2011.05.24

週刊誌の原発報道とどうつき合うか

佐野和美 サイエンスコミュニケーション

情報 #原発事故#サイエンスコミュニケーション#被ばく#原発報道#炉心溶融#メルトダウン

筆者は、科学と社会をつなぐ科学コミュニケーションに関わる仕事に従事している。専門家にしか伝わらない言葉で語られる内容を、一般市民も理解できるような言葉に翻訳するのが科学技術インタープリターの役割である。しかしそれは、容易ではない。情報をどうまとめ、どう発信するか?今回の福島第一原発の事故では、その難しさを改めて痛感させられることになった。

東京電力による事故後はじめての会見では、科学者/技術者が専門的な事柄について社会に伝達するのにどれだけ不慣れかが露呈した。ベント、ダウンスケールといった聞き慣れないカタカナをはじめとして、格納容器、圧力抑制室など、なじみのない用語が次々と飛び出した。

そのため、取材する記者たちは、その用語にいちいち詳細な説明を求めなくてはならなかった。正確に伝えようという意思からだったのかもしれないが、緊急事態で用語の解説をしている暇がないことを考えると、もう少し一般にわかりやすい用語に置き換える対処をするべきだった。

このように、当事者である東京電力(東電)や政府、原子力安全・保安院(保安院)が発表する歯切れの悪い不明瞭会見を補完するため、駅売りの週刊誌に手を伸ばされた方も多いのではないだろうか。

テレビのニュースのように言葉による情報提供と違って、紙媒体の情報は、何度も読み返すことができるという点において重要な情報伝達ツールとなりうる。タイムリーさでは新聞に到底かなわないが、新聞では紙面の制約があって掘り下げて書けないことも、雑誌には書くことができる。しかし、週刊誌を何冊か平行して読み比べてみると、ひとつの情報に対してだいぶ温度差があることに気がつく。

当時、テレビの報道は楽観的ともいえるほどに安全を強調していたが、週刊誌はいずれも、油断ならない事態であることを伝えていた。そこが、主流メディアの報道と大きく違っていたところである。

政府は、国民に不安感を与えないように配慮してか、「安全」を強調した会見を繰り返しており、テレビに出てくる専門家の多くもそれに追従した。けれども、根拠のない「安全です」という言葉が、逆に、政府が情報を意図的に隠蔽しているのではないかという不信感を与える結果となってしまった。

テレビ業界と東電との関係、テレビに出てくる専門家と原子力行政との関係もさまざまな憶測を呼んだ。広告収入という点では週刊誌も例外ではないのかもしれないが、週刊誌は「安全」という言葉自体を疑うスタンスで記事を書き、ジャーナリズムの独立を守っていたように思う。

たとえば、『週刊朝日』3月25日号は、[福島第一原発ドキュメント]のサブタイトルを[「想定外」ではすまされない暴露された「安全神話」のウソ]とし、実際に起きている事象への、東電、保安院、政府の解釈の甘さを指摘していた。『サンデー毎日』でも同じように、[想定が甘すぎる]とする京都大学原子炉実験所の小出裕章氏の言葉を載せ、現状を分析している。この週のすべての週刊誌が、このように、「想定外」という言葉の意味を追求するところからはじめているのがたいへん興味深い。

ただ、油断ならない事態であるという事実を伝える姿勢には、週刊誌ごとに大きな違いがあった。もちろん、取り上げる内容に独自色を出せるのは週刊誌の強みだが、事実を過大評価、もしくは過小評価して誤解を与えるような表現を加えることは適切ではない。本稿では、わたし自身が週刊誌の比較で感じた論調の差異を、少し掘り下げて考えてみる。

なお、本稿では、初期の報道に注目し、おもに、事故が起きて最初の1ヶ月程度以内の記事を検討する。いま現在の原発の状況とは違っているのでご注意いただきたい。

週刊誌の多様性

Twitterなどソーシャルメディア上で大きな騒ぎになったのでご存知の方もおられるだろうが、3月19日、「放射能がくる」というセンセーショナルなタイトルの週刊誌が書店やエキナカ売店に並んだ。『AERA』だ。しかも、表紙の写真は、白い防護服を着て防毒マスクをつけた原発作業員とおぼしき人の写真。

