2014.10.07

タイでクーデタが繰り返される理由――タイ民主化の未来は暗いのか?

外山文子 タイ政治、比較政治学

国際 #タイ#クーデタ

2014年5月22日、タイで再びクーデタが起きた。絶対王政を倒した1932年立憲革命以来、13度目のクーデタ、21世紀に入ってからは2度目のクーデタとなった[1]。

クーデタはタイの風物詩のように捉えられているむきもあるが、1990年代には、もはやクーデタは起こらないだろうと思われていた。今回も、インラック首相とプラユット陸軍総司令官の関係が良好である、国際的な影響に配慮するだろう等々の理由から、クーデタは起こらないだろうと言われていた。

ところが、クーデタは起こった。なぜ21世紀に入ってからも、タイでクーデタが起き続けているのか。本稿では、その理由について、より長期的な視点から解説を試み、1990年代以降に新たに制定された2つの憲法こそが21世紀に入ってから起こった2度のクーデタを引き起こしたこと、今回クーデタの目的が情報統制それ自体であり、その背後には王位継承に対する懸念が関係している可能性などについて説明したい。また、今後の展開についても予想してみたい。

[*1] クーデタの回数については、数え方によって多少の違いが存在する。筆者は、Chadaの論考に依拠した。Chada Nonthawat. 2009. Kabot Phaendin Yaengching Amnat. Bangkok: YPSY. ※タイ語

2014年クーデタ:経緯と現在の状況

タイ人が「ソフトだった」と形容する2006年クーデタとは異なり、2014年のクーデタは軍による強権的な独裁支配へと繋がった。タイ人たちは口々に、1950年代末から1970年代初頭まで続いた軍事独裁政権の時代に戻ったようだと話し、クーデタを実行した国家平和秩序評議会(NCPO)による支配に怖さを感じている。

【経緯】

まずクーデタの経緯について、簡単に振り返ってみたい。

インラック政権が憲法改正や恩赦法の制定を試みたことを契機に、昨年秋から同政権に対する大規模な反対運動がバンコクを中心に展開された。これを受けて、インラック政権は民意を問うために下院を解散し、2月2日に総選挙を実施するとした。ところが、最大野党である民主党が選挙ボイコットを発表し、反政府デモ隊も総選挙の実施を妨害したため、完全な形では総選挙を実施することができなかった。そのため、3月に憲法裁判所により総選挙の無効について判決が下され、5月には、過去の政府高官人事に対して介入を行ったかどで、インラック首相および閣僚9名が憲法裁判所の判決により失職した。政治状況は混迷を極め、出口が見えない状況となった。

このような状況下で、プラユット陸軍司令官は、5月20日午前に戒厳令を発令し、同月22日夕方に全テレビ局を通じて、NCPOによるクーデタの決行と国家権力の掌握を発表した。それからNCPOは、2007年憲法を廃止し、続々と布告や命令を発表し始めた[*2]。7月22日には、2014年暫定憲法(全48条)が制定され、NCPOは同暫定憲法の下で来年7月に新憲法制定、10月頃に総選挙を実施して、民政復帰を目指すと表明した。

[*2] 現在までに122号までの布告と178号までの命令が発表されている。http://library2.parliament.go.th/giventake/ncpo.html (2014年10月3日アクセス)※タイ語

【現在の状況】

現在、国政を司っているのは、NCPO、暫定内閣、国家立法議会(NLA)の3機関であるが、NLAはNCPOにより人選が行われた。NLA、暫定内閣ともに多数の軍関係者によって占められており、暫定首相はプラユットである。また、新憲法の憲法起草委員会や、憲法草案の審議も担当する国家改革会議(NRC)委員の人選も、軍の影響力下に置かれている。このように軍は、執政権および立法権を独占し、新憲法の起草過程にも強い影響力を持っている。まさに独裁状態である。

しかし、タイ人が恐怖を感じる理由はこれだけではない。NCPOが出した布告には、情報統制に関するものが多数含まれている。それらは、インターネットやソーシャルネットを含むメディアが「社会に混乱を引き起こすような情報」「国の治安を害するような情報」を提供することを禁じた。また、あらゆるメディアに対して、研究者、元官僚、元裁判官、元独立機関委員らに、社会の対立を生じさせる又は拡大させるような性質の見解を表明させることを禁じた。他方で、メディアはNCPOが発表した情報や資料について広報する義務があるとも定めている[*3]。2014年クーデタは、情報統制が非常に厳しい点が特徴の1つであるといえる[*4]。

