テントの入口に響く声――南スーダンでみた誘拐、民族紛争、武装解除のもう一つの顔

2013年末以降の南スーダン内戦において、あまり注目はされていないが、ディンカと戦わないという選択をしたヌエルの人びと、そしてヌエルと戦わないという選択をしたディンカの人びとがいた。ディンカの住民がマジョリティであるトゥィッチ・イースト(Twic East)という地域では、隣人であるヌエルに対しては、非攻撃的な態度が維持された。この態度は、一部のディンカ住民が、「ホワイト・アーミー(白軍)」と呼ばれるヌエルを中心として構成された武装集団(注)に殺害されるなど、彼らが攻撃に巻き込まれる中でも貫かれたという[International Crisis Group 2014]。

 

(注)ホワイト・アーミーの構造や機能については別稿を参照[橋本2014]。

 

また、先にあげたデュック地域の住民は、多くのヌエル出身者で構成される反政府側についたものの、隣人であるディンカに対しては武器をとらないことを宣言したという[International Crisis Group 2014: 29-30]。戦火が迫る中で、彼らは政治家同士の対立やそこから派生した「民族対立」よりも、自分たちの日々の暮らしに関わる隣人関係を維持することを優先したのだった。

 

もちろん、このように注意深く維持されている隣人関係も、政治家の思想や戦況の変化、それに伴う人びとの不安によって、途端に緊張を帯びたものになる。わたしのホスト・ファミリーが何よりも気にしていたのは、軍事・政治的な緊張が高まったり、その対立が「民族紛争」のかたちをとったりした際、隣人でなくともその他のディンカの住民が、ヌエルだという理由だけで自分たちを攻撃してこないかということであった。隣人のディンカの人びとと友好的な隣人関係を維持するために、ホスト・ファミリーは日常的にさまざまな実践を行っていた。

 

2011年と2012年の12月31日、ホームステイ先の集落では、歌や踊りと祈り、空に向けて乱射される銃の「祝砲」、そしてウシの供犠で新年を祝う儀式が行われた(注)。

 

(注)南スーダンの特に村落部では、新年を祝うために銃を空に向け連射することがある。この「祝砲」は、近年ではセキュリティ上の観点から禁止されている。供犠とは供物や動物などを神、神霊、精霊などに捧げる儀式のこと。

 

「祝砲」の音がようやく鳴りやみ、胸をなで下ろしてわたしがテントの外へ出ると、ウシの供犠が行われるところだった。その場にいたヌエルの人びととともに分配された肉を食べ終えると、一片のウシの前足が残されていることに気付いた。この前足はどうするのかと聞いたところ、「これは母方の祖先を共有する人たちにあげるんだよ」と教えてもらった。ヌエルの文化では、年齢や性別、出自によって食べることができるウシの肉の部位が異なっている。

 

その前足は、ディンカの隣人に配られた。ヌエルの人びとは、ディンカを「ニャデン」(デンの娘たち)、自分たちヌエルを「ニャトイ」(トイの娘たち)という愛称で呼ぶことがある。デンとトイは、同じ父親から生まれた姉妹であるとされている。それはつまり、自分たちヌエルとディンカが共通の祖先から生まれてきた娘であり、姉妹の関係にあたることを示している。

 

このように、少なくとも現在の内戦が始まる前には、ディンカの隣人のことをわたしの周囲のヌエルの人びとは共有の祖先を持つ「姉妹」として語り、実際にそのようにふるまっていた。内戦勃発後、ホスト・ファミリーとは連絡が取れていない。彼らの暮らしていた町では、内戦勃発後にはヌエル出身者の「虐殺」、そしてその報復としてのディンカ出身者の「虐殺」が行われたという。彼らが築いてきた隣人関係がどのように内戦下で機能したのか、それとも機能しなかったのか、今では想像することしかできない。

 

上述のように、「民族紛争」が展開しているその脇で、「普通の人びと」がほそぼそと維持しようとしてきたのは、顔の見える距離にいる人間とのつながりであった。わたしが出会った人びとは、政治家や軍隊の影響を受けつつも、いわゆる「民族対立」からは距離をとりつつ、隣人との良い関係を維持し、自分たちの生を安定したものにしようとしていた。

 

 