同誌に「ひつまぶし」というエッセイの連載をもっていた劇作家・野田秀樹氏が、翌週、この号の表紙とタイトルに抗議して連載を打ち切る宣言をしたことも話題になった。野田氏も指摘しているように、このようなセンセーショナルな言葉が『AERA』という15万部発行の週刊誌に載ったことは由々しき事態だった。

『AERA』3月28日号の目次には、[原発が爆発した][東京に放射能がくる][「放射能疎開」が始まった]といった刺激的な言葉が並んでいた。しかし中身をどう読んでみても、そこまで緊急事態になっているとする理由が判然としない。

たとえば、「原子炉内で臨界が起きているのではないか」という疑問に対しては、原子力の多くの専門家たちの意見として、[炉心溶融が起きたとしても、さすがに臨界だけは起きない]と記している。それにもかかわらず、[しかし、その「臨界」の可能性までも現実のものとなった]という文言でパラグラフは締めくくられている。本文の文脈からは、そのような限定的な表現は読み取れない。

炉心溶融していたというのは、いまとなっては周知の事実だが、被災後1週間のこの段階でも、専門家のあいだでは程度の差こそあれ、冷却に失敗した時点で炉心溶融が起きるのは想定の範囲だと考えられていた。

燃料棒はジルコニウムの被覆管に覆われている。それが冷却している水から露出すれば、内部のウラン燃料の出す崩壊熱により溶け出す。それを炉心溶融(メルトダウン)と呼ぶ。どの程度の範囲までをメルトダウンと呼ぶかについては専門家のあいだでも議論があり混乱したため、初期の東電や保安院の会見では、ほぼ一貫して「炉心溶融」という四字熟語が使われた。

しかし、燃料棒が溶け出す「炉心溶融」と、核分裂反応が連鎖的に起きる「臨界」とはイコールではない。福島第一原発は、3月11日の地震の際に制御棒が挿入され、運転は停止していた。その制御棒が抜け落ちないかぎり、ふたたび燃料棒で反応が起きる可能性はなく、もし溶けたとしても、すでに冷却のためのホウ酸水(海水)を大量に放水しており、そのホウ酸水が中性子を吸収する役目を担うため臨界は起きないというのが、大部分の専門家の意見だった。にもかかわらず、詳しい理由を記すこともなく、「臨界の可能性がある」とだけ書いているのには問題がある。

次に、これまで人類が経験したなかで最悪の原発事故である、チェルノブイリ原子力発電所の事故との比較も掲載している。ここでもまた、[福島がチェルノブイリ級の事故になると現時点で予想する専門家は少ない]としつつも、[チェルノブイリでは、200 km~300 km離れた土地にも放射能が高い地域が広がっていた]とし、首都圏まで危険というニュアンスを漂わせている。

『AERA』だけが危険を煽ったのか

では、この週の他の週刊誌がどう記載していたのかをみてみよう。

『AERA』と同じ出版社が発行する『週刊朝日』では、[放射能 見えない恐怖と知っておくべき「本当の話」]と題した記事の中で「もし格納容器が爆発すればチェルノブイリになる」とする小出裕章氏のコメントを載せている。また、記者は、「チェルノブイリ原発事故と同様に炉心が融解して大爆発が起きたら、どうなるのでしょうか」という質問を小出氏にぶつけている。それに対し小出氏は、「放射能による被害の大きさは原子炉の電気出力に比例する」として、[おしまいですよ]と答えたとされている。

これは、1号機と3号機の出力を合わせるとチェルノブイリ以上の規模になるという想定にもとづく。つまり、そもそも1号機と3号機が同時(もしくは連続して)爆発した場合を仮定している。そして、それに伴い、原発から700 km離れた地域、名古屋や大阪まで放射能による被害が及ぶという書き方をしている。「東京でも晩発性影響の癌による死者が200万人を超える」といわれたら、慌てて関西以西に避難する人が出てもおかしくない。