[*3] 布告97号

[*4] 不敬罪やデモ参加などで起訴された場合は、軍事裁判所で裁かれることとされた。

こうした現状を踏まえた上で、タイでは、なぜ何度もクーデタが起こりうるのだろうか。以下、考察を行ってみたい。

タイのクーデタ

まず、これまでのクーデタに関する基本的な情報を確認したい。現在まで10回以上繰り返されてきたクーデタは、タイ政治が同じサイクルを回り続けていることを意味するのか?なぜ軍がクーデタを実行することが可能なのか?これらの問いについて答えたい。

【クーデタの歴史:繰り返しなのか?】

1932年の立憲革命以降、タイで起こったクーデタは以下のとおりである。

1933年、1947年、1948年、1951年、1957年、1958年、1971年、1976年、1977年、1991年、2006年、2014年(合計13回)

このようにクーデタは頻発している。しかし時代とともに背景にある政治状況は変化してきた。大まかに説明すると、1932年立憲革命から十数年間は、同革命を実行した人民党を構成する軍、文官、そして王党派の3者間の権力闘争であったといわれる。1947年クーデタを契機に、人民党(軍)と王党派の争い、または軍の内部の権力闘争へと変化した。1958年から1973年までは基本的に軍事独裁政権と捉えていい。

1973年に軍事政権が崩壊して民主化へ向かうものの、社会のイデオロギー対立などに端を発し1976年に再びクーデタが起こった。1977年のクーデタを経て、非民選首相と民選議会が共存する「半分の民主主義」と言われる体制へと入った。この体制は、1988年に民選政権が樹立されるまで続いた。これ以後に起こった3度のクーデタは、1991年が民選政権を、2006年および2014年が民選政権(選挙管理内閣)を打倒するために起こったクーデタである。

民主政治の根幹である総選挙が実施された年についても確認してみたい。

1933年、1938年、1946年、1948年、1952年、1957年2月・12月、1969年、1975年、1976年、1979年、1983年、1986年、1988年、1991年3月・9月、1995年、1996年、2001年、2005年、(2006年)、2007年、2011年、(2014年)

確かにタイではクーデタが繰り返されて来たが、1991年から2006年クーデタまでは15年間も空いている。しかもその間に6回の総選挙が実施されている。これらのデータから、1990年代のタイは明らかに民主化に向かっていたことが分かる。つまり本来は、1991年クーデタが最後のクーデタであった可能性が高いといえよう。

【クーデタの正当化:なぜ実行可能なのか?】

クーデタの背景にある政治状況は変化し続けて来た。しかし、クーデタを正当化する根拠は一貫していると言われる。クーデタの成否を分けるのは、国王による承認の有無であるとされる。そして、クーデタを法的に正当化してきたのが、1952年に最高裁判所が出した「クーデタは権力掌握に成功すれば、その事実を持って合憲となる」という判決である。これ以降、裁判所がクーデタに対して違憲判決を出したことはない。つまり、タイでは成功したクーデタは違憲ではないことが、クーデタを実行可能とする重要な要因の1つなのである。

1990年代のタイ政治

【1992年5月流血事件から民主化へ】

次に、1990年代のタイ民主化とクーデタとの関係についてみてみよう。

1991年2月、民選政権であったチャートチャーイ政権(1988年~1991年)がクーデタによって打倒された。クーデタの大義名分は「政治家の汚職」などであったが、最大の原因は、政権と軍との間の閣僚人事を巡る衝突であったと指摘されている。

軍はクーデタ実行後、過去の例に倣って1978年憲法を廃止し、1991年暫定憲法を制定した。そして新憲法の制定へと駒を進めた。ところが時代はすでに変化していた。1991年憲法草案が発表され、首相が下院議員から選ばれるように規定していないことが明らかになると、NGO、マスメディアや市民らから猛烈な反対運動が起こった。人々は、首相に民選性を求めた。しかし、国王の「お言葉」の助けもあり、同憲法草案は可決された。

だが1992年3月選挙の後、クーデタの首謀者であるスチンダーが非民選首相として就任したことがきっかけに、再び大規模な反対運動が起こり、多数の市民が犠牲となった5月流血事件が起こった。この結果、1991年憲法は改正され、首相は民選の下院議員から選ばれるよう定められた。

