2016.06.09

カシュミール問題は「対立」と「対話」の歴史の象徴だ

井上あえか 南アジア地域研究

国際 #カシュミール問題#領土問題

カシュミール問題の見取り図

イギリスの植民地であった時代、インドには560を超える藩王国が、イギリスへ服属しつつ、領内の自治を認められて存続していた。英領インドは、こうした藩王国とイギリスの直轄領という二つの部分からなっていたのである。

英領インドは1947年に独立する際、一つのインドとしてではなく、そこからパキスタンが切り離され、二つの国家となって独立したが、その際、それぞれの藩王国は、インドとパキスタンのいずれかへ帰属するかを選択することになった。

そうした中、カシュミール藩王国は帰属の意向を明らかにしないまま独立を迎えた。独立の可能性を模索していたともいわれるが、カシュミール藩王領がどちらに帰属するかという問題が、パキスタンとインドの間で70年近くにわたって解決されないまま今日に至り、両国間の不和の核心部分をなしている。

カシュミール問題は、インドとパキスタンという二国間の領土をめぐる問題であるが、時間の経過とともに、時代を反映する様々な要因の影響を受けて、その性質が変容してきた。

まず、独立直後から1971年までに、インドとパキスタンは3度にわたって戦争をしている。1度目と2度目は直接カシュミールをめぐって、3度目はバングラデシュ独立戦争であるが、カシュミールも戦場になった。また世界各地のインド・パキスタン人移民社会において、カシュミールの自治や解放を求める運動が盛んにおこなわれた。

1980年代になると、インド政府がカシュミールに対する統制を強め、カシュミール住民の権利の守り手であったはずの州首相がインド政府に協力的な姿勢に転じたことをきっかけに、カシュミール人自身が武装するに至る。

さらに90年代後半になるとカシュミールに外国のイスラーム武装勢力の影響がおよび、いわゆる対テロ戦争の渦中に、カシュミールも巻き込まれていくことになる。このような経緯を見れば、カシュミール問題がインド・パキスタンの独立過程にまつわる事情を越えて、南アジアを取り巻く国際環境の変遷を色濃く反映して変容してきたと納得されよう。

一方でもう一つ重要な観点がある。インドとパキスタンは1971年以降も、開戦につながりかねない緊張状態や、両国の境界線であるLoC(実行支配線)(注)周辺で正規軍同士が交戦状態に陥る事態に、たびたび直面してきた。こうした緊張と交戦のたびに両国は、政府、民間を問わず、各レベルで対話を繰り返し、緊張緩和をはかってきた。したがって、両国の緊張や交戦、対立の歴史は、対話と信頼醸成の試みの歴史と表裏をなしていることには留意する必要がある。

(注)実行支配線(Line of Control)は、1949年に第一次インド・パキスタン戦争の停戦ラインである。

カシュミール藩王国とカシュミール紛争

まず、カシュミールの地理的、文化的背景を簡単に見ておこう。ヒンドゥー教徒のドーグラー朝の下、ムスリムが多数を占めるカシュミール渓谷、ヒンドゥーが多い平野部、チベット仏教徒を含むラダック地方、高山地帯でたくさんの少数言語があり土着の宗教が存在するギルギットなどが統合されて、カシュミール藩王国ができたのは19世紀のことにすぎない。

とくにギルギットではドーグラー朝の併合に対して強い抵抗があり、また部族間相互の抗争も絶えなかったことから藩王は手を焼き、1935年にはこの地域をイギリスに租借させている。現在はムスリムが多いが、イスラーム化されずに土着の信仰を維持している地域もある。現在、紛争地域となっているのは、主としてカシュミール渓谷とそこから東へつづく高地・氷河地帯である。

カシュミール藩王領と紛争地域(中ほどの破線(LoC)が事実上のインド・パキスタンの境界線。斜線部分が紛争地域。)
カシュミール藩王領と紛争地域(中ほどの破線(LoC)が事実上のインド・パキスタンの境界線。斜線部分が紛争地域。)

先に述べたとおり、カシュミール藩王が帰属表明を避けたまま、1947年8月にインドとパキスタンが独立した。カシュミールの帰属が不明なまま10月にはいると、パキスタン北西部のパシュトゥーンの民兵がカシュミール藩王領へ侵入を開始し、略奪を繰り返しながらカシュミール渓谷を目指した。この報せに首都シュリーナガルの藩王は脅威を感じ、急遽インドへの帰属を表明してインド政府に対して支援を要請した。インド政府は軍を派遣し、カシュミールでインド軍とパシュトゥーン民兵との間に戦闘が始まる。

