2015.03.24

地中に残された物的痕跡から明らかにする歴史――南米先史時代の多民族社会「シカン」の繁栄と衰退の謎

松本剛 南イリノイ大学考古学調査センター

国際 #考古学#南米先史時代

青銅器時代の無文字社会

日本から見て地球の裏側に位置する南アメリカの人々は、通説ではシベリア一帯に起源を持ち、約5~1万年前にベーリング海峡から新大陸に渡ったと考えられています。同じくモンゴロイドの血を引くという意味で我々と共通点がありますが、文化的には色々な面で異なります。

たとえば、彼らは16世紀にスペイン人がやって来るまで文字を知りませんでした。文字の他にも、旧大陸で文明の礎となった鉄器や車輪、活版印刷といった技術を一切持ちませんでした。16世紀の前半(日本でいえば戦国時代真っ只中!)にインカ帝国がスペイン人たちに征服されるまで、南米の人々は青銅器時代を生きていたのです。

この地域や時代について、現在日本で使われている世界史の教科書にはあまりにも記述が少ないので、多くの方々が世界遺産で有名なマチュ・ピチュのことくらいしか知らないのも無理はありません。私はそんな南米の先史社会について研究している考古学者です。

私の専門は、インカ帝国よりも約500年前、現代の私たちからすれば約1000年前にペルーの北部海岸・ランバイェケ地方で栄えたシカンと呼ばれる社会と、当時の人々が担った文化についての研究です。日本がそうであるように、他の地域や時代では、考古学調査といえども同時代に残された文字記録(木簡や石碑の碑文など)に頼れるケースが多いのですが、無文字社会の彼らについて知るには、地中に残された物的痕跡から「読み取る」他に術がありません。これはとても困難な仕事ですが、それがこの地の考古学研究の醍醐味と言えます。

ペルーの海岸地域
ペルーの海岸地域
シカン美術を代表する金属製品(金属製品)
シカン美術を代表する金属製品(金属製品)
シカン美術を代表する工芸品(黒色単頸壺)
シカン美術を代表する工芸品(黒色単頸壺)
ペルー北海岸ランバイェケ地方
ペルー北海岸ランバイェケ地方

唯一記録された口頭伝承:ナイムラップ伝説

“ランバイェケの人々は、数えられないほどの大昔に、このピルーの北からバルサ筏の大船団でやってきたと言われる。その首長で、ナイムラップと呼ばれる、偉大な勇気と優れた資質に恵まれた男は、たくさんの妾やセテルニと呼ばれる正妻、続いてやってきた船長や統領たちなど、多くの人々を引き連れてきた。とりわけ高貴な40名の家臣たちの中には、大きなほら貝を吹くピタ・ソフィや、首長の御輿や腰掛の世話をするニナコラ、首長の飲み物を瓶で運ぶニナヒントゥエ、首長が歩くところに貝殻の粉を撒く役目を持ったフォンガ、料理人のオクチョカロ、聖油や首長の顔に塗る顔料を扱うシャム・ムチェク、首長を風呂に入れるオリョプコポク、羽で出来た装身具などを扱う係りの者、リャプチルリと呼ばれる首長の息子などがおり、(首長のナイムラップは)これらの役割を持った人々に加えて、その他にも多くの着飾った権威ある人々を連れてやってきた。”『Miscelánea Antárctica (1586) 』ミゲル・カベヨ・バルボア

この一節は、エクアドルのキートで司祭の地位にあったミゲル・カベヨ・バルボアが、1582年にペルー北海岸のヘケテペケ川下流域・グアダルーペにて現地の人々から聞き知った、古くから伝わる口頭伝承です。

ちなみにグアダルーペは、シカンの中心地があったと考えられているラ・レチェ川中流域・ポマ地区から南東へ約90キロのところに位置する町です。この口頭伝承は「ナイムラップ(またはナイランプ、ニャインラップ、ニャイランプ)伝説」と呼ばれ、シカンを語る際にしばしば引き合いに出されます。冒頭の一節はさらに以下のように続きます。

“すべての財産とともに、ナイムラップは今日「ファキスヤンガ」と呼ばれる川の河口に上陸し、そこに港を築いた。乗ってきたバルサ筏をそこに放棄して、彼らは定住地を求めて内陸へと進んだ。そして半リーグほど内陸に入ったところに宮殿を築き、「チョトゥ」と名付けた。この宮殿で彼らは携えてきた偶像を、野蛮な献身をもって崇拝した。ナイムラップに似せて緑色の石から作られたこの偶像を彼らはヤンパイェックと呼んだ。これはナイムラップの生き写しであった。