新年を祝うセレモニーの際に供犠されるウシ。夜通しウシのまわりに火をくべるのは、夜明けの供犠までウシの心を落ち着かせるためだという(2013年1月筆者撮影)

新年を祝うセレモニーの際に供犠されるウシ。夜通しウシのまわりに火をくべるのは、夜明けの供犠までウシの心を落ち着かせるためだという(2013年1月筆者撮影)

供犠されたウシを同じ年齢組に属する者たちとともに食べる。このような共食は、成員たちの間の強い絆をつくりだす(2012年1月筆者撮影)

供犠されたウシを同じ年齢組に属する者たちとともに食べる。このような共食は、成員たちの間の強い絆をつくりだす(2012年1月筆者撮影)

 

 

武装解除が引き起こした悲劇

 

わたしが南スーダンでの生活の中で強く感じたのは、政府や国際社会が想定する紛争の「解決」方法と、戦地に暮らす人びとにとっての「解決」との間に横たわるズレである。最後に、政府によって行われた武装解除の裏側で国家や国際社会からの偏見や無関心に苦しんでいた人びとの姿を取り上げたい。

 

「自分の兄弟・友人にすら銃を向けて戦った。自分の銃を、なんとしてでも守らなければならなかった。」

 

2006年に行われた武装解除を経験した年配男性は、わたしに当時の苦しみをこのように語った。この武装解除では、前述のホワイト・アーミーの成員およそ1200名を含む2000名以上の犠牲者を出すことになった[Young 2007: 25-27]。なかにはこの男性のように、銃を没収しに来た兵士や警察が自分の身内や友人であったというケースもあった。市民から銃火器を没収する武装解除は、一見すると紛争の抑止や紛争解決にとって効果的かのように思われる。しかし、南スーダンではしばしば強制的に行われる武装解除こそが、新たな紛争の火種となってきた。

 

2012年3月、ジョングレイ州の全家庭に対して武装解除が行われることが決定された。当然、わたしが滞在している家にも武装解除担当の兵士たちがやってきたわけだが、それはわたしが想像していたような生易しいものではなかった。

 

わが家には、武装解除担当の兵士が朝の7時頃にやってきた。武装解除が行われる日程は知らされてはいても、兵士がどの時間帯に自分の家にやってくるのかは知らされない。事前に銃を隠したり、州外に暮らす親族などに預けたりすることを防ぐためであるという。

 

朝食をとっていると、頭にダチョウの羽をあしらった兵士と、その部下3名ほどがいきなり現れ、許可もなく家の中を探し始めた。家具や家財は押しのけられ、そのうちにわたしの小さなテントもひっくり返されてしまった。そして鍵をかけていたスーツケースは、銃剣で無理やりこじ開けられた。このように徹底的で、しばしば強引な武装解除は各地で小競り合いを引き起こし、村落部では抵抗する一部の住民と政府軍の間で武力衝突が生じた。

 

この武装解除の翌年、銃を没収されたあるヌエルの集落が襲撃され、100名以上にもなる死者が出るという痛ましい事件が起こった。州都に住んでいた同集落出身の若者たちはこの事件を嘆き、南スーダン政府に対する抗議のデモを行った。彼らは政府への批判と再武装の要請を記した布を掲げ、町中を走り回り、州知事のオフィスと国連関係施設につめ寄り、暴動をおこしたのだった。

 

 

デモの様子。100人以上にもなるヌエルの若者は、政府の武装解除後の自分たちの集落の襲撃に対して、抗議のデモを行った。小さい子供も混ざっている。町中を疾走しながら行われるデモは、筆者もバイクでついていくのがやっとであった(2013年3月筆者撮影)

デモの様子。100人以上にもなるヌエルの若者は、政府の武装解除後の自分たちの集落の襲撃に対して、抗議のデモを行った。小さい子供も混ざっている。町中を疾走しながら行われるデモは、筆者もバイクでついていくのがやっとであった(2013年3月筆者撮影)

デモの際に掲げられた布。彼らの出身集落被害の状況と政府への不満が書かれている(2013年3月筆者撮影)

デモの際に掲げられた布。彼らの出身集落被害の状況と政府への不満が書かれている(2013年3月筆者撮影)

 

 

「ホワイト・アーミー」の苦悩

 