チェルノブイリ原発の出力は約100万 kwだったといわれている。それに対し、福島原発の1号機と3号機を足すと出力は約110万 kwになるので、たしかに数字だけをみれば、チェルノブイリの規模を超えているというのは間違いではない。『週刊朝日』では、このように、最悪の想定にもとづく予想を数々述べてはいるものの、肝心の、格納容器が爆発する確率がどの程度か、放射性物質が遠くまで飛び散る可能性がどれだけあるのかについては記載していない。

さらに、その後のパラグラフの小見出しには[本州は関東まで居住が不可能に]というタイトルがつけられドキッとさせられる。しかしよく読んでみると、小出氏が述べたのは[放射性物質が飛散する範囲は半径320 kmにも及ぶ]が、[本州の関東以北は、事故後、数十年に渡って土壌が放射能に汚染され、人間が住むことができなくなってしまう地域が出る可能性があります]というコメントだというのがわかる。

つまり、専門家が述べた、「居住ができない地域もあるかもしれません」という最悪の事態を想定したコメントに対して、小見出しでは、「関東以北はどの地域にも人は住めない」と断定してしまっている印象を与える。

この例をみると、『週刊朝日』の記事は、原発の事故を過大に評価し、危険を煽る方向で恣意的にまとめられているように思える。週刊誌を読む場合、このような記者や編集部の恣意的な誘導を、注意深く見破る必要がある。

一方、『週刊朝日』と同じような読者層を想定していると思われる『サンデー毎日』の3月27日号はどうだろうか。

「チェルノブイリになるか?」の問いに対しては、[保安院や東電の説明は要領を得ず、事故の状況がわからない。いつメルトダウンしてもおかしくないとの情報も飛び交っている]と、情報不足に混乱しているらしい地元ジャーナリストのコメントをあげ、[東北・関東一帯が死の町と化し、チェルノブイリの事故に匹敵する大惨事なっても不思議ではありません]と記している。しかしその一方で、中性子物理学が専門である元京都大学原子炉実験所の海老沢徹氏の解説[炉心溶融で収まればチェルノブイリ事故のような事態は防げます]も引用しており、この時点では結論を出していない。

『サンデー毎日』は次に、[仙台に人が住めなくなる危険]を載せている。これは、NPO法人「食品と暮らしの安全基金」代表の小若順一氏が想定する最悪シナリオにもとづくものだが、ここでは[福島第一原発で格納容器の爆発が起きれば広島型原爆の100発分もの放射性物質が仙台に降り注いでもおかしくない]と書いている。

広島・長崎に投下された原子爆弾、いわゆる原爆の規模との比較は、チェルノブイリ原発事故とともによく引き合いに出される。しかしながら、その他に比較対象とするべきものがほとんどないという理由はあるとしても、明らかに原爆とは違う原子力発電所の事故を対比させて論じるのには無理があるように思う。むしろ、原爆の熱傷がもたらした甚大な被害のイメージと結びつき、過剰な恐怖心をかき立てるものとなりえる。

原発と原爆の違いついては、『週刊文春』3月31日号で池上彰氏が解説しているが、原子爆弾にするためには、ウラン235の濃度を90%以上にする必要があり、U235の含有量がわずか3~5%の燃料棒では、どう頑張っても原爆のような爆発的な熱量を発生させることはできない。この前提無しで不用意に原爆と比較することは、誤解を招きやすい。

前出の小若氏は、[風向きが南に変われば、260 km南の東京が同じ目に遭う]とし、[マスクや食料、飲み物などを備蓄して屋外に閉じこもる準備をする必要性がある]とも述べている。『週刊毎日』3月27日号が発売された3月17日頃は、すでに買い占めが社会問題化していた頃で、スーパーやコンビニから保存可能な食品が姿を消していた。そのため、この記事そのものが買い占めを助長したとはいえないが、これを読んだ読者が、善意でこの情報を広めた可能性も否定できない。

この週の『週刊文春』3月24日号は、格納容器の状態等、原発の事故そのものに触れるのではなく、その事故にまつわる周辺の状況を記事にしている。原子炉建屋が爆発した1号機、3号機の内部で作業していた人たちがどうだったか、事故に対しての東電の認識の甘さ、情報提供の不手際と政府の対応のまずさを中心にまとめている。