冬の到来による停戦を挟んで、1948年5月に戦闘が再開されると、パキスタンの正規軍が派遣され、両国軍の間で第一次インド・パキスタン戦争が始まった。この戦争は国連の調停を受けて1949年1月に停戦し、両軍の前線に停戦ラインが引かれた。

その後、インドとパキスタンはさらに二回の戦争を経るが、カシュミール人たちは、住民投票の要求など穏健な運動や、カシュミール解放戦線のような海外で民族自決を求める運動が中心で、カシュミール渓谷では平穏が保たれていた。カシュミール人が自ら武装して、インド側で今日のような紛争状態に陥るのは80年代末になってからである。

カシュミールで武装闘争が始まった要因としては、インドの政策の変化や、アフガニスタンで対ソ連戦争に従事していたイスラーム武装勢力が移動してきたこと、あるいはこうしたイスラーム武装勢力に対してパキスタンが隠然と支援を開始したことなどが指摘されている。

90年代後半になるとカシュミールには、さらに外国のイスラーム武装勢力の影響が強まり、彼らによって「カシュミール解放(アーザード)」より「聖戦(ジハード)」ということばが多用されるようになった。それはカシュミールの民族自決という大義の後退を意味し、カシュミールの人々にとっては、武装闘争が乗っ取られたようなものであったが、今日に至るまで、こうしたいわゆるイスラーム主義者の影響はカシュミールに色濃く残っている。

武装闘争とカシュミール

カシュミール渓谷周辺で続く武装闘争は、カシュミール人によるものにせよ外来のイスラーム主義者によるものにせよ、ゲリラ的なものであり、地域社会によってある程度許容され、そこに参加する人々がいなければ長く続けることはできない。カシュミールの人々が彼らを許容するのは何故なのだろうか。

第一に、こうしたイスラーム勢力は一面で社会福祉を担っているということ、第二に紛争地となった地域においてイスラーム勢力へ加入するということは一種の経済活動であるということがある。

イスラーム組織であるかぎり、たとえそれがテロ活動を目的とする組織であっても、ムスリム同胞を支援し救済する活動をおこなう。彼らはカシュミール渓谷でインド軍やパラミリタリーと戦うムジャーヒディーンたちへの給与や留守宅への生活援助に責任をもち、万一死亡すれば殉教者(シャヒード)として称え、遺族に対して補償を支払う[Stern 2000]。

2005年にカシュミール地方をマグニチュード8の大地震が襲ったが、最も甚大な被害を受けたカシュミールの山岳地帯で、いち早く救助活動と被災者支援を行ったのは、過激派組織としてパキスタン政府に非合法化されたラシュカレ・タイバの関連組織であった。

急峻な地形であることからパキスタン政府が容易に被災地に近づけず、紛争地域であることが妨げになって国連機関や外国のNGOが被災地に入れないときに、緊急支援を行った武装組織は被災者にとって大きな存在であったことは想像に難くない。

さらに、紛争地となって雇用の場が失われたカシュミールにおいて、若い働き手は、武装組織が日当を出して軍事訓練への参加をよびかければ、就職口としてこれらに参加する。つまり若いカシュミール人たちにとって、武装闘争に加わることは自発的であるにしても、ナショナリズムや宗教的な熱心さの表れである前に、家族を養い、生きていく手段だということを我々は考えに入れなければならないだろう。

パキスタン・インド国境(パンジャーブ州ワーガー)では、毎夕、国旗の降納式が行われる。国境のゲートを挟んで、写真手前がパキスタン、向こう側がインドである。双方で国境警備兵が隊列を組んで行進し、強さを誇示しつつ国旗を下ろし、最後は荒々しくゲートを閉じる。市民はそれを観覧し拍手喝采する。一見対抗的なセレモニーであるが、実は双方の国境警備担当者同士が、申し合わせて調和のとれたパフォーマンスをおこなっているのであり、むしろ両国の対話と共存の象徴である。

国家と国家の問題として

ここで、インドとパキスタンが、カシュミール問題をどう扱ってきたのかをまとめてみよう。カシュミール問題はインドとパキスタンいずれにとっても、対外問題であると同時に内政問題としての面をもつ。

両国がカシュミールについて譲歩できないのは、この問題が分離独立と両国の統合の原理にかかわる内容を持つために、内政上の不安定要因を刺激し、統合を阻害する事態を誘発しかねないからである。

独立運動以来90年代まで与党としてインドを指導してきたインド国民会議(コングレス党)は、独立後も一貫して多様な宗教と文化を含むことを前提としたセキュラリズムを統合の原理としてきた。