また、多数の死者を出したことにより軍の権威は失墜し、もはやクーデタの実行は不可能と言われるようになった。ここにおいて、タイは民主化に向けて大きく前進し始めた。前述のように、本来はここでクーデタの歴史に終止符が打たれるはずであった。

【政治改革運動と1997年憲法制定:更なる民主化へ?】

1991年憲法が改正された後に、政治改革運動が起こった。政治改革運動は「クーデタの口実にもなった汚職問題を解決しなくてはならない」との趣旨のもと、バンコクの知識人らを中心に起こった運動である。汚職については、特に地方における選挙時の票買いが問題視された。問題解決のための処方箋として、立憲主義、法の支配、グッドガバナンス、アカウンタビリティなど流行の用語がならび、新憲法の制定が目標と定められた。

政治改革運動は、タイの民主主義をより良いものにするための運動であったといわれる。しかし、政治改革運動に対して影響力を持っていた著名な学者たちの見解をよく確認してみると、意外な事実が浮かび上がる。彼らは、汚職取り締まりを重要視する一方で、クーデタの違憲化には反対していた。またある学者は、首相を民選の下院議員に限定した規定に対して、「立憲主義に基づく議会制度における重要な要素ではない」と切り捨てている[*5]。結局、1997年憲法および2007年憲法において、(成功した)クーデタは違憲化されなかった[*6]。

[*5] Amon Chantharasombun. 1994a. Constitutionalism:Thang-ok khong Prathet Thai. Bangkok: Institute of Public Policy Studies. ※タイ語

[*6] 外山文子「タイ総選挙と憲法裁判所―タイでは、いま何が起きているのか?」シノドス2014年1月30日掲載

前述のように、タイでクーデタが法的に正当化される根拠は、1952年の最高裁判所判決だといわれる。よって、クーデタの再発を防ぐためには、軍が口実とした汚職問題の解決への取り組みと同時に、クーデタを違憲化することが先決であった。しかし、政治改革運動では、汚職問題の解決のみが強調された。このようにして、その後もクーデタが実行可能となる余地が残された。

1997年憲法と2006年クーデタ

【憲法裁判所・独立機関の登場と汚職取り締まり】

1980年代から1991年クーデタまで、「政治家の汚職」を批判してきたのは軍であった。1997年憲法制定後は、同憲法によって生み出された憲法裁判所や、選挙管理委員会、国家汚職防止取締委員会、オンブズマンといった独立機関が汚職取り締まりを担当することとなった。1997年憲法は、まさに汚職取り締まりを最大の目的として制定された憲法であった。そして同憲法の下で誕生したタックシン政権(2001年~2006年)は、1991年クーデタによって打倒されたチャートチャーイ政権以上に、汚職について批判されることとなった。

1997年憲法および選挙法、政党法、汚職防止取締法などの各種法律によって、汚職と認定される罪状が増加した。憲法裁判所および独立機関は、強力な権限を付与された。選挙管理委員会は、再選挙の実施、選挙権をはく奪することが可能とされ、国家汚職防止取締委員会は、政治職者が提出する資産負債報告書の真偽等について調査を担当することとなった。憲法裁判所は、政党に対して解党命令を出すことが出来るとされた。根拠となる規定は、下記の第63条である。

「人は、国王を元首とする民主主義政体の廃止または憲法に定める手段によらない国家統治権限の獲得を目的として、憲法に定める権利および自由を行使することはできない(第1段落)。(中略)憲法裁判所は、政党に対していずれかの行為の停止を判決する場合、当該政党の解散を命じることができる(第3段落)」(第63条)

また国会オンブズマンは、個人からの訴えを受け付け、憲法裁判所や行政裁判所に提訴することができると定められた。

これらの制度の導入により、汚職取り締まりに関するニュースがメディアを賑わすようになった。2001年総選挙では、62選挙区で再選挙が実施され、14名の候補者が選挙権をはく奪された。このような状態については、有権者に「選挙疲れ」をさせているとの指摘も登場した。一方、2005年総選挙で選挙権はく奪が1名のみであったときには、選挙委員会が与党の影響力下にあるのではないかと批判された。

また、資産負債虚偽報告の罪で、2000年から2004年までに閣僚級を含む27名の政治家が有罪判決を受けた。しかし、報告書の提出は非常に煩雑であり、中には必ずしも明確に汚職であったといえないケースも存在した。そのため政治家からは不満の声が聞かれるようになった。