対する『週刊新潮』3月24日号は、地震の後、“冷やし”、“漏らさない”、“止め”のプロセスのうち、“止め”しか上手くいかなかったことを指摘している京都大学の吉川榮和氏のコメントを掲載している。水素爆発とはどういうものかという吉川氏の解説を踏まえつつ、[一番怖いのは水が本当に無くなって燃料がすべて溶け、ボタッと落ちて水と接触する水蒸気爆発です]とする京都大学原子炉実験所の今中哲二氏の意見も載せている。最悪のシナリオを想定しながらも、記事としては断定的な判断を記載していない。

次のテーマとして、ニュース等で頻繁に出てくるシーベルトという単位の意味を説明し、[現在観察されている値では心配ありません]とまとめている。放射能というみえないものへの過度な心配に対しては、東京女子医科大学放射線腫瘍科の医師である三橋紀夫氏による各地の放射線量の解説「日常的に生活しているだけでも放射線浴びている事例」を掲載している。この解説を読んで、宇宙からの放射線(宇宙線)が常時地球に降り注いでいることに気づかされた人も多いのではないだろうか。

自然放射線は岩石からも放出されている。『週刊新潮』では、翌週3月31日号でも、同じ三橋氏の解説として、花崗岩の多い西日本の自然放射線量の方が、この時期に東京で観察されていた放射線量よりも高いことを紹介している。無用な被曝はできるだけ減らすというのが、現在の放射線防護の基本的な考え方である。それでも、[過剰な心配によるストレスの方が毒]とするこの解説を読んでいれば、慌てて関西に避難する必要はなかったことがわかるだろう。

もちろん、この週は3月15日の放射性物質放出により、各地の放射線量のデータが一気に跳ね上がった直後だ。この先の原発の状況によっては予断を許さない状況だったが、生データを列記するだけでなく、現在のレベルがどうして安全だと言えるのか、政府の会見ではっきりと述べられていない部分に踏み込んで解説する『週刊新潮』のような週刊誌が、この時期には必要だったのではないかと筆者は考えている。また、『週刊新潮』誌面でも述べられているように、「被曝」という用語が、必要以上に不安を煽っていたことも否めない。

さらに『週刊新潮』では、蔓延している悪質なデマメールのいくつかを紹介し、受け取ったメールの内容をよく吟味するように注意喚起している。情報伝達ツールとして大活躍した携帯電話のメールやソーシャルメディアだが、誤情報の温床になる可能性も秘めていることは認識しておかなくてはいけない。

ITジャーナリストの井上トシユキ氏はこの点を指摘し、[メールを受け取った側も、何も確かめず情報を鵜呑みにして広めてしまうと、迷惑行為の片棒を担ぐことになりかねません]とコメントしている。RT(リツイート)機能を使って、容易に、友人だけではなく第三者へも情報を拡散できるTwitterの存在が、デマメールの急速な伝播に拍車をかけたことは明らかだ。

善意の情報提供のつもりで行ったケースが多かったのも、今回の災害にまつわるデマメールの伝播に特徴的現象だったのではないだろうか。もっとも、Twitterではデマを打ち消す情報もまたすばやく伝わる。「石油コンビナート火災で化学物質の雨が降る」というデマメールがその典型だろう。広がるのも早かったが、それが収束するのも比較的早かった。

『週刊ポスト』が考えたジャーナリズムのあり方

ここまで、『週刊朝日』と『週刊毎日』、『週刊文春』と『週刊新潮』という対象読者層が同じであると考えられる週刊誌同士を対比させる形で紹介してきたが、もっとも対立構造がはっきりしていたのが『週刊現代』と『週刊ポスト』である。

自誌を、「煽らない本誌」と称する『週刊ポスト』は、4月15日号に、[問題追求レポート]として、[ただ徒らに「不安」と「差別」を煽る人々]と題したレポートを掲載している。そこには、同じ週刊誌媒体として、過度に不安を増長するような記事を掲載している『週刊現代』の記事を、『某誌』からの引用として批判的に取り上げている。