再武装の要請というと自衛という名の下で暴力を正当化しているようにも見えるが、実際、それは彼らの取りうる最後の、そして唯一の手段でもあった。前述した政府に対する人びとの反感は、デモだけでなく時として紛争の引き金にすらなりうる。

 

2011年末、ホワイト・アーミーはある民族集団の「抹殺」を計画し、その居住区を襲撃し数百~数千人を殺害したとして政府や国際社会から非難を受けていた。当時、国内避難民キャンプにいたわたしは、実際に襲撃に参加し、のちに国内避難民となった15歳~30歳くらいのホワイト・アーミーのメンバーに出会い、話を聞くことができた。

 

「どうしてあなたは襲撃に参加することを決意したの?」(筆者の質問)

「じゃあ、君だったら一体どうするの?自分の家族や友人が、今にも敵に殺されそうになっていて、政府も国連も、誰も何も手助けをしてくれないってことがわかったら。」

 

思えば、このときわたしは彼らのおかれている状況や心情について全くの無知あるいは無理解であった。彼は、わたしの軽率な質問に責められているような気分になったのかもしれない。彼らとの会話の中で、わたしは彼らが襲撃に行く前に何度も政府や国際機関に支援を要請したり、敵対している民族集団の代表者らと話し合いの席を設けようとしたりしていたことを知った。しかし、こうした彼らの努力もむなしく、支援も和解の申し入れも受け入れられなかった。最終的に彼らに残されたのは、自分のコミュニティを守るために「敵」を殺しに行くか、それともただただ襲撃されるのを脅えて待つかという2つの選択肢である。

 

彼らにとっての希望は前者であった。

 

襲撃の前、ホワイト・アーミーのメンバーは単なる「殺戮者」としての自分たちのイメージに対する不満と、自分たちの攻撃の「正当な」理由を述べる書面をメールで関係各所に送付した。そして6000人から8000人ともいわれる軍勢を組織し、敵対する民族集団の居住区へと攻め入った。書面には、「これまで自分たちは南スーダンのコミュニティを尊重し攻撃を慎んできたが、もうこれ以上は我慢ならない。誰も自分たちの声に耳を傾けてくれない」というような内容が記されていた。

 

この彼らの攻撃は、甚大な被害を出した後ではあるが、政府関係者らの介入によって止められることになった。襲撃後、自分たちの村に帰った彼らが見つけたのは、焼き払われた自分たちの家と、留守中に襲撃されて命を落とした家族や友人の無残な姿だった。

 

2013年末、南スーダン内戦勃発の際、ホワイト・アーミーは元副大統領率いる反政府軍とともに戦った。基本的にはコミュニティの自衛を目的として組織されたホワイト・アーミーがこの国家規模の紛争に参加したのは、首都で生じたヌエル出身者の「虐殺」に対する報復感情が理由との見方もある。しかしそれ以前に、度重なる武装解除の「失敗」やこれまで蓄積されてきた政府に対する不信感や反感が関係しているのかもしれない。

 

 

テントの入口には

 

本稿では、わたしが調査の中で垣間見た、報道などではなかなか見えてこない南スーダンの紛争のもう一つの顔を紹介した。現在、南スーダンではさまざまな機構によって和平合意に向けた準備が進められている。国家レベルで取り決められた合意が、果たして本稿で取り上げたような人びとにどのような影響力をもちうるのかはまだわからない。

 

南スーダンや旧スーダン共和国で生じていた紛争は、これまで「北部のアラブ系住民」と「南部のアフリカ系住民」の対立、あるいは「北部のムスリム」と「南部のキリスト教徒・伝統信仰の信者」の対立、「民族対立」などと説明されることが多かった。この結果、スーダン地域でなかなか終結しない紛争は、人種や文化、信仰の違いに起因するものであるかのような印象をもって伝えられることがある。S.チャルキンスらは、このような二項対立的で単純な紛争の原因の捉え方は、多様であることや所属の違いそれ自体を「悪霊化する」ことであると表現している[Calkins et.al 2015: 4]。

 

本稿で取り上げたエピソードが示唆するのも、ある集団の所属や背景が違っていること自体が紛争の直接的な原因となるわけではないということであった。このような集団や属性の違いが政治的に利用され、操作される中でスーダン地域の紛争が展開してきたことは多くの研究者によって指摘されている[e.g. Johnson 2003]。