以降、長年にわたって人々は平穏に暮らし、ナイムラップは多くの子宝に恵まれた。ナイムラップの死期を悟った側近たちは、偉大なる首長も死を免れることはできなかったと家臣たちに悟らせるべきではないとし、ナイムラップの遺骸を宮殿内の彼の自室に秘密裏に埋葬し、一方で広く一般には「首長は翼を得て飛び去った」と告示した。”

ナイムラップ上陸のシーンを再現したもの(チャンチャン遺跡)
ナイムラップ上陸のシーンを再現したもの(チャンチャン遺跡)

考古学者の中には、この記述を史実とみなし、考古学的解釈の土台とする者が少なくありません。つまり、ナイムラップは実在の人物であり、ランバイェケ王朝(=シカン)を築いた。そして、シカン美術の品々に頻繁に描かれる人物像はそのナイムラップを模したものであるとする考え方です。しかし、後の研究でシカンが興ったのは紀元後850~950年あたりだと分かりましたから、この伝説との間には少なくとも半千年紀もの時間的隔たりがあることになります。

ナイムラップ伝説を史実と信じる研究者たちは、ランバイェケ川(“ファキスヤンガ川”?)下流に位置するチョトゥーナ遺跡もしくはその近隣のチョルナンカップ遺跡が、ナイムラップが宮殿を築いた「チョトゥ」ではないかという推測のもと、両遺跡において発掘調査を行いました。ハインリッヒ・シュリーマンのトロイ遺跡の発掘を思わせるこの試みは、多くの考古学者たちの興味を引きました。

チョトーゥナ遺跡
チョトーゥナ遺跡

カルロス・ウェステル率いる国立ブルューニング博物館の調査隊は2006~2009年の発掘で、貴族の宮殿らしき建築物を発見しました。王座とみられるものも完全な保存状態で見つかりました。ところがナショナル・ジオグラフィックは「ナイムラップの子孫と考えられる貴族の宮殿が見つかった」と報じます。

これは、発掘区から見つかった物的痕跡はほとんどすべてがシカン後期か、さらに後の時代を示すものであったためです。33人の女性の生贄を埋葬した墓は見つかりましたが、「宮殿内の自室に埋葬された」とされるナイムラップの遺体も、緑石製のヤンパイェック像も見つかりませんでした。結局、期待されたナイムラップ伝説とシカンとの間のミッシングリンクを考古学的に証明することはできなかったのです。

ナショナル・ジオグラフィックによる報道
ナショナル・ジオグラフィックによる報道

 

やはり物的痕跡に頼るしかない

伝説の中の記述には確かに考古学データと一致する部分もあります。たとえばナイムラップを模したと考えられている人物像はしばしば、羽やくちばし、爪といった猛禽類の特徴を伴って描かれ、これはナイムラップが「翼を得て飛び去った」という記述と一致しています。伝説を構成する概念要素が当地に存在したことは間違いないでしょう。

しかし、それらが特定の時代のみに言及しているかどうかは定かではありません。異なる時代のエピソードが混同されて語られることもあったでしょう。そもそも文字のない社会で500年以上もかけて、ある史実を変化させることなく語り継ぐことなど可能なのでしょうか。伝言ゲームがゲームとして成立するのは、たった数人を介するだけで元のメッセージが大きく変化してしまうことにあります。私自身は、ナイムラップ伝説に限らず、こうした口頭伝承の内容を無批判に史実と捉えるのは少々ナイーヴすぎると考えています。

(左:儀礼用ナイフ・トゥミ/右:織物のデザイン)
(左:儀礼用ナイフ・トゥミ/右:織物のデザイン)

口頭伝承をもとに先史時代の様相を明らかにするという試みが失敗に終わった今、研究者たちは至って考古学らしい結論に至ります――やはり物的痕跡に頼るしかない。私の指導教官である島田泉(南イリノイ大学人類学科教授)は、上記のアプローチとは明確な距離を置き、純粋に考古学データに頼る研究方法を追求してきました。彼の過去37年間の研究がシカン研究の重要な土台となりました。

シカンを「シカン」(古代ムチック語で「月の神殿」の意)と名付けたのも彼です。もともとは「エテン」や「ランバイェケ」、「タヤン」といった異なる地域名で呼ばれたり、関連遺物が後の文化のものと混同され、「チムー」や「インカ」の名で呼ばれることもありました。こうした混乱に終止符を打つために、シカンの中心地を指す古い地名にちなんで名付けられました。私は1998年から、島田教授の学生としてシカン研究に携わってきました。

考古学データを通して見えてきた多民族社会としての側面

シカンの支配地域における大規模な踏査と居住パターンの記録によって、シカンの中心地がラ・レチェ川中流域・ポマ地区にあり、四つの河川流域が縦横に張り巡らされた灌漑用水路によって一つの大きな川谷複合として結ばれていることが分かりました。