たとえば、[いったんメルトダウンすれば、次々と核分裂を起こして制御不能になる再臨界まで一直線だ]という個所を最初の批判個所として取り上げているが、これは『週刊現代』の4月9日号に掲載されていた文言だ。再臨界が起きる可能性がこの時点(発売日3月28日頃)でどうであったかは、本稿の最初の方で述べた通りである。

3月25日に東電から発表された核種分析結果で、放射性塩素Cl38が検出されたというデータがあり、再臨界を疑う要素がまったくなかったわけではないが、炉心溶融が再臨界に直結するものではないことは多くの専門家のコメントからも明らかだった。なお、このCl38の検出は誤検出であったことが後に判明している。

『週刊ポスト』の問題追求レポートでは、この『週刊現代』の記事に丁寧な解説を加え、煽り記事であると断定しているし、翌週4月22日号では、はっきりとライバル誌の誌名を出して批判をつづけている。このように『週刊ポスト』は、[少なくともジャーナリズムを標榜するのであれば、最低限の事実の確認、専門分野の理解がなければ、扇動者の誹りを免れない]という言葉通り、一貫して情報を冷静に分析した上で記事にしている。

『週刊ポスト』は、他誌が複数の専門家に聞いて曖昧な答えを載せていた[福島がチェルノブイリになる]という言葉に対し、4月1日号の段階で[デマである]と断言している。

4月1日号の発売された3月19日と言えば、冒頭で紹介したセンセーショナルな表紙の『AERA』3月28日号が発売された日でもある。

『AERA』 の衝撃に打たれた筆者としては、『週刊ポスト』が、この段階の誌面に[デマに惑わされないための「原子炉内で起きていること」基礎知識]と題した囲み記事を掲載したことをたいへん評価している。初期の段階で行われたこのような冷静な現状分析と解説は、この号以降もつづけられていくことになる。継続して『週刊ポスト』を読みつづけていれば、ニュース等で発表されるデータを適切に理解し、福島第一原発の現状を詳しく知ることができただろう。

それに対して『週刊現代』では、科学的根拠を無視した最悪のシナリオを追いかけ過度に危険を煽る内容を貫いている。

『週刊現代』4月2日号では、見開き1ページを利用して、[被曝拡大][制御不能][これから始まる「本当の恐怖」]などという大見出しで[カラー&モノクロ&特集 まるごと105ページ]の特集記事を掲載している。[あなたは政府の発表を信じますか]や、「全国民必読」という文言が、読者にページをめくるよううながす。

水素爆発により、1号機、3号機の原子炉建屋が吹っ飛び、4号機建屋の一部も損傷している状態で、政府の会見は要領を得ず、みなが信頼できる情報を探していた時期だ。『週刊現代』が言うように、枝野官房長官でさえ、正確には[理解しないで会見している]状態だったのかもしれない。

誌面では、その段落のなかで「専門家の見解はさまざま」として、まず[現状は、スリーマイル島原発の事故を超え、チェルノブイリ原発の事故に至るかどうかの瀬戸際です]とする、京都大学原子炉実験所・今中哲二氏のコメントを載せている。[すぐにチェルノブイリ級になることは無い]というのが今中氏の主張であり、「核分裂を起こさないように押さえ込めるかどうか」が焦点であるという点では内容に誤りはない。

しかし記事では、今中氏のコメントの解釈として、スリーマイル以上チェルノブイリ未満の福島第一原発の現状のみにフォーカスし、冷却に失敗すれば[圧力容器、格納容器という二重の「封じ込め」施設を吹き飛ばし大爆発を起こす可能性さえある]とまとめてしまっている。

政府の会見を批判的にみていた『週刊現代』自身も、現状を正確に理解せずに記事にしていたようだ。チェルノブイリ原発は、黒鉛を減速材として利用していた「黒鉛炉」と呼ばれる原子炉だった上に、燃料棒を覆う格納容器が存在しなかった。そのため、原子炉が暴走し臨界が制御できなくなって爆発した際、それを遮るものがなかった。燃料棒の周りの黒鉛は燃えやすく、その黒鉛が燃えたことで放射性物質の拡散を助長したのだ。

