京と繋がるという座組みにも可能性があると思います。

 

とはいえ、ホームを大事にすることはもちろん必要です。先日のシンポジウム(https://synodos.jp/fukkou/764)で、水産関係の勝川俊雄先生(三重大学生物資源学部准教授)が、「ホームで勝てないものがアウェーで勝てるはずがない」とおっしゃっていて、本当にその通りだなと思いました。いわきで支持されないものが、東京で買われるわけがない。足元で支持されていくという基盤があって、その次のステップがあるのかなという気もしますね。そのあたりは、慎重かつ戦略的に考えていかなければいけないと思います。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.264 

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