どうしてぼくたちはすれ違うのか ―― 社会学者が語る、震災後の断絶の乗り越え方

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「ひきがね」が引かれた3.11後の世界

 

開沼 いわきでは、品種によって、売上が落ちている作物と、むしろ震災前よりも売上が伸びているものがあるようです。しかし、高齢化や輸入野菜の影響によって、そもそも震災以前から農業の売上全体が減少していたともいえます。震災以前から危機にさらされていたのに、さらにネガティブな要素まで重なってしまったんです。

 

大づかみに「復興」という言葉がよくいわれますが、そもそも震災前からの問題をどう乗り越えていくのかということを考えた方がいいと思います。

 

五十嵐 やはり、災害以前の問題として、人口が減っていくという日本の現状がありますよね。いままで日本は人口がどんどん増えていくという前提でさまざまな政策を行い、インフラを整備してきました。たとえば、開拓や干拓で農地を増やした。けれど、いまは農地が余っている。これからは住宅も余ります。柏だってそうです。1970年代に開発された駅から離れた団地や建売住宅が並んでいる地区では、くしの歯が抜けるように人が少なくなっています。

 

駅から遠く離れているので、子どもたちが同居しようとも思えないし、住民が高齢化し、年金生活をされていると家賃が4万円くらいしか払えない。家賃が高くなると払えなくなるから、一部に古いままの団地を残しながらリニューアルをしたりしています。広大なニュータウンに夢のマイホームを手に入れた人たちも、高齢化し、人口が減り、商売にならない商店が撤退してしまうと、たちまち買い物難民です。

 

こうした問題への対処法として「コンパクトシティ」という考え方があります。理念的にはいろいろあるんですが、日本で現実的にこれが議論されるときには、交通が不便なところで孤立している高齢者たちを街中に集め、高層住宅のようなところに住んでもらう、歩ける範囲で買い物や病院にいけるようにしてもらおうという発想なんです。でも、いまその発想の先進地域がどこかというと、雪国である青森市や富山市です。もはや行政が町全体を除雪する体力がないという財政的危機感から、コンパクトシティへの切迫感が強いんです。

 

つまり、日本はもう広大に広がった兵站を維持することができないだろうと。おそらく、このコンパクトシティの発想が、放射能や津波の被害をこうむった地域に尖鋭的なケースとして出てくると思うんですよ。たとえば、三陸では津々浦々に小さな漁港があったところが全部津波でやられてしまいました。それを全部復興させるのは無理だから、ひとつの港に復興の集約化をしようという話が出ています。

 

また「避難指示解除準備区域」というのがありますよね。年間積算線量20ミリシーベルト以下に除染できそうな場所です。しかしそうした地域に関しても、全部の田畑や森林に除染をするというのは現実的ではない。とりあえず住宅地を優先的にしていく。さらに、散らばった集落をあるひとつの集落にまとめた方がいいのではという意見もある。これは先程のコンパクトシティの概念が、すごく尖鋭的に求められている例だと思うんですね。でも、自分の住んでいる小さな集落に対する思い入れが、個々人ではものすごくあるわけですから、それを誰がどう調整していくのか。そのあたりは難しいですよね。

 

 

行政ができること、民間ができること

 

開沼 大きな背景として、かつて地域にあったガバナンスの枠組みが弱体化している状況がありますよね。昔だったら、大規模な開発をする際には地元の土建屋を中心に合意をとって、農家、漁業の方には保障なり、新しい職を提供するなりして、ここはこういうふうに蘇るんだと、バラ色の未来を提示していたわけです。

 

ところが、バブル前から徐々にその方法が効かなくなっていた。まさに、地域が疲弊しているときに震災が来たといえます。大きな政治に期待すべき部分もあるけれど、期待すぎてもだめで。じゃあ、下から湧きあがってくるなにかに期待をしてしまう。

 

そのなかで、「行政だけじゃ駄目だ、地元の人に意見を聞こう」といって、とりあえずワークショップをやりまくるみたいな動きが、けっこう支援者のなかにあるんですね。それ自体はいいんだけど、ワークショップをやりはじめてしばらくしてから、「今日はこのメンバーだからこんな感じの結論になる」ということが議論しなくても分かってしまって。その結論も、「それぞれの価値と判断を尊重しましょう」といったものになってしまっている。下から湧きあがってくるものに期待しすぎていても、「良くないかたちの相対主義」みたいになってしまうんですね。

 

とくに弱っている地域では、お上も期待できないし、下から湧きあがってくるものにも期待できないという状況があると思います。でもそのなかで、行政が、なにができて、なにができないのか、その整理の仕方をぼくらの側でもつくっていかなければいけないのかなと思いますね。行政と民間が協力しながら、うまく地域をつくっていくというのが理想だと思います。その点、円卓会議はうまくいっているなと感じました。

 

五十嵐 よく、行政を批判する人がいますが、彼らは行政に対して、期待が大きすぎるから批判してしまうという側面があるように思います。ぼくたちは最初から行政に過度に期待しなかったことが結果としてよかったのかもしれません(笑)。

 

行政には、国・県・市という一本のラインのなかで、包括的に一貫性をもって、さらに長期的かつ大規模に取り組めるという強みがある。一方で、行政ができないのは、ある特定のターゲットにしぼった援助です。できないというか、やってはいけませんよね。

 