このように、チェルノブイリ原発は、福島原発のような水を減速材として利用している「沸騰水型軽水炉」とは根本的に違っているし、後者が圧力容器、格納容器、建屋の三重構造で覆われている点でも大きく異なっている。『週刊現代』のまとめは、原子炉の違いを理解せずに書いてしまっているとしか思えない内容だ。たんにチェルノブイリ以上か以下かではなく、どういう意味でチェルノブイリと比較しているかが重要なのだ。

念のために『AERA』 3月28日号に掲載されている同じ今中哲二氏のコメントをみてみると、今中氏が[チェルノブイリ以上の可能性も否定できない]と指摘している前提は[隣接して立っている1号機~4号機が連鎖爆発を起こせば]という最悪の事態を想定した場合であることがわかる。[連鎖爆発が起きれば、大量の高濃度の放射性物質が飛散することは間違いない]わけなので、[チェルノブイリ以上の可能性]も起きうるが、その条件は、ただ冷却に失敗しただけではないのである。

『週刊現代』は、「原発事故は最悪のものになりうる」という仮定の下での記事を掲載しつづけている。それは、今中氏のコメントにつづく大阪大学名誉教授の住田健二氏のコメントのなかから、[厳しい事態だ]という言葉を抜き出して先に記すという手法を用いたことでも推察できる。

つづく住田氏のコメントは、[原発の開発に携わったものとして、もうドキドキですよ]という言葉で締めくくられている。[あの破損ぶりを見たら、「大したことはない」とか「心配する必要はない」とは私はいえない]のは一般市民の多くが感じたことと同じだ。原発の開発に関わった専門家が、一般市民と同じでドキドキするばかりだったのか?疑問が残る。[冷却する作業が後手後手になったので、ここまで重大事態に発展した]という状況の説明は必要である。

[今は現場の作業員の人たちに頑張ってもらいたいと、祈るような気持ちです]というコメントを載せるなら、何をどう頑張ると緊急事態を脱出できるのかについても、突っ込んだ取材が必要だったのではないだろうか。冷却が充分にできていない厳しい事態を打開するためにどうしたらよいのか、何かしらの見解を聞き出すことはできなかったのだろうか。そのような中立的な情報提供こそが、この時期には求められていたのではないだろうか。

しかし、このように、危険であることを強調しようとした『週刊現代』だが、はじめから取材対象を意図的に絞ったわけではなさそうである。「ある国立大の原子力関係者が苦々しく話した言葉」として、[メディアを見ていると、今にもチェルノブイリ型の爆発が起こると発言する人が多く登場していますが、ミスリードだと思いますね。私のところにも新聞記者が来て、「最悪のシナリオをしゃべって下さい」という質問をするので呆れました]と載せているのだ。

ここでは、チェルノブイリが原子炉運転中の事故だったことを説明し、福島原発は「電源が復旧して冷却がうまくいけば大事故に至らないだろう」と書かれている。これらを注意深く読めば、「このままひどくなればチェルノブイリと同じくらい深刻な事態になるのかもしれないが、そもそもチェルノブイリ原発の事故とはまったく違う」と受け取ることができる。

しかしながら、この記事の流れで、素直にそう受け取ることができただろうか。何しろ、記事全体を通じて、チェルノブイリ原発以上の事故であると伝えたい編集部の意図が強烈に感じられるのである。複数の意見を載せることで、[すぐに核分裂→爆発に至るとは考えにくい]という結論をも出していたのに、この後の『週刊現代』は同業他誌に激しく批判されるほどに、選んで刺激的な言葉を用い、翌週以降も不安を煽るような記事を掲載していく。

翌週4月9日号では、「もう少しでチェルノブイリになる状態である」とする今中氏のコメントのみを採用し、明らかに危険性を強調する内容に進んでいった。さらに、4月9日号の[「黒い雨」が東北地方に降る]や、4月30日号に掲載された[日本は、自らの手で自らに「原爆」を落とした]というような言葉もその例としてあげられる。原爆で多くの人命を失った過去をもつ日本人の感情に、強烈に訴えかける言葉でもある。

