「宇宙SF」の現在――あるいはそのようなジャンルが今日果たして成立しうるのかどうか、について

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「ポストヒューマン」

 

しかしながら今日「ポストヒューマン」と呼ばれている問題群は、そうした従来のオカルト的「超人類」とは一線を画す――とはいわないまでも、やや異なった方向を向いている。物理法則を逸脱した心理現象としての「超能力」はもはやほとんど主題とはならない。そこでは自然な生物進化とともに、というよりそれ以上に人為的な技術による人間ならびに人間以外の生物、生態系の改造の可能性が語られる一方で、生命現象を本質的に情報-計算過程と見なすリチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店)以降の生命観の転回を承けて、従来「ロボット」として「超人類」とは別カテゴリーに入れられていた問題群が、あわせて語られるようになった。

 

すなわち、生物は「自然発生した自律型ロボット」として、逆に(自律型)ロボットは「人為的につくられた擬似生物」として、存在論的に連続したものとして描かれるようになった。のみならず、「心」もまた、生物―ロボットを動かすソフトウェアの一種として理解され、そのソフトを物理的な実体としての生物―ロボットに実装する前に、あるいはそもそも実装せずにシミュレーションとしてのみ動かす、というアイディアとして、古くからある「人工知能」の概念も更新され、その副産物として「人工生命」なる概念が生じる。さらにまた、この生命シミュレーションが機能するためには、当然それを取り巻く「環境」「世界」のシミュレーションもまた必要となる。この「世界」シミュレーション=サイバースペース(電脳空間)を、生身の人間がデバイスを介して体験する、というのがいわゆる「バーチャル・リアリティ」である。

 

これら「ポストヒューマン」の問題群は、創作の世界では80年代のいわゆる「サイバーパンク・ムーヴメント」においてほぼその原型ができあがっている。ブルース・スターリング『スキズマトリックス』(ハヤカワ文庫SF)では、宇宙に進出した人類が生物工学的に自らを変容させていく様を描き出し、ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』(ハヤカワ文庫SF)では、バーチャル・リアリティ世界での生活が現実の物理生活と同等かそれ以上の意義を持つようになってしまった人々が描かれた。

 

さらにグレッグ・ベア『ブラッド・ミュージック』(ハヤカワ文庫SF)では、遺伝子操作の結果誕生した知性を持つ細菌が、地球上すべての生物を取り込んで一個の巨大なコンピュータと化し、内部で延々と――ひとりひとりの人間の意識をも含めた――世界シミュレーションを反復するようになる。これらの作品群の背後には、ドーキンスによる生命=情報観やそれを受けたダニエル・デネットの「神経系上のバーチャル・マシーンとしての意識」論(デネット『解明される意識』(青土社)他)、そしてそれを取り巻くいわゆる「認知革命」が着想源として存在する。先述のイーガンの作品もまさしくこうした流れの上に位置づけることができる。

 

こうした「サイバーパンク・ムーヴメント」に少しく先行した流れとしては、ジョン・ヴァーリイの「八世界」連作(『残像』『へびつかい座ホットライン』(ハヤカワ文庫SF)他)もまた忘れ難い印象を残す。正体不明の侵略者によって地球を追われた人類は、太陽系近傍を通過する謎のレーザー通信「へびつかい座ホットライン」を解読して得られたテクノロジーをもとに、月や火星、金星、さらには木星の衛星や小惑星帯のドーム都市やコロニーを拠点として、サイボーグ手術や遺伝子改良などの処置を自らに施すことによって環境に適応し、生きのびていく――というその設定は、70年代においては非常に先駆的なものであった。

 

しかしながらヴァーリイの「八世界」においては、性転換やクローン、人工臓器がどれほど多用され、人体が改造されようと、ヒトの遺伝子それ自体に対する直接的な操作に対しては強烈な禁忌が課せられていた。改造によって如何に怪物的な身体に変容しようと、それは機械の人体への接続や、せいぜい臓器、細胞レベルの改造にとどまり、ヒトのDNAそのものの改変は堅く禁じられる世界が描かれていた。しかしながら「サイバーパンク」以降、こうした禁忌はやすやすと踏み越えられた。そして、自然な人間と遺伝子レベルでの改造人間との差異どころか、人間とロボット、さらにはソフトウェアの間の差異でさえトリヴィアルなことに過ぎない世界へと、現代SFは到達してしまったのである。

