偽証との向き合い方、修正主義の受け止め方――ホロコーストと比較して

ドイツはどう対応してきたか

 

負の歴史に関する虚偽の語りはさまざまな社会背景の中から生まれてくる。では、こうした偽証やそれに基づく詐欺に対して、ドイツはどのように向き合ってきたのだろうか。

 

まず、ドイツでは主に刑事罰に問われるべき人間による偽証の問題が取り組まれてきたという点を確認しておく。これに対し、犠牲者の側の偽証や詐欺は問題化する数自体少ないこともあり、世論が過剰反応を示すことはほとんどなかった。

 

例外が1952年の「アウアーバッハ事件」で、これはバイエルン州でナチ被害者の補償局長官であったホロコースト生存者アウアーバッハが、補償金横領・恐喝・学歴詐称等で起訴され、冤罪を主張した被告が、有罪判決の下った夜に獄中自殺したというものだ。この際にはバイエルンの政治、司法、メディアまでもが一大反アウアーバッハ陣営を形成し、社会からナチ勢力の除去がまだ進んでいないことを印象付けた。後に一部不当判決があったとしてアウアーバッハの名誉回復がなされており、ドイツが戦後民主主義へと移行する過渡期におこった事件と位置づけることができる。

 

また先述の「ユダヤ人請求会議」職員による詐欺事件においても、市民の反応はごく冷静で、犯罪を犯罪として断罪する以上の論調は見られず、ましてや補償の意義に対する疑念が呈されることもなかった。そこには当然、加害者側が犠牲者側を非難するのは気が引けるというタブー意識もあっただろうが、むしろ偽証や詐欺はおこるものであるという、現実的な認識があったようだ。

 

第一、補償事由の発生から時間が経過すると記憶もあいまいになるうえ、物証がなくなる。しかし逆に歴史研究の進展より専門的な知識が誰にでも入手可能になると、補償金詐取の余地は拡大する。請求会議職員の詐欺事件は、まさにこうした状況の産物である。では、発生が予測される偽証や詐欺に加害国としてはどのように対応するかだが、加害者側が犠牲者側の行為に対して価値判断を下すのはかなりセンシティブな問題である。厳しく臨めば批判を受けるが、全く看過するわけにもいかない。

 

ドイツは長い補償の歴史で試行錯誤を繰り返してきた経験から、こうした問題をうまくやり過ごす術を身に着けたように見える。それは、国家として補償は行うが、犠牲者を代弁する団体(もしくは国家)に対して補償を支払った後は、その分配や使途については相手側に任せ、口を出さないという姿勢である。

 

例えば、2000年に強制労働の補償のために『記憶・責任・未来』財団が設立され、官民合わせて100億マルクが拠出されたが、補償申請の審査や補償金の分配には、財団は直接に関与していない。こうした実務はポーランドやウクライナなど犠牲者の居住国のパートナー機関に一任されていた。したがって虚偽申請や、補償金配分をめぐる犠牲者同士の対立という予測可能な事態に対応したのも現地の機関であった。結果として、申請が却下された人や補償が十分でなかった人の不満は、財団よりむしろ現地機関に向けられ、ドイツは犠牲者との摩擦とそれに伴うイメージダウンを避けることができた。

 

もちろん、偽証や補償金詐取の問題を回避するためだけにこういったシステムが採用されたわけではない。それでも相手国もしくは犠牲者団体に迅速に補償金を払い込むことにより国際的な批判をかわし、ドイツの対外評価を高めるという点では賢明なやり方といえる。

 

 

懸念すべきは、日本の反知性主義

 

では、吉田証言をめぐって朝日新聞を非難する世論が、欧米において冷ややかに受け止められているのはなぜだろう。

 

それは、個人による偽証の一つや二つをもって歴史的事実の存在自体を否定もしくは矮小化しようとする主張は、修正主義(Revisionism)と見なされるためである。かつて「ホロコースト否定論者」と呼ばれる人々が、ホロコーストにおける死者数を意図的に小さく見積もって論争が起こることがたびたびあった。もちろん修正主義にもレベルがあり、極右サークルなどで支持される単純な否定論から、学術の装いをまとい、あたかももう一つの「解釈」を提起しているように見せかけつつ、本当の意図は史実の否定にあるものまでさまざまである。

 

修正主義の特徴は、犠牲者の証言や歴史記述の不整合を逐一あげつらい、自分の主張に都合の良い事実だけ選び出して拡大解釈し、逆に自分に都合の悪い史実の山を無視することにある。こうした行為は、死者や生存者の尊厳を踏みにじる悪意あるものとして断罪される。ホロコースト否定や矮小化を法律で禁止する国においては、犯罪となる場合もある。