タックシン首相に対しては、新たに「政策汚職」「ポピュリズム」との批判がなされるようになった。タックシン首相が、政策を利用して汚職を行っているというものである。これらの用語は、憲法や法律のもとでは汚職には該当しないタックシン首相の政策に対して、なんとかして批判しようとしたメディアや知識人らが使い始めたものであった[*7]。

[*7] 外山文子「タイにおける汚職の創造:法規定と政治家批判」、『東南アジア研究』、京都大学東南アジア研究所、51巻1号、pp.109-138、2013

【2006年4月総選挙から9月クーデタへ】

徐々に、タックシン政権=汚職という評価が定着し、憲法裁判所や独立機関に対して、タックシン政権を打倒するように求める声が強くなっていった。2005年から2006年初頭にかけて激しい汚職批判を受けたタックシン首相は、民意を問うとして下院を解散し、2006年4月2日に総選挙を行うと発表した。しかし、最大野党の民主党らによる選挙ボイコットのため、多数の選挙区で再選挙を実施する必要が出た。

こうした状況下で、反政府派の大学講師が、4月2日総選挙の無効を求めて国会オンブズマンに訴えた。国会オンブズマンはこの訴えを受理して、憲法裁判所に提訴した。そして5月8日、憲法裁判所は同選挙に対して無効の判決を下した。1997年憲法により登場した憲法裁判所および独立機関の制度設計が、タイ史上初めて総選挙の無効を可能にした。その後は再選挙の実施を巡って、選挙管理委員会と、裁判所や反政府団体との間で混乱が生じた。9月19日、政治権力の空白状態に乗じて、軍が15年ぶりにクーデタを決行した。多くのバンコク市民はクーデタを受け入れた。

15年ぶりに成功した2006年クーデタは、過去のクーデタとは異なる特徴を持つ。同クーデタは、汚職バッシングと、憲法裁判所による総選挙の無効判決があってこそ実行が可能であった。やはり1991年クーデタのように、軍が直接に民選政権に対してクーデタを実行し、権力を奪取することは難しくなったと思われる。2006年クーデタでは、あくまで軍は政治や社会の混乱を鎮めるために出てきたという形をとっていた。

2007年憲法と2014年クーデタ

【タックシン派政権と憲法改正の試み】

2006年クーデタの後、軍主導の下で2007年憲法が起草、制定された。同憲法においても、1997年憲法で登場した憲法裁判所や独立機関は継承された。憲法裁判所判事や独立機関委員の人選過程について変更が加えられ、人選における最高裁判所、最高行政裁判所の影響力が拡大した。また上院の約半数が任命制に戻され、任命議員の選考委員会は3裁判所および独立機関によって占められることとなった。人選の結果、任命の上院議員には、2006年クーデタとの関わりが深い人物が多数含まれた。

2007年12月23日の総選挙により、再びタックシン派の政権が誕生した。この後は、憲法裁判所、最高裁判所、独立機関によるタックシン派政権の打倒、与党の解党、タックシン元首相への有罪判決などが続いた。一般にタックシン派とみなされる通称「赤シャツ」からは、裁判所や独立機関の裁定が「公正」「公平」ではないとして強い不満の声があがった。2007年憲法の改正を試みるタックシン派政権と、それを阻止しようとする上院の任命議員との争いが始まった。

しかし、憲法改正には大きなリスクが伴っていた。1997年憲法から「国王を元首とする民主主義政体の変更または国の形態の変革をもたらす憲法改正の動議は、提出することができない」との規定が導入されたためである。これにより憲法改正できるか否かは、非常に曖昧な基準の下で憲法裁判所の解釈次第となった。また憲法改正に対して違憲だとの判決が下された場合、当該政党が解党される可能性があった。

また、憲法改正に限らず、憲法裁判所や独立機関は多様で強力な権限を付与されているため、これらの権限がフルに発動されて民選政権が破壊された場合、法的な出口が無くなってしまう可能性が高かった。そのような場合には、2006年と同様に政治権力の空白状態が生まれてしまう。前述のように、2007年憲法の下でもクーデタは違憲化されていない。よって2007年憲法も、当初からクーデタを引き起こす可能性を内包していた。問題は、いつスイッチが押されるかという点であった。

【2014年2月総選挙から5月クーデタへ】

2011年7月3日総選挙の勝利により、タックシンの末の妹であるインラックが首相となった。インラック首相も、憲法改正へと動き出した。焦点となったのは、以下の2点である。

