どうしてぼくたちはすれ違うのか ―― 社会学者が語る、震災後の断絶の乗り越え方

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「差別」の使い方

 

五十嵐 商品に対して「差別」というのは違うのではないか、という人もいらっしゃるかもしれません。でも、農家の方は、本当に気持ちを込めて、自信と誇りをもってつくった作物を提供している。それを生産者の人称性と切り離して、「商品選択」と言い切ってしまうのは違うんじゃないかなと思うんですね。

 

実際に、万全の自信をもって出荷した野菜を「〇〇産だからイヤ」といわれた農家さんは、自分たちの努力と誇りが踏みにじられたと傷つくわけですから。そこで補償を取ればいいじゃない、って安易にいっちゃうのは、そう簡単に補償なんてされない場合もあるよっていうことだけじゃなく、すごく暴力的なことでもあると思うんですね。一方で、「商品差別をやめましょう」というと、パターナリスティックになってしまうという懸念もあって。

 

放射能を気にして買わないという方は、一般的にリベラルの方が多いですよね。いろんな差別に敏感だった方が、ここだけはなんで、という差別に加担して平気なんだろうと思ってしまいます。このあたりのことを「差別」という言葉で、フレームアップしていくということが、どのような言説的な効果を生んでいくのか。微妙な軋轢や誤解を招くので、いままでいわないで来た言葉なんですけれども。

 

開沼 「差別」と名指ししてしまうことのメリットとデメリットがありますよね。みんなで差別を自覚してなくしていこうと課題解決に向かう場合と、「ここに差別がある」ということ自体が差別をつくってしまう場合と。でも、「差別」といわずに無視していいのかというと、そうでもないと。非常に難しい問題だと思います。

 

差別を「政治的な差別」と、「市場的な差別」に分けて考えるといいんじゃないかと思っています。その区別でいくと、リベラルといわれている方は、「政治的な差別」にはきわめて敏感です。が、「市場的な差別」には驚くほど鈍感なところがあります。たとえば、「福島の子どもたちを避難させよう」というトピックにはとても敏感ですよね。ある種の分かりやすい「被害者」や「弱者」がいる場合は、外部のリベラルな人が乗っかり易い。

 

けれども、もうちょっと微妙な「市場的な差別」となると目が向きづらい。たとえば、いわき市の港であがっているサンマは、北海道やロシアの方でとったものです。しかし、その船が築地に入るのか、いわきに入るのかで、価格がぜんぜん違う。

 

いわきから来た魚には値がつかないわけですよ。むしろ、いわきであがった魚介類の方が細かく線量を図っていて、科学的には問題ないことも明示されているはずなのに、なんらかの印象や前提があって、「食べたらケガレてしまう」と感じている方がいるのかもしれません。だとすれば、いままであったさまざまな謂れなき差別との差異はきわめて不明確です。でも、こういう市場で起こっている差別に対して、「われこそは弱者やマイノリティーの問題に敏感だ」という意識が強いような、いままで差別に反対してきたはずのリベラルな方の目が向かないという不可解な状況があります。

 

「差別」ということをいうときに、そのメリットを最大化させ、デメリットを最小化する方法を考えなければなりません。母子避難した方を保障しましょうという話も議論しつつ、放射線の問題とはほとんど関係ない会津なども含んで福島全体を十把一絡げにして、「絶対に修学旅行ではいかない」という現状も差別として捉えていかないといけないんだと思います。しかし、ただ気づいていないだけならまだいいんですが、むしろ、本来ならば差別であるはずのことを、リベラルな方が煽ってきたのがこの2年だったりもする。

 

 

「断絶」を超えるために

 

五十嵐 そろそろ、セット思考みたいなものを、やめなければと思いますね。たとえば、放射能の問題に取り組んでいたら、原発反対、東電糾弾みたいな風潮ってありますよね。

 

でも、ぼくたちが会議で原発どうこういうことは一切ありませんでした。なぜかというと、農業をどうするか、測定をどうするかと実務的に考えることと、原発への賛否は直接的には関係がなかったからです。ぼくたちにとっては、前者の方が圧倒的に優先順位が高かったので、そこだけに集中した。

 

開沼さんも批判されていましたが、脱原発運動ってとにかく話を盛る傾向があるように思います。放射能の危険性を過剰に煽る。盛らないと脱原発をいえないというのはおかしな話で、いま明らかになっている確実に危ない点、たとえば出口の見えない放射性廃棄物の処理問題だけでも、脱原発を主張するに充分な問題ですよね。

 