ペルーの海岸地域において最大の農地を誇る北部海岸・ランバイェケ地方での灌漑農業は、シカンに強固な経済基盤を与えただけでなく、高度な冶金技術の発達による合金製品の大規模生産や、遠距離交易による覇権の拡大も可能にしました。ナイペと呼ばれる青銅製の原始貨幣のようなものが大量に作られ、交易に使われたと考えられています。対価に得られた金や貴石、その他の自然資源は、高価な装飾品の生産などに消費されました。

原始貨幣の一種と考えられている「ナイペ」の束
原始貨幣の一種と考えられている「ナイペ」の束

また、シカンは複数の異なる集団からなる多民族社会であったようです。これは、遺伝的に異なる人々の遺体が、異なる様式で埋葬され、デザインの異なる副葬品とともに見つかることなどから明らかになりました。一方で武器や要塞遺跡、戦闘による外傷をともなった遺体などが一切見つかっていないことから、ほとんど武力衝突のない社会であったことが推察されます。

多民族社会であることを示唆する遺伝距離情報
多民族社会であることを示唆する遺伝距離情報

私の研究テーマのひとつは、このような多民族社会がどのようにして繁栄と調和を維持していたのかを明らかにすることです。これは現代を生きる私たちにとっても重要な問いであると言えます。博士論文のための調査では、首都の中心地で定期的に宴を開いた痕跡が見つかりました。社会的地位や文化的アイデンティティの異なる人々が招かれ、高価なシカ肉やトウモロコシのビールなどでもてなされたことがわかりました。ただしこの時の発掘区はとても小さく、より広い範囲を発掘してみなければ、どのようなことが行われていたのか詳しいことは分かりません。

トウモロコシから作った酒(チチャ)の存在を示す澱粉粒分析の結果
トウモロコシから作った酒(チチャ)の存在を示す澱粉粒分析の結果

そして、もうひとつの研究テーマが、シカン衰退の経緯を明らかにすることです。一時は隆盛を誇ったシカンも、その繁栄は950年から約150年ほどしか続きませんでした。1020年頃から30年に渡って続いた大干ばつと、それに続いて1050年から1100年の間に起こった「メガ・エルニーニョ」と呼ばれる凄まじい気象変動を機に衰退の兆しを見せます。

豪雨や洪水によって住居や農地が破壊されたまま放棄されたり、これと機を同じくして、それまで信仰されていた「シカン神」の偶像崇拝がなくなったり、首都の主要ピラミッドが燃やされたり、といった興味深い物的痕跡が記録されています。私は新たな発掘調査によってより多くの物的証拠を集め、その分析を通じて、どのようにしてシカンの政治や宗教が力を失っていったのかを明らかにしたいと思っています。

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神殿西側麓の墓地発掘(2006年・シカン考古学プロジェクト/団長:島田泉)
神殿西側麓の墓地発掘(2006年・シカン考古学プロジェクト/団長:島田泉)

 

クラウドファンディングによる研究資金獲得への挑戦

これらの問いを明らかにするため、私は現在、シカンを支配していた貴族たちのピラミッドが囲むようにして作られたスペース、通称「大広場」の発掘を計画中です。首都の中心に位置し、複数の貴族家系をつなぐこの大広場では、さまざまな人々を招いて、宗教や政治にかかわるイベントが行われてきました。発掘区を拡大することによって、多民族社会における共存のためのヒントや、シカンの繁栄や衰退の歴史を明らかにするための痕跡が見つかる可能性が非常に高いのです。

過去の発掘区と発掘予定区域
過去の発掘区と発掘予定区域

現在私は、クラウドファンディングサイト「アカデミスト」のご協力を得て、インターネットを通じて不特定多数のサポーターからこの発掘のための研究資金を募るという挑戦をしています。関心を共有して頂ける方々からのご支援をお待ちしております。

■「南米先史社会「シカン」の発展と衰退の謎を解明したい」

ぜひご覧ください!⇒ https://academist-cf.com/projects/12/matsumoto

プロフィール

松本剛南イリノイ大学考古学調査センター

南イリノイ大学考古学調査センターのポスドク研究員。人類学博士。ハーバード大学ダンバートンオークス研究所ジュニアフェロー、南イリノイ大学非常勤講師などを経て、現職。南米アンデスの先史時代が専門。これまで、宗教やイデオロギーが社会の成立・発展・衰退のプロセスにおいて果たす役割を明らかにすべく、ペルー海岸地帯の祭祀遺跡での調査に従事。博士論文プロジェクトでは、多民族社会「シカン」の祖先崇拝信仰と関連儀礼を物的痕跡から復元し、その意味の解明を試みた。

過去の発表論文http://siu.academia.edu/GoMatsumoto

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