(1)2007年憲法によって半数が任命制、残り半数が民選に変更された上院について、全議席を民選に戻すこと

(2)第190条により、外国や国際機関との条約締結においては議会の承認が必要と定められたが、議会承認を必要とする条約について限定をすること

しかし、(1)の改正案は2013年11月20日に、(2)の改正案は2014年1月8日に、それぞれ憲法裁判所によって違憲判決が下され、2007年憲法の改正は失敗に終わった[*8]。

[*8] (1)(2)の改正案は,ともに、政党を解党しうる2007年憲法第68条(1997年憲法第63条に相当)に対する違反を根拠に違憲の訴えが提起された.そして,憲法裁判所は,いずれの改正案も2007年憲法第68条第一段落に違反しており,憲法に定められた方法に基づかない手段によって国家の統治権力を掌握しようと試みた行為であったとの判決を下した.しかし,与党の解党や幹部の選挙権はく奪については,現時点ではそのような条件には該当しないとして却下した[憲法裁判所判決 15-18/2556, 1/2557].

またインラック政権は、憲法改正とは別に恩赦法を制定しようとしたが、途中で2006年クーデタ後に訴追された汚職事件に対しても恩赦を拡大すると法案の内容が変更されたため、メディアや市民らの間で強い反発が生じた。同法案は下院で可決されたものの、上院で否決されたことにより終焉を迎えた。

恩赦法や憲法改正の試みは頓挫したものの、政府に対する強い反発は残った。インラック首相は、下院を解散して選挙を行うことで事態の収束を図ろうとした。12月9日に下院の解散を発表したが、12月21日には最大野党民主党が、2006年4月総選挙の際と同様に、選挙のボイコットを決定した。

ここからの展開は、憲法裁判所と独立機関によって主導権が握られた。

まず国家汚職防止取締員会が、308名の国会議員に対して、上院の人選方法に関する憲法改正を提案および支持したかどで調査することを決議した。大規模デモ隊がバンコクの封鎖を開始し、1月22日に非常事態宣言が発令された。これに伴い選挙管理委員会は、憲法裁判所に対して総選挙の実施延期に関して判断を仰いだ。2日後には憲法裁判所が、総選挙の延期は可能であると判断した。

1月27日には選挙管理委員会が、総選挙は5か月程度延期することが望ましいとの声明を発表。2月2日の総選挙は、反政府デモ隊の妨害により民主党が地盤を持つ南部を中心に投票が実施できない選挙区が多数出た。そのため、3月7日に大学講師が総選挙の無効について訴えを提起し、国家オンブズマンは同案件を受理、憲法裁判所に提訴した。そして同月21日、憲法裁判所は、2月2日総選挙が無効であるとの判決を下した。

選挙がいつ実施できるか不明な状態の中で、国家汚職防止取締委員会が、インラック政権の目玉政策であったコメ担保融資制度に関する汚職に対して上院での罷免決議にかけようと動き出した。また2011年の政府高官人事に対する同政権の介入疑惑について、上院議員らが憲法裁判所に訴えを起こした。同案件について、5月7日に憲法裁判所が違憲判決を下したため、インラック首相ほか9名の閣僚が失職することとなった。政権は四面楚歌となり、次の展開について法的な側面からも、出口が見えなくなってしまった。そして5月22日、軍がクーデタを実行して権力を奪取した。

【2006年クーデタと2014年クーデタ】

2014年クーデタに至る経緯は、2006年クーデタと似ている。いずれも、民選政権が政権に対する批判をかわすために総選挙を実施して民意を問おうとしたところ、憲法裁判所の判決により選挙無効の判決を下された後に起こった。このような経過は、従来のクーデタには見られなかったパターンである。

また大学講師がオンブズマン(2006年は国会オンブズマン,2014年は国家オンブズマン)に対して選挙無効の訴えを提起し、オンブズマンが憲法裁判所に提訴したという点も共通している。つまり、個人がオンブズマンを通じて憲法裁判所に訴えることを可能にした独立機関の制度設計が、2006年および2014年のクーデタを招いたともいえる。

背後には何があるのか?

