週刊誌の原発報道とどうつき合うか

筆者は、科学と社会をつなぐ科学コミュニケーションに関わる仕事に従事している。専門家にしか伝わらない言葉で語られる内容を、一般市民も理解できるような言葉に翻訳するのが科学技術インタープリターの役割である。しかしそれは、容易ではない。情報をどうまとめ、どう発信するか?今回の福島第一原発の事故では、その難しさを改めて痛感させられることになった。

 

東京電力による事故後はじめての会見では、科学者/技術者が専門的な事柄について社会に伝達するのにどれだけ不慣れかが露呈した。ベント、ダウンスケールといった聞き慣れないカタカナをはじめとして、格納容器、圧力抑制室など、なじみのない用語が次々と飛び出した。

 

そのため、取材する記者たちは、その用語にいちいち詳細な説明を求めなくてはならなかった。正確に伝えようという意思からだったのかもしれないが、緊急事態で用語の解説をしている暇がないことを考えると、もう少し一般にわかりやすい用語に置き換える対処をするべきだった。

 

このように、当事者である東京電力(東電)や政府、原子力安全・保安院(保安院)が発表する歯切れの悪い不明瞭会見を補完するため、駅売りの週刊誌に手を伸ばされた方も多いのではないだろうか。

 

テレビのニュースのように言葉による情報提供と違って、紙媒体の情報は、何度も読み返すことができるという点において重要な情報伝達ツールとなりうる。タイムリーさでは新聞に到底かなわないが、新聞では紙面の制約があって掘り下げて書けないことも、雑誌には書くことができる。しかし、週刊誌を何冊か平行して読み比べてみると、ひとつの情報に対してだいぶ温度差があることに気がつく。

 

当時、テレビの報道は楽観的ともいえるほどに安全を強調していたが、週刊誌はいずれも、油断ならない事態であることを伝えていた。そこが、主流メディアの報道と大きく違っていたところである。

 

政府は、国民に不安感を与えないように配慮してか、「安全」を強調した会見を繰り返しており、テレビに出てくる専門家の多くもそれに追従した。けれども、根拠のない「安全です」という言葉が、逆に、政府が情報を意図的に隠蔽しているのではないかという不信感を与える結果となってしまった。

 

テレビ業界と東電との関係、テレビに出てくる専門家と原子力行政との関係もさまざまな憶測を呼んだ。広告収入という点では週刊誌も例外ではないのかもしれないが、週刊誌は「安全」という言葉自体を疑うスタンスで記事を書き、ジャーナリズムの独立を守っていたように思う。

 

たとえば、『週刊朝日』3月25日号は、[福島第一原発ドキュメント]のサブタイトルを[「想定外」ではすまされない暴露された「安全神話」のウソ]とし、実際に起きている事象への、東電、保安院、政府の解釈の甘さを指摘していた。『サンデー毎日』でも同じように、[想定が甘すぎる]とする京都大学原子炉実験所の小出裕章氏の言葉を載せ、現状を分析している。この週のすべての週刊誌が、このように、「想定外」という言葉の意味を追求するところからはじめているのがたいへん興味深い。

 

ただ、油断ならない事態であるという事実を伝える姿勢には、週刊誌ごとに大きな違いがあった。もちろん、取り上げる内容に独自色を出せるのは週刊誌の強みだが、事実を過大評価、もしくは過小評価して誤解を与えるような表現を加えることは適切ではない。本稿では、わたし自身が週刊誌の比較で感じた論調の差異を、少し掘り下げて考えてみる。

 

なお、本稿では、初期の報道に注目し、おもに、事故が起きて最初の1ヶ月程度以内の記事を検討する。いま現在の原発の状況とは違っているのでご注意いただきたい。

 

 

週刊誌の多様性

 