一億数千万のムスリムを国民に含むインドにとって、カシュミールがムスリム多数派地域であることはインド帰属に何ら障害とはならない。むしろ宗教を理由にパキスタンへの帰属を容認すれば、国内のコミュナル勢力や地域主義を刺激し、ひいては分離主義的な傾向を生み、統合を脅かしかねない。とはいえ、そのような建前はありながら、これまでの交渉の中で、インドは現実的な対応として、LoCの国境化を事実上了承している。

一方パキスタンは、カシュミールはムスリムが多数派を占める地域である以上、パキスタンに帰属すべきであると主張する。パキスタンがインドから分れて独立したのは、多数派ヒンドゥー教徒と同じ国にいる限りムスリムは少数派に甘んじざるを得ず、ムスリムとしての安泰を得るためには別の国家が必要である、という考え方によっている。

カシュミールがムスリム多数地域であるにもかかわらずインドに帰属することを認めれば、パキスタン成立の意義が薄れるおそれがある。それゆえパキスタンはインドに譲歩することができない。パキスタンはLoCの西側を連邦直轄地域と定め、アーザード・ジャンムー・カシュミールとギルギット・バルティスタンという二つの地域に分けて管理しているが、パキスタンの公式見解では、旧藩王領全体が依然帰属未定の係争地域であり、いずれ住民投票がおこなわれて帰属が決するまで、パキスタンが暫定的に管理下においているにすぎない。

また、カシュミールにはパキスタンに流れ下る河川の上流、または水源があるという、パキスタンにとっては見過ごせない現実的な問題もある。インドとの対立の核心にあるカシュミール問題は、パキスタンにおいて軍が際立って存在感を持つに至った大きな要因でもある。軍情報部がカシュミール武装勢力を支援するのは、カシュミール問題が解決しない方が、軍には好都合であるためであるという見方も成り立つ状況がある。

1998年にインドとパキスタンが相次いで核実験を実施したことで、両国の対立の核心にあるカシュミール問題は、単なる二国間問題ではなくなった。パキスタン政府は、核実験の実施はインドへの対抗上やむを得ない選択だったと説明したが、現実に核兵器を持ったことでインドに対する軍事的な劣位から、均衡へ移行することができたことに加えて、カシュミール問題に国際的関心が集まったことで、第三国や国際社会の介入を求めてきたパキスタンの希望がかなった形になったことは事実である。

交渉の歴史としてのカシュミール問題

カシュミール紛争は、70年ちかくにわたって多数の人命の犠牲を生み、地域の資源を破壊し、南アジアの政治的緊張を継続させ、膨大な軍事費を費やさせ、その挙句に新たな核保有国を二つもたらすに至った。

しかし逆にいえば、両国はこの問題をめぐって、戦争をしていなかった時期には、対立を抱えながらそれが戦争に発展しないよう努力を続けてきたともいえる。事務レベルや首脳級の協議の場で、両国は信頼醸成をはかる努力を繰り返し、その過程では、経済や文化の分野での相互交流や、バス便の運行などが実現されてきた。

独立から最後のインド・パキスタン戦争が終わった1971年までの24年間よりも、その後今日に至る40年あまりの方が遥かに長いことを思えば、カシュミール問題は両国の対話と交渉の歴史の象徴と見る方がふさわしいように思える。

カシュミール問題は解決できるのか

カシュミール問題は長きにわたり、地域を超えて、政治家、国際機関や人権運動家、研究者や市民の関心を集めてもきた。そしていくつかの解決案が模索されてきてもいる。以下に3つの案を紹介してみよう。

【住民投票案】

1949年に第一次インド・パキスタン戦争の停戦に際して、調停した国連インド・パキスタン委員会は、住民投票によって帰属を決することを提案した。インドのネルー首相とパキスタンのリヤーカット・アリー首相はこの韓国を受諾した。しかし、国連によって示されたのは住民投票という考え方のみであったため、具体的な方法で合意できないまま今日に至っている。すでに述べたように多様な宗教・言語文化を擁するカシュミールで、どのように投票区を区切るのか、あるいは全域を一括するのか、それによって住民の意を組む結果が得られるのか、今となっては住民投票の実施は困難を極めると思われる。

【分割案】

1948 年に国連の調停で休戦した際の停戦ラインは、その後、LoCとして、事実上のインド・パキスタン国境として機能していることは先に述べた。インドはLoCよりイ ンド側をすでにインド領として憲法に規定し、州のステイタスを付与している。パキスタンの公式見解は、パキスタン側の地域をあくまでも仮に管理しているにすぎないとするものである。しかし第三次インド・パキスタン戦争後に結ばれたシムラ協定に際して、将来的にLoCを国境化することで両国が秘密裏に合意していたと、インド側の随行員が明らかにしている。分割案は今日最も現実的と考えられているが、現状をそのまま固定化することで、越境テロやカシュミール人の反政府勢力の問題を解決できるのかという疑問は残る。