 

ホワイト・アーミーの成員の不満からも伺えるように、世に流通する紛争理解や、紛争主体に対するイメージのお仕着せが新たな紛争の火種となるのならば、紛争を終結に導かない「悪霊」とは、わかりやすい紛争の解説を求め、誰かにとって都合の良い理解を鵜呑みにしてしまうわたしたちの中に実はひそんでいるのかもしれない。

 

わたしがいたテントの入り口には、日本にいたのでは決して聴くことのできなかった紛争のただ中を生きる人びとの声が響いていた。彼らの声が教えてくれたのは、一面的な紛争に対する見方では到底理解することのできない、その都度彼らによって意味づけられ、吟味され、時として戦略的に対処されてゆく紛争の側面だった。

 

わたしは、危ないと思えば日本という安全なテント[Rosaldo 1986, Stocking 1983]に避難し、その入口を閉ざすことができる。その意味で、いくら一時的に経験を共有したとはいっても、わたしと彼らの間の非対称的な関係は変わらない。

 

とはいえ、政府や国際社会からは距離をとりつつ、顔の見える範囲にいる人間同士の結びつきを重視しながら生きる彼らの姿は、不確定な未来や他者との共存、その中で誤解や偏見に頭を悩ませるわたしたちとどこか重なる部分がある。日本では、南スーダンという国家やそこに暮らす人びとは「支援すべき脆弱な」存在としてみなされることが多い。しかし、大きな勢力に翻弄されつつも、ときとして戦略的に生きる彼らの振る舞いやその対処のわざからわたしたちが学ぶことはまだあるような気がする。

 

 

伝統的な予言者を祀った教会で女性たちが歌う予言の歌。予言の歌の中には、紛争に巻き込まれる彼らの運命や、いつか彼らの国にもたらされる平和が歌われている(2013年1月筆者撮影)

伝統的な予言者を祀った教会で女性たちが歌う予言の歌。予言の歌の中には、紛争に巻き込まれる彼らの運命や、いつか彼らの国にもたらされる平和が歌われている(2013年1月筆者撮影)

調査の一場面。現地のホスト・ファミリーと(2012年1月撮影)

調査の一場面。現地のホスト・ファミリーと(2012年1月撮影)

 

 

参考文献

・Calkins, S. Ille, E. and R. Rettenburg (eds.) (2015) Emerging Orders in the Sudans. Langaa RPCIG.

・エヴァンズ=プリチャード、E. E. (1978) 『ヌアー族―ナイル系一民族の生業形態と政治制度の調査記録』(向井元子訳)、岩波書店。

・橋本栄莉(2014)「ヌエルの予言者と『ホワイト・アーミー』:独立後南スーダンにおける武力衝突を事例として」『社会人類学年報』40、pp.121-132。

・波佐間逸博(2015)『牧畜社会の共生論理:カリモジョンとドドスの民族誌』京都大学学術出版会。

・International Crisis Group (2014) South Sudan: Jonglei–“We have always been at war”, Africa Report No.221, December, International Crisis Group.

・Johnson, D. H. (2003) The Root Causes of Sudan’s Civil Wars. Indiana University Press.

・湖中真哉(2015)「やるせない紛争調査―なぜアフリカの紛争と国内避難民をフィールドワークするのか―」床呂郁哉(編)『人はなぜフィールドに行くのか―フィールドワークへの誘い』東京外国語大学出版会、pp. 34-52。

・Rosaldo, R. (1986) From the Door of His Tent: The Fieldworker and the Inquisitor. In: J. Clifford and G. E. Marcus (eds.), Writing Culture: The Poetics and the Politics of Ethnography, pp.77-97, University of California Press.

・佐川徹(2011)『暴力と歓待の民族誌―東アフリカ牧畜社会の戦争と平和』昭和堂。

・Stocking, G. (1983) The Ethnographer’s Magic: Fieldwork in British Anthropology from Tylor to Malinowski. In: G. W. Stocking Jr. (ed.), Observers Observed: Essays on Ethnographic Fieldwork, pp.70-120, University of Wisconsin Press.

・Young, J. (2007) Emerging North-South Tensions and Prospects for a Return to War, Small Arms Survey, July.

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.276 

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