福島レポート

2018.05.12

被ばく体験国だからこそ、世界に誇れる放射線学習カリキュラムを

角山雄一 放射線生物学、放射線安全管理学

インタビュー・寄稿

放射線のリスク感覚

放射線はそもそもエネルギーの塊のようなものなので、間違いなく危険物質である。ではどのくらい危ないものなのか? もしも放射線が大量に体にあたったら、人間であろうと動物であろうと、もちろんひとたまりもない。でもその量がほんの少しだったらどうだろう。

仮にこの量的なリスク感覚を「放射線のリスク感覚」と呼ぶことにすると、果たして我が国でこのリスク感覚を持つ方はどれくらいいらっしゃるのだろうか。私見を申せば、福島県などで原子力災害に見舞われた皆さんを除くと、このようなリスク感覚が身についている方はとても少ないと感じている。

ちょっと思い浮かべてみてほしい。ここに湯船いっぱいの60度の熱湯があるとする。その熱さの程度、すなわちこのお湯の危険度を想像するのはきっと容易なはずだ。まずは湯気などの視覚から得た情報に基づいて、すこし慎重に扱わないと、などと思うのではないだろうか。次にお湯に近寄ってみる。すると肌で大体の温度を感じ、これは相当熱そうだ、と警戒することだろう。さらに勇気を出して指先で触れてみようものなら、これは決してドボンと入るなどしてはいけないものだ、とたちまち確信へと至るだろう。

そんなの当たり前だとか言わないでいただきたい。このような様々な感覚に基づいた危険度の判断能力は、生まれながら備わっている類のものではない。何も知らない幼子なら、いきなりこのお湯に掴みかかってしまうことだってあるだろう。大人になっていく過程で、お湯とは一体何なのか、どのくらいの熱さのものに触れると火傷をするのか。ひどい火傷をした場合に体はどうなってしまうのか、などといった様々な情報を少しずつ知っていくのである。

小学生ともなれば、温度計や体温計などを使って自分で温度を知る機会も増える。つまり子供の頃からの教育と経験の積み重ねで、熱湯の危険度を即座に判断できる力が身についていったのだ。たんなる知識だけではなく、日々の生活のなかでお湯に接し続けるなかで、自身の体験として次第にその危険度を熟知していくのだ。

ところが、相手が放射線になった途端に熱湯と同じ手法が困難になる。その最大の原因は、人体に放射線を感じとるセンサーが備わっていないことにある。我々は放射線の危険度を自身の体の感覚として察知することができない。放射線は見えないし、音も匂いもない。たくさんからだにあたったとしても、熱くも冷たくも、痛くも痒くもない。したがって、知識は努力次第でなんとか習得できたとしても、体験に基づいて危険性を瞬時に把握することは大変難しいということになる。

では、放射線のリスクを熱湯の場合のように感じ取ることは永遠に不可能なのだろうか。私はそんなことはないと信じている。たとえセンサーを体に持っていなくても、現代人には様々な種類の放射線測定器という武器があるではないか。もしも一般市民の皆さんが温度計のようにこれらの測定器を使いこなすことができれば、そして多少なりとも放射線の基礎的な科学知識を持っていれば、放射線のリスクを自ら測って判断できるようになるのでは。そう考えているのである。

現在の我が国には、放射線のリスク感覚を習得せざるを得なかった方々が少なからず存在する。それは原子力災害を被災した福島県の皆さんだ。あの事故の直後、相当数の福島県民が、放射線とは何か、それがいったいどれくらい危ないのかについて正しく知ろうと大変熱心に勉強しようと努められていた。

福島県の一部地域の学校では、熱意ある教諭たちが議論を重ね、実践的な福島オリジナルの放射線学習カリキュラムを作りあげていた。測定器について言えば、個人で放射線の線量計を買い求めた方も多数いらっしゃったし、公園や校庭、駅前など、そこら中に放射線のモニタリングポストが設置され、その測定値をいつでも見ることができるようになった。