たとえば、円卓会議の事例では、小規模農家で、少量多品種、直販を中心としている農家をターゲットにしました。一番補償が受けづらく、一番売上が減少し、なおかつ、柏の地域特性を考えるとまだまだ伸びしろがある農業形態だと思ったからです。でも、行政はそこに特化したプログラムをしちゃいけない。柏には色々な農家があるからです。行政のやり方にとって代わろうではなくて、「セカンドオピニオン」と表現したのはその意図があったからです。ぼくたちは民間なので、そうした公平性原則には縛られず、細かなニーズに特化した取り組みがとれるんです。

 

行政ができないことと、民間にできないことがそれぞれあるので、互いを批判し合うのではなく、補完的に組みあわせていくことが必要だと思います。その上で、行政がさまざまな民間の動きをプラットフォーミングしてくれたら助かりますね。行政の情報では満足できない人に、こういう民間の取り組みがあるよと、市役所のHPから誘導できるようなかたちになったら面白いですし、きっと逆に行政の信頼性も高まるのだと思います。

 

 

パターナリズムと支援のはざまで

 

開沼 行政もそうですが、住民の自発的な動きも、「住民の自発的な動きだからなんでもオッケー」っていうことでもなくて、それはそれで変にやりすぎるとパターナリズムになってしまう可能性もあるんですよね。行政じゃない人間が新しい土建屋のようになってしまっても違う。どこら辺が、倫理的にも合理的にもいいのか、というところを探りたいなとは思っているんですが、答えはまだ見つかっていないですね。

 

五十嵐 「パターナリズム」とは、父親が子どもに「こうした方が良いだろう」と啓蒙的に押しつけてくることですよね。

 

開沼 そうです。ひとつ、興味深い事例があるんです。「ありがとう ふくしまは 元気です」というCMをご存じでしょうか。これは郡山の商工会がつくったものなんです。「ふくしまは元気です」だと、行政が無理やり大丈夫だといっているような印象を与えかねない。でも、「ありがとう」をつけることで、押し付け感がなくなる。「支援してくださっている善意のあるあなたのお陰で、福島は元気なんですよ」という文脈になって、クレームがなくなったというんです。

 

五十嵐 面白いですね。一方、変にねじれて残念だったなというコンセプトもありますよね。ぼくが思い浮かぶのは「食べて応援、買って応援」というスローガンです。これはおそらく、コンセプトとしては良かったんですが、いまはいいにくくなっちゃいましたよね。その一因として、いう時期が早すぎたことがあると思います。

 

震災が起きてすぐの、三月の下旬ごろから盛り上がって、四月、五月にはもうバックラッシュを食らってしまった。あのころは飲料水でさえ安全かどうか分からない時期なのに、「買って応援」というのは早すぎた。すると、「可哀そうな被災地のために、東京が買ってあげる」という上から目線と、お上に押しつけられているというパターナリズムに反発する、という枠組みに回収されてしまった。せっかくいろんな可能性をもっていたはずの言葉なのに、すごく残念、かつ、もったいないことですよね。どんな運動や言説でも、普遍的に「正しい」ものなんてなくて、その正当性や効果はタイミングや社会的背景に依存するんだということを痛感しています。

 

買う人が売る人を助けるという話ではなく、自分たちの社会を回していくために、どこまでどういう風に妥協したら、自分たちもこれくらい折り合えるかということを、もっと時間をかけて納得していく。その大前提として、汚染状況がある程度分かってからやるべきでした。「食べて応援」は福島対象というだけではありませんでしたから、たしかに震災直後こそ「被災者を応援しよう」という熱が高まりやすい時期だったのも事実なのですが。

 

開沼 この話からも伺えますが、「パターナリスティックなもの」VS「パターナリズムへの批判」という構図が何度もねじれて、問題がこじれてしまった部分はすごくありますよね。パターナリズムから逃れようとするためのパターナリズムが生まれて、またそれから逃れようとして……と、ずっとすれ違いつづけてしまうことで、事態が解決しないばかりか、より深刻になってしまう。

 

五十嵐 いまは、震災直後とは違い、いろんなことが明らかになりました。どのくらい汚染された土壌から、どのくらい汚染された野菜やお米ができるのかも分かるようになった。少なくとも、農業に対してはほとんどのことが分かっています。

 

また、どういう対策をすればいいかということも判明してきました。たとえば、カリウムの利用です。カリウムは植物の成長に必要な栄養素で、化学肥料には必ず入っています。じつはこのカリウムはセシウムと化学的な性質が非常に似ているんです。なので、カリウムでが土中に十分にあると、作物がセシウムを吸いにくくなります。

 

この前、農林水産省と福島県が、少なくとも稲に関しては、土壌の放射線濃度と作物中の放射能濃度に相関はないと発表したんです。つまり、カリウムがどれだけあるかということが決定要因だと。これは少し勇み足ではという専門家の意見もありましたが、どちらにせよ、現在の現状把握や対策に関する研究の進展にはすさまじいものがあります。

 

福島や柏の農家の方々は、大変放射能について勉強していますので、土中のカリウムが過少にならないように農業をなさっています。化学肥料を嫌いがちな有機栽培の方も、カリウム量を意識しています。さらに測定の体制も整い、土質の調査もしていますので、できる限りのケアをしているといえるでしょう。

 

つまり、土壌の線量と作物の放射能濃度に相関がないということは、万全のケアがされている福島や柏産の作物よりも、そこまで体制が整っていない他地域の方が濃度の高い米を生産している可能性さえあるわけです。

 

そのなかで、「ホットスポット」と名付けられた産地という理由だけで、その農産物を買わないという行為に、科学的な妥当性はないですよね。勉強も対策もして、確実に安全だというものをだしている。それでも産地が理由で買われない。農家としても「差別」といいたくなるような ――まぁ、これは強い言葉かもしれませんが、―― 状況になってきている。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.264 

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