ヨーロッパ社民の対抗戦略  

「極右」の台頭

 

個人化の不安にもっとも適応的なのは、極右勢力である。そうした意味では、ヨーロッパの極右政党は復古主義ではなく、むしろ時代精神を体現する政治勢力でもある。そして極右の台頭にともない、従来の保守政党も右傾化せざるをえない。

 

ミリバンド労働党誕生とほぼ同じタイミングで、しかしまったく異なる意味でヨーロッパ各国を唖然とさせたのは、スウェーデンの選挙結果だった。この選挙で、中道右派・穏健党を中心とする連合が勝利すると同時に、同国ではじめて極右政党(スウェーデン民主党)が議席を獲得したのだ。

 

ちなみに戦後のスウェーデン・モデルをつくり上げてきた社民労働党は、史上初めて二回連続で総選挙に敗北、しかも史上最低の得票率に甘んじる結果となった。デンマークもまた、極右・国民党の閣外協力なしに、議会での安定多数を確保できない状況に追い込まれている。

 

その他フランス、イタリア、ハンガリー、オランダ、ノルウェー、ベルギー、スイスといった国々において、極右政党は無視できない政治勢力として定着している。

 

こうしたなか、最近では、フランスのサルコジ政権は不法占拠するロマ人の追放に着手した。また、オランダでは選挙の結果、自由民主国民党(VVD)と労働党(PVDA)による連立政権は、極右政党・自由党(PVV)の閣外協力に支えられることになり、フランスと同様、イスラム女性のブルカ(スカーフ)禁止法案を成立させようとしている。

 

かくして、極右政党の台頭は、その支持者の不満を和らげるために、既存保守政党の右傾化をうながす。だが他方で、彼らを政権から締め出すために不自然な連合政治を行わざるをえないことで、支持者の不満をさらに高めるという、悪循環を生み出すようにもなっている。

 

「議会勢力となった極右は、他の政党の行動と発言を変化させるようになった」のである( Denis Macshane,Rise of the Right,Newsweek,september 24,2010.執筆者は英労働党政権の元大臣)。

 

 

「恐怖の社民主義」

 

こうした状況に対して、社民政党をはじめとする左派政党は、極右台頭の原動力となっている移民政策やセキュリティ政策で譲歩を重ねることで、多くの場合、労働者や年金生活者である極右支持層を懐柔しようとする。だがそのことで、今度は既存の都市中間層の支持を失い、他方で極右の勢いも削がれないというディレンマに直面している。

 

左派はどうしても、移民政策やセキュリティや社会保障に対して、確固とした方針を打ち出しにくい。というのも、先に、指摘したように「生産関係を基盤にした政治における改革主義」を基盤にするかぎり、思考枠組みは「個人」を単位とするのではなく、むしろその個人が活きる社会的リスクや社会問題に支配されるからである。

 

要するに、左派の場合は、個人の不安や苦境の背後には、つねに「格差」や「不平等」といった「ソーシャルな問題」がつきまとい、それがゆえに社会改革を行わなければならない、というロジックをとる。新自由主義による「個人主義を基盤にした自由市場主義」を潜り抜けた21世紀の保守主義の方が、個人主義の定着と移民政策/セキュリティ問題に対応しやすいのだ。

 

さらにリーマン・ショックによって、政権についていた保守政党は、もともと左派のお家芸だった公共支出と需要喚起策を採用することになった。その結果、それまでの経済的なネオ・リベラリズム的政策と袂を分かち、経済政策においては社民政党と変わらないようになった。

 

残存した文化的なネオ・リベラリズムを梃子とした右派のヘゲモニーが、こうして完成することになったのである。

 

先に逝去した歴史家トニー・ジャットは、常連だった「ニューヨーク・レビュー・オヴ・ブックス」のコラムで、ネオリベ時代によって「良いか悪いか」が「効率的か否か」によって駆逐されたと指摘しつつ、もはや「楽観的な進歩主義」ではなく「恐怖」にもとづく社民主義が構築されなければならない、と述べたことがある。

 

「恐怖の社民主義(Social Democracy of Fear)」とは、シュクラーの「恐怖のリベラリズム(Liberalism of Fear)」の転用(大川正彦訳、『現代思想』01年6月号)だが、ともに「恐怖」こそが悪であるとの政治的確信から生まれる。違いといえば、後者(リベラリズム)が圧制に対する恐怖に、前者(社民主義)は「ソーシャルなもの」の解体の恐怖に、それぞれ力点が置かれるところにある。トニー・ジャネットの文章を引用しよう。

 

 

左派には、簡単にいって、まだ維持すべきものがある。右派は、普遍的なプロジェクトの名のもとに、破壊と革新を行う野心的な近代主義を受け継いだ。スタイルにおいても、野心においても、より控えめ目な特徴をもつ社民は、過去に獲得してきた利得についてもっと声高に主張すべきである。社会的サービス国家の発展、われわれの共同意識と目的の共有を可能にせしめてきた、世紀をかけてつくられた公共部門によって提供されてきた公共財やサービス、受給する権利と提供する義務を定めてきた制度としての社会保障など、である。これらは、すべて獲得されてきたものなのだ。(What is Living and What is Dead in Social Democracy, in The New York Review of Books,December 17, 2009)

 

 

しかし、このジャットの処方箋は、「ソーシャルなもの」そのものが解体しつつある現代において、リベラリズムが懸念した圧制に対する恐怖と同様に、どこか虚ろに響く。

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.272 

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