つい先日、福島県富岡町を訪れたときも、NHKの天気予報のなかで、その日の放射線量がいつものように放映されていた。そういった環境に置かれた皆さんの多くが、シーベルトとかベクレルといった単位にいつしか慣れていった。なかには、「1時間あたり何マイクロシーベルト」と聞くと、だいたいこんな感じだな、と放射線量を肌感覚のように把握される方さえいる。

「放射線は微量。0.5マイクロシーベルト」

昨年、映画「シン・ゴジラ」を観た。たんなる子供向けの怪獣映画とは一線を画す、なかなか興味深い作品だった。映画評論などを読むと、福島原発事故のメタファーだという論調だ。この映画を見て少々驚いた。劇中で示されていた放射線量が、なんだかとてもリアルなものに感じたのである。

たとえば、ウニョウニョとしたゴジラの幼生(第二形態と言ったか?)が東京の街中を這いずり回った後でゴジラが放射線を放出していたことが判明し、総理役の俳優が「放射線は微量。0.5マイクロシーベルト」と会見していた。

さて、皆さんはこの数字を聞いてピンと来るだろうか? おそらく先ほど述べた福島の皆さんなら、「あー、あのくらいか。」などときっと思われることだろう。放射線を測ることや、その値に慣れ、放射線についての基礎的な知識をすでに得ている皆さんなればこそ、総理が0.5マイクロシーベルトを微量と言い切ったことが妥当かどうかを判断できるのだ。

震災後の報道において、福島県産の農産物や福島県から避難された皆さんに対する風評被害が深刻な社会問題として取り上げられることが度々あった。全国の皆さんが、福島の皆さんと同じくらいの放射線についての知識とリスク感覚を持ちあわせてさえいれば、このような問題は発生しなかったはずだ。

ほんのわずかでも放射線があれば怖い、汚い、といった心情だけで無闇に行動するようなことも相当防げたはずだ。それくらい、放射線の科学的知識を学ぶことや放射線を測ることは重要な意味を持つのである。

しかし放射線を学ぶことや測ることはじつは決して簡単なことではない。放射線に関係する学問は、物理学、化学、生物学、統計学、社会学などなど多岐にわたる。それぞれの分野の入門知識を理解するだけでも相当な時間と手間がかかる。だからじっくりと段階的に学んでいく必要がある。

放射線の測定器を手にしたとしても、その先にはかなり奥の深い世界が待っている。放射線測定器にはかなりのバリエーションがあり、その種類によって得手不得手が当然あるし、測定には誤差がつきものだ。この誤差を理解するだけでも一般の方にはきっとかなり敷居が高いことだろう。

だから放射線のリスク感覚が一朝一夕には身につくことなど有りえないのである。幅広い知識を得るために、そして放射線測定に慣れるために、時間をかけて子供の頃から少しずつ学んで行くことを薦めたい。

理科教育における大きな手落ち

私が初めて放射線の存在を知ったのは、今から30年も前の小学4年生のときだった。私たちの教室に道徳の先生が一冊の漫画を持って来て、「これを読むように」と言い残して学級文庫の棚に「はだしのゲン」(作・絵 中沢啓治)第一巻を置いていった。

この漫画を読んだときの衡撃は大変すさまじいもので、当時の少年は原爆投下が引き起こした惨劇の数々とともに、この世に放射能というきわめて危険で厄介なものが存在するということを脳裏にしっかりと焼きつけた。

そのいっぽうで、当時の文部科学省学習指導要領では、放射線のことを理科として学ぶ機会がどこにも用意されていなかった。その結果、放射線についての科学的な基礎知識などほとんど学ぶことなく大学へと進学することになったのである。

正確に言えば、高校の物理でほんの少しだけ物理的性質を学ぶ機会があったが、座学のみだった上に受験で出題されることがないから本気で勉強する必要性をまったく感じなかった。放射線の生体影響に至っては触れられることすらなかった。