それを、「もう東京に住めない」「福島の野菜は食べられない」とか、人を傷つけながらそこまで盛る必要ってどこにもないですよね。今後のエネルギーをどうしようって話と、農業はどうするか、福島に対する差別をやめようというのは、本来そもそも違う話のはずなのに、なぜかそこが一緒になって、「東電や原子力ムラを免責するのか」とまとめて扱われてしまう。

 

そのセットで考えてしまう考え方を変えていかなければなぁと思うんです。とはいえ、ぼくらがこんなに苦労してきた原因は全部原発にあるといってもいい。非常に理不尽なことが起こったが故に、みんな辛い思いをしてこんなことをやってきたというのも事実なんです。その未曽有の事故の経験を、どう分断ではなく繋いでいく方に向けられるか。

 

ぼく個人としては、今回の件で地域の農業に目を向けることができました。このきっかけがなかったら、どんな風に野菜を農家さんがつくっていたのか、どんな風に流通していたのか、知ることができなかった。農業だけでなく、電力に関しても、ぼくたちの都会での便利な暮らしはどのような構造や犠牲の上になり立っていたのか、3.11は本来そういうことを考え直すまたとないきっかけになったはずなんです。

 

でも、そういう機会にできた人ってけっこう少ないのではと思います。たとえば、煽るような情報だけにさらされて、福島は死の町で「そんなところの野菜は毒」と一刀両断するところまでいってしまった人たちは、自分の生活を支えてきた本当に大事なことが見えないまま、いままで来てしまっているのではないでしょうか。それって結局、危険な「フクシマ」を自分とは連続していない切り離し可能な対象物として、「安全」が確保された高みから見下ろしているだけのような気がして。

 

開沼さんに伺いたいのですが、脱原発の運動はこれからどういう風にバージョンアップできると思いますか? その可能性があれば教えていただきたいと思います。

 

開沼 問題の設定の仕方を変える必要がありますよね。「排除と包摂」という言葉を使いながら考えてみましょうか。「包摂」には2パターンあると思うんです。

 

社会運動の大きな役割として、「排除されている人を包摂していく」ことをあげられるでしょう。たとえば、いくら努力しても覆しようがない状況にいる人たちだから、こういう福祉制度をつくっていきなさいよ、という話です。これを「包摂による包摂」といいましょう。そういったかたちの反体制運動はすごい意味をもっていたと思うんです。しかし、原発の問題に関していえば、少し様子が違ってきている。

 

既存の脱原発運動って、福島の問題に苦しむ人たちに負のレッテルをはる、スティグマを与えることで、自分たちの活動を維持しているところがあります。「福島は危ない」「福島を2度と起こすな」「福島は苦しんでいる」……。「福島の人の声を聞いた」とかいっても自分たちに都合のいい話しか拾わない。福島が不幸であればあるほど自分たちの運動が盛り上がることを知っていて、「福島=不幸」という構図をより強化しようとする。排除することで、自分たちの社会運動の正当性と持続性を保とうとする。

 

これは「排除による包摂」といってしまっても仕方がないように思います。「あいつが駄目」といわない限り、自分たちの包摂が達成されないんですね。あの地域の農家は放射能まみれの野菜をつくっている。だから自分たちの身を守らないといけないという論理です。

 

大飯原発再稼働のときも、住民の方は非常に嫌な思いをしたと聞きました。他の地域の人たちが、「いつまで、原発マネーに頼っているんだ」と大騒ぎして、帰っていく。原発マネー以外で新しい地域づくりをしようという「包摂による包摂」を進めるべきなのに、ただ恫喝して帰ってきてしまう。お互い嬉しくない状況ですよね。

 

そうみたときに、「左翼っぽい」っていうところとは表面的な違いはあるかもしれないけど、在特会となにも変わらないわけですよ。なにかを排除するきわめて虚ろなレトリックを駆使することでしか自分たちが包摂される運動体を形成できない。そう思って現在のさまざまな糾弾型の社会運動をみると、「包摂による包摂」から「排除による包摂」に運動の裏テーマが変わってきているようにも見えます。

 

もし、脱原発運動がバージョンアップできるとしたら、「包摂による包摂」へフォーマットをつくりなおす必要があるかなと思っています。今後は、負の烙印が押されてしまった福島をはじめとする広い意味での3・11の影響を受けた人や場所を、どうポジティブな文脈のなかに位置づけるのかということがわたし自身の直近の課題ですね。

 

(2月3日 『みんなで決めた「安心」のかたち――ポスト3.11の「地産地消」をさがした柏の一年』刊行記念イベント「どうすれば『みんなで決める』ことができるのか?」「断絶と無関心を超えて」より抄録)

 

 

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