Twitterなどソーシャルメディア上で大きな騒ぎになったのでご存知の方もおられるだろうが、3月19日、「放射能がくる」というセンセーショナルなタイトルの週刊誌が書店やエキナカ売店に並んだ。『AERA』だ。しかも、表紙の写真は、白い防護服を着て防毒マスクをつけた原発作業員とおぼしき人の写真。

 

同誌に「ひつまぶし」というエッセイの連載をもっていた劇作家・野田秀樹氏が、翌週、この号の表紙とタイトルに抗議して連載を打ち切る宣言をしたことも話題になった。野田氏も指摘しているように、このようなセンセーショナルな言葉が『AERA』という15万部発行の週刊誌に載ったことは由々しき事態だった。

 

『AERA』3月28日号の目次には、[原発が爆発した][東京に放射能がくる][「放射能疎開」が始まった]といった刺激的な言葉が並んでいた。しかし中身をどう読んでみても、そこまで緊急事態になっているとする理由が判然としない。

 

たとえば、「原子炉内で臨界が起きているのではないか」という疑問に対しては、原子力の多くの専門家たちの意見として、[炉心溶融が起きたとしても、さすがに臨界だけは起きない]と記している。それにもかかわらず、[しかし、その「臨界」の可能性までも現実のものとなった]という文言でパラグラフは締めくくられている。本文の文脈からは、そのような限定的な表現は読み取れない。

 

炉心溶融していたというのは、いまとなっては周知の事実だが、被災後1週間のこの段階でも、専門家のあいだでは程度の差こそあれ、冷却に失敗した時点で炉心溶融が起きるのは想定の範囲だと考えられていた。

 

燃料棒はジルコニウムの被覆管に覆われている。それが冷却している水から露出すれば、内部のウラン燃料の出す崩壊熱により溶け出す。それを炉心溶融(メルトダウン)と呼ぶ。どの程度の範囲までをメルトダウンと呼ぶかについては専門家のあいだでも議論があり混乱したため、初期の東電や保安院の会見では、ほぼ一貫して「炉心溶融」という四字熟語が使われた。

 

しかし、燃料棒が溶け出す「炉心溶融」と、核分裂反応が連鎖的に起きる「臨界」とはイコールではない。福島第一原発は、3月11日の地震の際に制御棒が挿入され、運転は停止していた。その制御棒が抜け落ちないかぎり、ふたたび燃料棒で反応が起きる可能性はなく、もし溶けたとしても、すでに冷却のためのホウ酸水(海水)を大量に放水しており、そのホウ酸水が中性子を吸収する役目を担うため臨界は起きないというのが、大部分の専門家の意見だった。にもかかわらず、詳しい理由を記すこともなく、「臨界の可能性がある」とだけ書いているのには問題がある。

 

次に、これまで人類が経験したなかで最悪の原発事故である、チェルノブイリ原子力発電所の事故との比較も掲載している。ここでもまた、[福島がチェルノブイリ級の事故になると現時点で予想する専門家は少ない]としつつも、[チェルノブイリでは、200 km~300 km離れた土地にも放射能が高い地域が広がっていた]とし、首都圏まで危険というニュアンスを漂わせている。

 

 

 

シノドスをサポートしてくれませんか?

 

●シノドスはみなさまのサポートを必要としています。ぜひファンクラブ「SYNODOS SOCIAL」へのご参加をご検討ください。

⇒ https://camp-fire.jp/projects/view/14015

 

●シノドスがお届けする電子メールマガジン「αシノドス」

⇒ https://synodos.jp/a-synodos

 

●少人数制セミナー&Facebookグループ交流「シノドス・サークル」

⇒ https://synodos.jp/article/20937

 

 

 

 

1 2 3 4
シノドス国際社会動向研究所

vol.254 公共性と社会

1.長谷川陽子「知の巨人たち――ハンナ・アーレント」
2.岸本聡子「公共サービスを取り戻す」
3.斉藤賢爾「ブロックチェーンってなあに?」
4.山岸倫子「貪欲なまでに豊かさを追いかける」