 

 

「異様なるもの」の可能性

 

そのような展開の中で、宇宙を舞台にしたSFにおけるかつての最重要テーマであった異星人、地球外知的生命との接触、交渉という主題系も、昔に比べるとやや存在感を減じているように思われる。

 

かつてのスペース・オペラにおいては、知的生命でいっぱいの宇宙は、そのままたくさんの民族、たくさんの国家が相争う地球の人類社会のメタファーであり、異星人との接触という主題は、超人類やロボット同様、人種・民族問題の寓話であった。この伝統はそれなりに豊かな成果を生んでおり、たとえばミリタリーSFの古典ジョー・ホールドマン『終りなき戦い』(ハヤカワ文庫SF)や、オースン・スコット・カードの『エンダーのゲーム』(ハヤカワ文庫SF)に始まる連作、さらに近年ではジョン・スコルジーの『老人と宇宙(そら)』シリーズ(ハヤカワ文庫SF)が興味深い。

 

しかしながら、そのような単なるメタファー・寓話を超え、我々人間の知る地球とは異質な世界における異質な生命、知性についての生真面目な思考実験に挑み、そこから逆に「そもそも知性とは、人間とは何か?」という哲学的主題へと挑戦するシリアスな作品群もあった。なかでもスタニスワフ・レムやストルガツキー兄弟は、アンドレイ・タルコフスキーによる映画化(レムの『ソラリス』(ハヤカワ文庫SF、国書刊行会)、ストルガツキーの『ストーカー』(ハヤカワ文庫SF))のおかげもあって広く注目され、尊崇を集めた。だが、現代ではこうした異星人というモチーフは、娯楽作品としてのスペース・オペラにおける「お約束」として登場する場合を除けば、SFにおける存在感を以前に比べれば減じている。(その中ではたとえば我が国の野尻抱介『太陽の簒奪者』(ハヤカワ文庫JA)は貴重な例外である。)なぜだろうか?

 

先述した現実のSETIが既に長い歴史を有しながらも、いうに足る成果を依然としてあげていないこと、それを踏まえつつ今日の宇宙論が、宇宙における知的生命の希少性の方にむしろコミットしつつあること(この辺についてはスティーヴン・ウェッブ『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由』(青土社)が啓発的である)は、確実にこの傾向に対して影響している。

 

しかしそれだけではない。シリアスなSFにおける、人間とは異質な「他者」としての役割を、異星人に担ってもらう必要がなくなってきた、ということでもある。すなわち、我々人類の文明が、その存続の間に宇宙の他の天体出身の生命、知性、文明と出会う可能性は、従来考えられていたよりも低いことがわかってきた一方で、我々人類の文明が今後とも続き、生きのびて宇宙空間に進出していくのであれば、その中で我々現在の人類の広い意味での子孫、後継者たち(その中にはロボット、ボットも含まれる)は、文化的にのみならず、心理的、生物学的、あるいはそれこそ哲学的にも、現在の我々とはきわめて異質な(すなわち、ポストヒューマンな)存在へと変容していくだろうこともまた、わかってきたからである。人類が宇宙に進出したとき、そこで異星人(エイリアン)に出会うことができるかどうかはさだかではない。しかしながら、成功裏に宇宙に進出しえた時、その人類(の末裔)は、我々現存の人類にとっては、まさしく異質な存在(エイリアン)になっているはずなのだ。

 

考えてみれば、従来の宇宙SFにおいて「超光速」という設定がしばしば採用されてきた理由は、宇宙空間を現在の、生身の人間にとって横断可能とし、生身の人間を主体とする恒星間文明社会を可能とさせるための便法であったことがわかる。(林譲治「超光速は本当に必要か?」http://www.asahi-net.or.jp/~zq9j-hys/idea12.htm 他を参照のこと。)「異星人で一杯の宇宙」という設定もまた、宇宙空間が単なる観測や、せいぜい心なきロボットによる探査にとどまらず、実際に生身の人間がそこに足を運ぶに足る――自分と同じく「心ある者」に出会いうる空間であるためのものだったのだ。20世紀後半以降の現実の科学の発展は、そうした想像力の余地をどんどん掘り崩していった。しかしながらその代り、別種の「異様なるもの」の可能性が我々の眼前には立ち現れつつある――宇宙SFの発展と変容の歴史は、そうした示唆を与えてくれるように思われる。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.265 

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