【共同統治案】

様々な解決案のなかでも最も新しく提示された考え方である。ともに歴史家である在米インド人シュガート・ボースと在米パキスタン人アーイシャ・ジャラールの説明によれば、この案は、カシュミールをいずれかの国に帰属させたり分割したりするのではなく、この地域全体を「不可分の主権単位(unitary indivisible sovereignty)」と考える[ボース、ジャラール 2003]。国家ではないカシュミールという小さな領域を保ち、その住民が主権を切り分けて持つという考え方である。それは問題解決にあたってカシュミール人の意志を重要な要素として考慮に入れようという立場でもある。パキスタン側もインド側も、実際には両国の政府が主張しているように自由でも民主的でもない。「不可分の主権単位」という概念をつうじて、カシュミール問題は何よりカシュミール住民の解放のために解決されなければならないということを思い出させるものである。

見てきたようにカシュミール問題は、国際社会や地域の状況の変化を反映して、変化を遂げてきた。インド側カシュミールにおいて武装闘争が展開されるようになって、外部の武装勢力がカシュミールに侵入してくると、同じ時期のパキスタンの軍事・外交戦略とも連動して、カシュミール問題はさらに複雑化した。カシュミール問題は固定化された古い問題ととらえることのできない、いわば絶えず更新され続ける問題なのである。

問題が更新され続けるなら、解決への模索もまた新しい方向が見いだされる可能性があるということである。二国間の領土問題、あるいは外交的、戦略的な問題としてのみカシュミールをとらえれば、住民の立場は等閑視される。カシュミール問題は何より、住民の尊厳ある生活のあり方と切り離されるべきではない。ジャラールとボースの概念は、領土を切り分けたり住民を排除したりするよりは主権を切り分ける方がいい、という発想であり、カシュミール問題解決への新しい視点を示しているといえるだろう。

両国は40年以上にわたって全面衝突を回避し、合意可能な道筋を探しつづけてきた。その歴史が、今となっては貴重な対話と交渉の歴史である。これからも、インド社会、パキスタン社会、国際社会が成熟していくことによって、カシュミール問題の解決に、新しいアイディアが提示される可能性は常に開かれているといえるのではなかろうか。

パキスタンのパンジャーブ州ワーガーのインド国境では、毎夕、国旗降納の儀式がショーアップされて実施され、両国民や観光客が見物に集まる。それは両国の国威発揚の場でありながら、双方の国境警備担当当局が協力しなければ作り上げられない様式美に貫かれてもいる。毎日の日課として、そのような共同作業が連綿と続いていることに、両国の交渉と対話の歴史が象徴されているように思われる。

【参考文献】

・井坂理穂、1995、「インド独立と藩王国の統合—藩王国省のハイラダーバード政策」『アジア経済』XXXVI-3、アジア経済研究所

・伊豆山真理、1998「80年代までのカシミール問題―ナショナルな側面」、日本国際問題研究所編『カシミールの現状』、日本国際問題研究所

・井上あえか、2014「カシュミール問題を考える—領土と主権の間」『アジア太平洋研究』、成蹊大学

・ボース、ジャラール、2003「カシュミール問題を解決するために―「領土紛争」から「住民による主権」へ」、『世界』、2003年7月号、岩波書店

・JKLF (Jammu Kashmir Liberation Front) 1997, “Twenty years of JKLF”, Muzaffarabad, JKLF

・Jessica Stern, 2000, “Pakistan’s Jihad Culture”, Foreign Affairs, November/ December

プロフィール

井上あえか南アジア地域研究

1963年東京生まれ。東京外国語大学外国語学部卒業。同大学院修士課程修了。東京大学大学院人文社会系研究科単位取得退学。在パキスタン日本国大使館専門調査員、東京大学客員助教授、日本国際問題研究所客員研究員等を経て、2004年、就実大学人文科学部助教授、2011年より現職。主要著作:「パキスタン統合の原理としてのイスラーム」(黒崎卓他編『現代パキスタン分析』岩波書店、2004年所収)、「アフガニスタンにおける統合と部族社会」(酒井啓子編『中東政治学』有斐閣、2012年所収)、「インド・ムスリム・アイデンティティ:指導者ジンナーとパキスタンの独立」(長崎暢子他編『イスラームとインドの多様性』NIHU連携事業、京都大学イスラーム地域研究センター、2014年所収)

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