だから結局、少年時代に焼きついた原爆放射能の恐怖を引き摺ったまま大学へと進学し、その後研究のためにどうしても必要となったため、研究ツールのひとつとして放射線を扱い始めたのである。そこで初めて放射線測定器を手にし、日常空間のなかにも結構放射線が飛んでいることを知ったのである。

今思えば、どうにも順番があべこべだ。本当ならば、自然の放射線が身の回りに存在するということをまず知り、それを自分で測ってみて日常的な感覚とし、それから大量の放射線を被ばくするとどうなるのかを知る、という順序であるべきだ。

福島第一原発事故の翌年以降、文部科学省の学習指導要領の改定があり、小学校では総合学習の場で、中高では理科の項目として放射線のこと学べるようになった。ところが、学校の理科教諭のほとんどはかつての私と同類で、先生になるまでの間に理科知識として放射線のことを学んだことがほとんどなかったのである。

中高の物理の教諭であれば放射線や放射性物質のことくらいは説明できる。しかしこの先生たちに放射線が体にあたった瞬間に引き起こされる生命現象の分子メカニズムや、危険の度合まで解説を求めるのは専門外で酷なことだ。

原発事故後、放射線の危険性をどう子供たちに伝えるべきか学校の先生たちは相当に苦慮されてきたはずだ。こういった背景があったので、私たち大学の教員が小中高の先生たちをお手伝いする機会が結果的に増えてしまった。今でも小学校から高校まで、出張授業の要請が年に数回ある。ほとんどは京都府内の学校での出前授業だが、福島県や新潟県の学校を訪れて授業をさせていただいたこともある。

私が所属する放射性同位元素総合センターでは、年に数校程度だが、訪問講義や実習を請け負っている。これも「想定外」だったと言ってしまえばそれまでだが、厳しい言い方をすれば昭和の時代から続く理科教育における大きな手落ちの結果ともいえるのだろう。

「ラドラボ -Dr.ウーノの放射線研究所-」と「TEAMユリカモメ」

現在、私たちが子供たちに放射線学習の機会を提供する際にとても大切にしている「学び」が三つある。

ひとつめは「子供の発達段階に応じて少しずつ学ぶ」こと、二つめは「身の回りの自然環境中の放射線を学ぶ」こと。そして何よりも重視していることなのだが、「体験を通して学ぶ」こと。同じ志をもつ全国の大学教職員や小中高の先生たちと情報交換をしながら、これら三つの学びを実現するための学習教材やカリキュラムの開発を続けている。

具体例として、これまでの私どもの活動成果のなかから、新しい学習教材とカリキュラムをそれぞれ一つずつご紹介したい。まずは放射線カードゲーム「ラドラボ -Dr.ウーノの放射線研究所-」。小学校4年生くらいのお子さんから大人まで、放射線のイロハのイを楽しみながらご家庭でも学ぶことができるよう開発した対戦型カードゲームである。

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子供から大人まで楽しめる対戦型カードゲーム「ラドラボ」

カードゲーム専門会社のタンサン&Co.がゲームバランスやキャラクターデザインを担当し、京都市内の小学生や高校生の皆さん、学校の理科の先生たちが試作段階から協力してくださった。

このゲームの売りは、楽しく遊んでいるうちにいつのまにか学習できてしまっているというところである。子供たちは、放射線の予備知識が皆無でも、このゲームに三十分も興じれば、測定器を持ち出すまでもなく、「アルファ線は紙で遮へいできる」とか「最強の遮へい材は水」だとかいったことを諳んじるようになる。

放射線には種類があってそれぞれ性質が異なることを自然と暗記しているのだ。初学としては、このくらいの知識で十分だと思っている。福島県でも何人かのお子さんたちに試しに遊んでもらったが、とても好評だった。

