1915年事件の「現実」――「ジェノサイド」と言おうが言うまいが

このような悲劇は、100年前我々の国で、我々の土地で、我々のそばで、我々の内部で起きた。オバマ大統領やほかの誰かがどのような言葉を使おうと使うまいと、我々にとって「歴史と向き合う」義務がなくなるわけではない。

 

オバマ大統領は今回、1915年事件の100周年で「ジェノサイド」と言うだろうか、言わないだろうか。

 

仮に言わなかったとしても、1915年に何が起きたか、何が起きなかったかの事実は変わるだろうか?アメリカ政府筋は、「ジェノサイド」と言わずに再び「メッツ・イェグヘレン」つまり(アルメニア語で)「大きな悲劇」という言葉を使うとしている。トルコの所管大臣もオバマ大統領が「ジェサイド」という言葉を使うと予想していない。「予想であり、合理的に考え至った私見では、アメリカ大統領がこの表現を使わない方向でいる。用いられた場合、このような表現がもたらす結果が地域と世界の平和のために誤った結果となると考えている」と述べた。

 

なぜ、「地域と世界平和のために誤った結果」となるのか?これはどういう意味か?

 

恐らく、トルコはアメリカに対してそういった反応を見せるだろう。アメリカと協力する分野の活動を放棄し、アメリカの国益と国際益はこの対応から被害を被る、といった要求をアメリカに突きつける。そうすれば、オバマ氏は、全てのこれらを計算にいれて、「トルコ人を怒らせると、彼らは私に不利益となることをするだろう。どうすればいいか。以前言ったように、「メッツイェグヘルン」といって対処しよう」とし、「ジェノサイド」の言葉を使わない。

 

この状況で、オバマがこう振舞うことは「1915年の事実」に関心がないということが暗に認めたということになる。このように振る舞って、オバマはアンカラ政府の「恐喝」を考慮せず、「現実的政策」の必要性を尊重したことになるであろう。

 

オバマが個人として、1915年の事件を「ジェノサイド」として見ることには問題はない。 なぜならオバマは、トルコ政府の「ジェノサイドの否定」が正しいとは信じていないからだ。我々はそのことを、彼が2008年のアメリカ大統領選挙の候補であった時の声明から知っている。

 

彼はなんと言っていたか?

 

「大統領として、アルメニア虐殺を認定する」このように表現した。大統領に就任してからは、この表現を用いることを避けた。ニューヨーク・タイムズ は「トルコの意図的な忘れたふり」という見出しで、オバマのこの件に関する態度に注目し、「アメリカは否定的な態度へ(もう)目をつぶるべきではないのだ。オバマも自ら、前任者同様、重要なNATOのメンバーを失望させることを避けた。トルコと良い関係を守ることは重要だ。しかし、少なくともアメリカは、ヨーロッパとフランシス教皇の側につきつつ、トルコにとって最大の脅威が、誰が「ジェノサイド」の言葉を用いるかではなく、100年前に起きたことを認めることを拒むことであることを、エルドアン大統領に明白に説明するべきである」と書いていた。

 

つまり、オバマの「ジェノサイド」という言葉を使うか使わないかは、この100周年で彼自身の政治的モラルの基準によるものなのだ。オバマの選ぶ言葉は、100年前に起きた事実を覆すものではない。

 

その事実を、オバマも知っている。したがって「大きな悲劇」という言葉を使っている。「ジェノサイド」と彼が言わないことは、トルコとアメリカの中東政策で「その表現を用いた」ことを考慮に入れた「現実的政策」の必要性によってである。その歴史的事実に彼も気づいている。【次ページにつづく】

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.279 

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