週刊誌に潜む危険性

今回の原発災害にまつわる週刊誌上での伝えられ方を比較すると、どの週刊誌を読んでいるかによって、現状に対する認識が大きく異なっていた可能性が浮き彫りになった。同じ数値データでも、比較対象が何かで意味合いが異なるように、不適切なものと比較され「怖い」といわれるだけでは、ただやみくもに怖がるだけになってしまう。

逆にいえば、読者の側にも、記事の行間を読み取る注意深さが求められる。キャッチーな表題や見出しの言葉に惑わされることなく、記事に誘導的な文言が使われていないか、根拠となる数値やデータの解釈が適切かを判断していかなくてはならない。ではいったい、それらをどのように判断していけばよいのだろうか。

縦断的に週刊誌同士を比較してみると、注意すべき点がいくつか浮かび上がってくる。まず、週刊誌の愛読者にとってはすでに常識なのかもしれないが、刺激的すぎるタイトルがついている場合、それをそのまま鵜呑みにすることは控えるべきだ。タイトルは販売戦略のひとつでもある。

また、記事のなかに断定的な意見が書いてあった場合、その根拠が詳しく書かれているかどうかで信用度が変わる。「怖い」というからにはその根拠があるはずで、根拠が示されていない記事の場合、危険を煽っているだけの可能性が高くなる。

もちろん、その逆も然りである。「安全」というからには、その根拠があるはずだ。政府の発表がこの典型で、深刻な事態が起こっているにもかかわらず、その事実をすべて公表せずに「安全」とだけいいつづけた。情報が不十分でわからなかったのなら、「安全です」ではなく「まだ情報が不十分でわかりません」といえばよかったのだ。誠実さを欠くことで信用を失った。このように、根拠のない断定的な結論には注意しなくてはいけない。

さらには、その根拠が科学的な常識に根ざしているかどうかも重要だ。たとえば、3号機のMOX燃料がプルトニウムを含んでいることをあげ、ウランの燃料棒より融点が低いと伝えている場面では、ウラン燃料の融点が約2,800℃であること、融点が低いとされるMOX燃料の融点がそれよりわずか20~40℃程度低いだけであることが書いてあれば、「MOX燃料はウラン燃料より溶けやすい」という言葉から受ける印象は大きく変わるはずである。適度に怖がることは身を守るために大切だが、根拠のない煽り記事に踊らされる必要はない。

また、専門家の意見は、その肩書きだけで鵜呑みにしてはいけない。この件については『週刊ポスト』も言及しているが、専門家といいつつ、極端に偏った志向をもって発言しているだけの人もいる。その上、専門家のコメントを、都合のよい一部分だけを抽出して利用している可能性もある。

たとえば専門家が、ある仮定を前提に述べたコメントも、その仮定の解釈を間違えれば意図せぬ方向に理解されてしまうことがある。週刊誌の編集部に原子力に詳しい記者がいる可能性は低いので、複数の専門家の意見がいくつかに分かれた場合、その判断に迷うことは当然かもしれない。しかし、『週刊ポスト』4月22日号は、原発報道に関わっている多くの記者達のことを[彼らは普段、「説明されたまま書く」ことしかしないから、自分で調べて書く技術も意欲もないのである]と断罪する。

最初に書いたように、週刊誌は政府を信用しないという基本姿勢の点で他の主流メディアと対照的である。その意味で、重要な媒体といえるだろう。ただ、雑誌によっては科学的に怪しい主張を平気で書くので、何冊かの雑誌を読んで比較したり、新聞、インターネットなど複数の媒体で情報を確認したりして、注意深く読んで欲しいと思う。

プロフィール

佐野和美サイエンスコミュニケーション

1975年生まれ。東海大学大学院医学研究科修了。博士(医学)。科学雑誌編集者、ポスドク、東京大学科学技術インタープリター養成部門特任助教を経て、4月より国立環境研究所 資源循環・廃棄物研究センター特別研究員として、リスクコミュニケーションに携わる予定。専門は、分子生物学、科学コミュニケーション。

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