次に今現在も継続的に実施している学習カリキュラムを紹介したい。それが「中高生たちの手による自然放射線マッピングプロジェクト『TEAMユリカモメ』」である(https://sites.google.com/view/yurikamome/home)。NPO法人知的人材ネットワークあいんしゅたいん(代表:坂東昌子氏)などの支援を受けて、昨年からスタートした新たな試みだ。

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中高生たちの手による自然放射線マッピングプロジェクト『TEAMユリカモメ』で現在作成中の放射線地図

福島県の高校生たちと関東、関西、中国、四国、九州など、全国の中高生有志(一部地域では小学生や大学生、教諭や保護者も参加)が協力しあい。自宅や学校周辺、通学路や旅行先での放射線量を自分たちの手で測定し、その結果をもとに放射線地図を作って世界に公表しよう、というプロジェクトである。ぜひ上記ウェブサイトの「Measuring」のページを訪れて、彼ら彼女らが現在も作り続けている放射線地図を一度ご覧になっていただきたい。

このプロジェクトの成果は、ただたんに地図を作ることだけではない。じつはこのプロジェクトの副産物的な効果として、測定誤差などの測定器を扱うことの難しさや注意すべき事柄などを中高生たちは身をもって知ることになるのである。

地質の違いで自然放射線は場所によって随分違うのだが、それがきっかけで岩石の種類と放射線量の違いを調べ始めた高校生もいる。寺社に祀られている石のなかには放射線量が高いものがある(たいていそのような石は御影石なのだが)ことを発見した者もいた。測定結果の発表会などを通じて、福島と関西の高校生との間で新たな交流も始まろうとしている。

放射線はなぜか特別扱い

最初にあげた熱湯の例よりもさらにわかりやすいのが「火」かもしれない。子供から大人になるまでの間に学校で火のことをどのように学んで来たのかを思い出していただきたい。最初はロウソクくらいの生活のなかで使われている小さな炎からはじまって、その使い方や危険性を繰り返し学んできたはずだ。

ところが放射線はなぜか特別扱いされてきてしまった。原爆のこと、すなわち広域大規模火災のような話を小さな頃に一方的に聞かされるだけで、自然環境中に普段から存在する放射線のことは教えてもらえない。

どうして危ないのか、どうやったら安全に扱えるのか、万が一のときにはどうしたら良いのか、などなど、火の場合であれば大人になるまでに誰もが身につけているような事柄を知る機会もほとんどないままだ。理科の授業で炎の温度を測ることはあっても、放射線測定の授業は依然としてそう多くはない。まったくそのような機会がない学校が大半だ。

原爆を二発も被爆し、深刻な原発事故まで経験した我が国の将来を担う若者たちが、放射線と向き合わずにただ無知なままでいることが果たして良いことなのだろうか。

過去のことはともかく、これからのことを考えたい。要は私たちが熱湯や火の危険性を学んで来たプロセスを放射線に応用すれば良いのだ。じっくりと時間をかけ、放射線に関する知識を学び、放射線に対するリスク感覚を子供たちや若者たちに育んで行けば良いのだ。

均衡の取れた知識とリスク感覚(専門的には科学リテラシーやリスクリテラシーと言う)を幼い頃から体験的に培って行ければ最高だと思う。原発に賛成か反対かの議論をするのは、こういった知識と感覚が国民の間に醸成されてからでも遅くはないのではないだろうか。

せめて、すべての国民が福島の皆さんと同じような放射線の量的な感覚、放射線のリスク感覚を持てるようになる日が来ることを願って止まない。

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プロフィール

角山雄一放射線生物学、放射線安全管理学

1968年、兵庫県生まれ千葉育ち。東北大学理学部卒業。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。現在、京都大学環境安全保健機構放射性同位元素総合センター助教。主にアルファ線を細胞に照射する装置の開発と低線量放射線影響の研究を行っている。
福島原発事故後は、小中校の放射線学習教材の開発や福島県被災地復興支援活動にも参加。編著書に『放射線必須データ32 被ばく影響の根拠』(創元社)等がある。趣味は、折田彦市氏とリベラルアーツに関する史料収集等。

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