ヨーロッパ社民の対抗戦略  

「モジュラー」ゆえの不安

 

ジグムント・バウマンは、ネオリベ時代における世俗改革によって誕生した個人を、「モジュラー人間」と命名している。この個人は、環境が流動的であり絆が失われた世界に生きるがゆえに可変的な存在であり(「厳密ではなくアドホックな絆」)、孤独であると同時に自由である(「『全体的権力』の基礎となる『全体的個人』は存在しない」)。

 

したがって、こうした個人が織り成す社会では、「不決定、二律背反、矛盾」を「吸収し、再利用し、行動の手段として作り直すことさえできる」のである(中道寿一訳『政治の発見』)。ここに介在するのは、「恐怖」というよりは「不安」である。

 

こうしたバウマンの時代判断は、たしかに両義的である。彼は、ポスト・ネオリベ時代を個人の解放と自由が実現された時代であると同時に、個人が彼自身に投げ返されてしまっている孤独の時代でもあると評価する。

 

しかし、ややもすればこの「モジュラリティー」は、不安定性や危険性や安全性の欠如を招き寄せ、マルクスのいった「疎外」とは異なる次元に位置づけられる、新たな「不安」を個人に植えつける。

 

その結果生じるのは、もはや形式的に、あるいは短期的にしか存立し得ない「所属」を求める心性である。これが具体的には、極右政党支持につながるような「イスラマフォビア(イスラム嫌い)」となって表れる。

 

そして、この「自由」と「所属」は、文化的ネオリベと極右政党によって保証されるようになった。本来的には社民政党にとっての追い風になるはずの低成長の継続と失業率の上昇が、むしろ極右政党の伸長につながっている理由は、ここにある。

 

したがって、これに抵抗する戦略とはむしろ、自由と孤立をトレードオフのままにするのではなく、両者をいかに両立させるかにあるといえるだろう。

 

 

「ケア」と「近接」の社民

 

フランス社会党は、ヨーロッパ社民ファミリーのなかでも、きわめてラディカルな政党に分類される。

 

共産党やトロツキスト政党の支持者を吸収せねばならず、同時に選挙制度の特性から遠心的な競合を強いられ、これに長い野党経験が加わったことにより、どちらかといえば社会改革に力点をおいたグランド・デザインを重視する傾向をもった政党である。左派と保守との経済政策の差異が狭まるにつれて、ラディカルさはむしろ潜在的政権与党としての信頼性の低下につながり、2002年から野党の座に甘んじたままだ。

 

その社会党の女性党首のマルチーヌ・オブリーは、最近「ケア」の概念を同党の政治方針として採用することを提唱した。

 

「ケア(care)」は、もともとレーガン時代(すなわちネオリベ全盛時代)のアメリカで、心理学者キャロル・ギリガンが提唱した概念だ。彼女の代表作『もうひとつの声(In a different voice)』(1982年)は、女性は男性と異なり、「ケア」や「関係性」をもとにした倫理感をもつことを論証して、話題を呼んだ。

 

社会党はこの概念を政治的言語に翻訳し、「物質主義と個人主義」が支配する社会に対して、「社会が個人をケアすると同時に、個人が他者と社会をケアする相互ケアの精神」であると再定義した。

 

この方向性が成功するかどうかは未知数だが、ポスト・ネオリベ時代に定着した「自由」を保持しつつ、「孤立」とその反作用としての「所属」のポリティクスを回避する戦略といえるだろう。

 

繰り返しになるが、社会党がこうした「柔らかい」テーマとスローガンを採用するようになったのには、現代社会の根本的な変容がある。

 

フランスのもっとも注目すべき知識人のひとりであるロザンヴァロンは、選挙による代表性の凋落の著しいポスト・ネオリベ時代におけるデモクラシーは、「公平さ(impartialité)」「再帰性(reflexivité)」「近接さ(proximité)」を実現できなければ、正統性をもはや維持できないとしている(La Legitimité Démocratique,2008)。

 

喪失や崩壊の感覚がある一方で、再構築へと向かう静かな動きがある。(略)それは公平や複数性、共感や近接性といった価値に象徴される。これらは、民主主義に不可欠な全体概念、そして正統性の形式や結果に対する危機感の現れである。

 

ロザンヴァロンがここで強調しているのは、もはや代表制概念を通じたルソー的な一般意思は、現代の民主制では実現されえず、個人概念を軸とした民主制を再構成しなければ、民主制そのものが失われる、ということにある。

 

個人への「近接性」をベースにした民主制は、「身体的かつ精神的次元での立会い、関心、同調、共感」を体現するのであって、統治者と被統治者は「一体」となるのではなく、これらを通じた「対話」と「相互批判」によって、獲得されるべきものとしての民主主義の構築が必要だという。

 

70年代に中央労組のブレーンでもあった、このロザンヴァロンの構想は、革命や体制転換の展望が完全に失われるなか、少なくとも「生産関係」や「所属」を超え、そして新保守のヘゲモニーに対抗する民主主義のあり方を指し示している。

 

ロザンヴァロンの提言の奥底には、手間隙はかかるかもしれないが、民主主義のなかに生きる個別的でアドホックな個々人のライフコースに、政治と社会が丁寧に対応することでもってでしか、民主主義は新たな正統性と機能性を獲得しえない、という現状認識がある。どこかフェミニンで柔軟な色合いは、マッチョで頑なな政治と対照的だ。

 

「自由」を前提にして、そのまま「不安」や「所属」をベースにしたポスト・ネオリベ政治は、これらを原動力とするがゆえに、永遠に解を導き出せない。

 

そればかりか、相互不信と敵対の対象は、いつしか社会を構成するわたしたちに順番が回ってくるかもしれない。排除されるものと排除するものが相互に入れ替わるゲーム、すなわち永遠のババ抜きゲームは、破綻するのでなければ、社会という概念そのものを破壊することになるだろう。

 

こうした政治社会状況は、多くの先進国に共通したものだ。「新しい公共」や「友愛」といったテーゼが立ち消えとなった日本でも、ポスト・ネオリベの時代にどのようにして「ソーシャルなもの」を再構築すべきか、早急に議論に着手すべき段階に来ているように思う。

 

 

推薦図書

 

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トックヴィル研究者で、話題を呼んだ「希望学」のプロジェクトメンバーでもあった政治学者によるこの本は、「デモクラシーのみならず、およそ現代社会の特徴を捉えるために、〈私〉という視点が欠かせない」と冒頭で宣言する。「私」と「社会」の接点をどこで求め、どのように構築していったらよいかについての丁寧な思考の足跡でもある。

 

 

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