 

ただし修正主義を拒否する欧米共通の基盤も、一夜にして成ったわけではない。その分水嶺とされるのが、いわゆる「アーヴィング裁判」である。ホロコーストにおけるヒトラーの役割を意図的に過小評価する英国の著述家ディヴィット・アーヴィングが、彼を修正主義者として批判する歴史家を1996年に名誉棄損で訴えた事件だ。

 

この裁判においてホロコースト研究の世界的権威として知られる歴史家数名により報告書が提出され、結果として司法の場でユダヤ人虐殺の「事実認定」がなされることとなった。2000年に判決が出され、アーヴィングは敗訴し、巨額の裁判費用の支払いを命じられた。これにより、修正主義的主張を公の場で行うことの政治的リスクのみならず、その金銭的リスクまでが認識されるにいたった。

 

現在では、修正主義は相手にする価値もないというのが欧米の常識である。特定の意図に基づいてなされる非歴史的な主張を「論破」するために、学術の立場から証拠を提示してゆくこと自体、不毛だという理解からである。

 

つまり、慰安婦に関する問題で欧米が警戒する一つの理由は、東アジアの政治不安定化への懸念と並んで、現在の日本の世論に修正主義的傾向が色濃く漂うためである。朝日新聞の慰安婦報道も、吉田証言だけを根拠になされたわけではないのは言うまでもない。歴史研究、聞き取り調査、裁判などの総体の中から形成されてきたはずだ。偽証という一点から歴史全体を切り崩そうとする手法は、修正主義のそれと同じに見える。

 

歴史解釈とは、長年の研究の積み重ねによって確立するものであり、一人の偽証によって無に帰すことなどありえない。特定の偽証を理由に歴史全体を否定する者があるとしたら、それは学術に対する冒涜である。史料の山に何十年も向かって得られた知見と、そうしたものを手に取ったこともない人たちの個人的な見解が、同じ土俵でたたかわされることを許している現在の日本の知的貧弱、いわば反知性主義こそ、最も懸念すべきものだ。

 

したがって修正主義に近いと見なされる主張が社会で増殖するのを放置していると、それこそ日本の国益に関わる問題になるだろう。いつまでも反省しない国という、欧米諸国の先入観はまさに「証明」されるどころか、学術研究に基づく歴史解釈と、修正主義の区別もできないとして、日本人の見識自体に疑問符がつけられる。さらにこうした修正主義的風潮から明確に距離を取らない政治家は、危険だと見なされるだろう。

 

そもそも、特定個人による偽証を大手メディアが報道してきたという事実は、慰安婦問題においては本質的な点ではない。慰安婦報道により「失われた」日本の「名誉」を取り戻すという言い方がよくされるが、実際、欧米でこれを国家の名誉の問題だと捉える人はほとんどいないだろう。先の大戦で甚大な性暴力を受けた女性がおり、彼女らへの補償が十分ではないという点が問題なのであり、個人の救済が焦点となっている。

 

ここで国家的名誉の回復という、いわば19世紀の国民国家論に見られたような情念が議論をけん引していること自体、ある意味で特殊「日本的」な状況と言える。欧米諸国家はおおよそ日本の名誉には関心がないし、日本で名誉が問題になっていること自体、認識されていないだろう。第一、「名誉」というものがそれを認知し承認する他者の存在なしでは成立しないことを思うと、これはいったい誰に向けられたものなのか。

 

吉田証言を引用するクマラスワミ報告が修正されない[*1]、韓国系米国人のロビー活動に効果的に対抗できないのだとすると、これはむしろ日本の外交力の欠如やPRの仕方に問題があるのではないか。もちろん、外交関係者は十分に努力していると答えるだろうし、アジア女性基金などもっと評価されてよいものが過小評価されている事実もある。それでも非難が続くのだとすると、これは単に、日本が常に遅きに失してきたからではないのか。

 

戦時・平時を問わず、女性に対する性暴力が深刻な人権侵害であるという認識があれば、戦後アジアの政治的諸状況を勘案したとしても、より早い段階で補償措置が可能だったと思われる。そしてそれはさまざまな意味で予防措置になり得ただろう。終戦からもうすぐ70年になろうという現在においては、こうした主張自体、遅きに失する。ダメージコントロールは、時間が経過した後では効果がないのだ。

 

[*1] http://www.yomiuri.co.jp/politics/20141015-OYT1T50139.html?from=ytop_main1

 

サムネイル「Flash Point」JD Hancock

https://flic.kr/p/7yELUH

 

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