では、一連の動きの背後にあるものは何であろうか。軍は自らの利益のためにクーデタを行ったのだろうか? これらの問いに対して明確な答えを出すことは難しい。なぜなら、決定的な証拠が無く、また全ての勢力が連動して動いていたのか否かも不明だからである。

答えのヒントを探すため、1990年代の政治改革運動について振り返ってみたい。

政治改革運動は、政治の浄化のための運動であったと言われている。この点は間違いではないと思われる。しかし、タイ政治研究者のダンカン・マッカルゴは視点を変えて、興味深い指摘をしている。彼は、政治改革運動とは、将来の王位継承時に起こりうる社会の不安定化を予防することを目的とした動きでもあったと述べている。また、1990年代以降、王室を中心とする王党派(ネットワーク・モナーキー)の政治的影響力が落ちてきたことが背景にあるとも指摘している[*9]。

[*9] McCargo, Duncan. 1998. Alternative Meanings of Political Reform in Contemporary Thailand.The Copenhagen Journal of Asian Studies, Vol.13・98, pp. 5-30 McCargo, Duncan. 2005. Network Monarchy and Legitimacy Crises in Thailand,The Pacific Review, Vol. 18, No. 4, 499-519

マッカルゴの指摘が正しいと仮定して、2006年および2014年の軍の動きについても、平穏な王位継承を目的としたものであったと理解することは一定の説得力を持つようにも見える。

タイでは、2006年以降、保守派または王室派とされる「黄」と一般にタックシン派とされる「赤」の大規模デモによる衝突が繰り返されてきた。そして対立の中に王室が巻き込まれてきた。実際のところ、王党派が「黄」の後援者であるといえるのか、王位継承をめぐって皇太子派と王女派との間で存在すると噂される派閥争いがどの程度のものなのか、真相は不明である。しかし、「黄」と「赤」の対立に王室が巻き込まれることは、平穏な王位継承にとっては明らかにマイナスであろう。前述したように、今回のクーデタの特徴の1つが、非常に厳しい情報統制である。つまり「黄」であろうが「赤」であろうが、とにかく大衆を黙らせること自体が最大の目的であったのではないだろうか。

今後の展開

新憲法の制定過程を見ると、NCPOが憲法草案を否決した場合、起草プロセスを最初からやり直すように定められている。新憲法の制定までは長い道のりとなりそうである。また、新憲法が制定されないということは、総選挙も実施されないことを意味する。来年の総選挙は、実施されない可能性が高いかもしれない。暫定政権は、長期支配の構えである。国民の中で「黄」と「赤」の対立に関する記憶が薄れるまで、政権を維持するつもりなのかもしれない。

新憲法の内容について争点となるのは、(1)再び非民選首相を認めるか、(2)上院を全てに任命制に戻すか、(3)今回のような四面楚歌の状態になった場合に、上院が暫定首相を任命することを可能とするか、以上3点だと思われる。

では、タイ民主化の未来は暗いのであろうか? 民主化の流れは逆行を始めるのだろうか? これらの答えは「ノー」だと思われる。タイ人の研究者たちの中には、現政権による支配が5年以上続くかもしれない、場合によっては8年ぐらい続くのではないかと予想する者もいる。しかし実際には、そのような長期間に渡り支配を維持することは困難であろう。何故なら「黄」であれ「赤」であれ、政治の主役は大衆に移ってきているからである。「黄」は、汚職は許されないという自らの理念に基づき「汚職まみれ」のタックシン一派を認めない。「赤」は、選挙に基づく民主主義の意味を知り、民主主義を守ろうとし自らの意思で戦ってきた。2014年、タイで再びクーデタが起こり、軍が先祖帰りのようにも見える強権的な支配を始めた。しかし、これらも含めて、タイは民主化への生みの苦しみを味わっているのであろう。

サムネイル「Thai-coup-detat-2014-social-media-banner.jpg」Pratyeka

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プロフィール

外山文子タイ政治、比較政治学

筑波大学人文社会系准教授、京都大学東南アジア地域研究研究所連携准教授。京都大学博士(地域研究)専門はタイ政治、比較政治学。早稲田大学政治経済学部卒政治学科卒、公務員を経て、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了(2013年)。主な論文に、「タイ立憲君主制とは何か―副署からの一考察」『年報 タイ研究』第16号、PP.61-80、日本タイ学会、2016年、「タイにおける体制変動―憲法、司法、クーデタに焦点をあてて」『体制転換/非転換の比較政治(日本比較政治学会年報第16号)』ミネルヴァ書房、PP. 155-178、2014年、「タイにおける汚職の創造:法規定を政治家批判」『東南アジア研究』51巻1号、PP. 109-138、京都大学東南アジア研究所、2013年など。

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