インドネシアのイスラーム社会――ムスリム・アイデンティティと消費社会 

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中間層の拡大

 

民主化後もインドネシアで中間層が拡大し続けていることは数値がはっきりと示している。エコノミスト誌によると全人口に占める中間層の割合は2003年の37.7%から2010年の56.5%に増加している。毎年700万人以上の人々があらたに中間層の仲間入りをしたという計算になる。また、中間層の拡大は都市部だけではなく、近年では地方部においてより顕著に起こっているのである。

 

なお、同誌では一日当たりの所得が2米ドル~20米ドルの階層を中間層と定義している。実際には中間層の中でもっとも大きな部分を占めているのは、中間層の下位に属する一日当たり所得が2米ドル~6米ドルの階層である(全人口の50.2%)。しかし、近年の研究では、このような「疑似中間層」と呼ぶべき階層も、その消費行動は中間層のパターンを取っていることが示されている。

 

可処分所得が増えた中間層は旺盛な消費意欲をもっている。事実、中間層の消費が国内消費に占める割合は2003年の58.1%から2010年には76.7%に増大している。それはかつてのような一部の特権的な富裕層による贅沢な買い物ではない。その日の食事を得ることで精一杯だった生活から解放されることで、耐久消費財、嗜好品、余暇活動、子ども世代への教育へと消費が拡大している。中間層が民主化を押し進め、民主化がさらに中間層の求める新しいライフスタイルを押し広げているのである。

 

ジャカルタの交通渋滞は悪名高いが、最近では地方都市でも交通渋滞が普通に見られるようになった。これまで耐久消費財として買われてきたバイクだけではなく、家族を乗せて安全で快適に移動するための手段として自家用車の売れ行きが伸びているのである。ライフスタイルの個性化・充実化という文脈では、日本のポップカルチャーに対する人気をあげることができるだろう。アニメやマンガ、日本の女性アイドルグループAKB48の公認姉妹グループJKT48、コスプレ、フィギュア、日本食へと関心は広がっている。

 

家計に占める教育支出も確実に増加しており、高等教育への進学率は2008年に初めて20%を越え、2012年には31%に達している。大学進学率が2割から3割を超えると高等教育の大衆化が始まると言われているが、インドネシアはまさに高等教育の大衆化の時代を迎えている。安定した社会、民意を反映した政治、成長する経済という環境に恵まれたインドネシアの中間層は、個人の選択の自由を実現しようとしているのである。

 

しかし、ここで重要なことは、このような消費生活の拡大は、社会の世俗化を意味してはいないということである。消費経済の進展はムスリム国民にとってのムスリム・アイデンティティーと矛盾せず、むしろムスリム・アイデンティティーを強化する役割をも果たしているのである。

 

たとえば、イスラームでは女性は髪の毛を包み隠すショール(ジルバブとかヒジャブと呼ばれる)を用いることになっているが、宗教的義務を果たすための手段であったショールを、積極的に女性のファッション・アイテムとして使いこなすムスリム・ファッションが盛んになっている。カラフルなショールを洗練されたファッションで着こなす若い女性たちは、ヒジャブにちなんで自らをヒジャバーズと呼んでいる。ムスリム女性が豊かな消費文化としてのファッションを楽しむことはイスラームの教えと矛盾するものではなく、むしろ、ムスリムとしてのアイデンティティーを積極的に表出する手段なのである。

 

 

-ヒジャブを着けた女性たち(撮影:大形里美)

-ヒジャブを着けた女性たち(提供:大形里美)

 

 

先ほどのポップカルチャーで取り上げたコスプレの世界では、ムスリム・コスプレという流れがおこっている。たとえば、初音ミクのキャラクターの緑色の髪の毛をショールで巧みに表現するといった、ムスリムであることを活用したコスプレが見られる。これもまた、ムスリム・アイデンティティーの表出である。

 

参考;「イスラム的オタク・コミュニティによると、ヒジャブはムスリム女性がコスプレをする障害にはならない

 

教育の世界もイスラームとは無縁では無い。インドネシアの教育制度では、教育省の管轄にある一般学校と宗教省の管轄にある宗教系学校の2種類がある。後者のほとんどはイスラーム系で、これが全体の16%を占めている。両者の教育カリキュラムの間では共通化が進んでおり、インドネシアの教育制度を補完しあっている。宗教系学校のなかでも特徴的なのが全国に13,000校あるとされるプサントレンである。

 

これは寄宿制のイスラーム学校のことだが、けっしてイスラーム教育だけをおこなうのではなく、一般科目の教育も取り入れており、英語教育やコンピュータなどの情報教育も盛んである。イスラームの専門家になるためというよりは、卒業後に有用な教育を受けるための選択肢の一つとして選ばれている。有名なプサントレンの中には、大学進学率も高く、質の高い教育に子どもが専心できる場として、親の人気が高い学校も少なくない。当然、高学歴は高収入と結びついている。プサントレンに子どもを送る親にとって、子供のムスリム・アイデンティティーの育成と社会的な成功が矛盾なく一体化しているのである。

 

近年、インドネシア政府は創造産業(Industri kreatif)の支援に力を入れている。広告、芸術、デザイン、ファッションと言った知的な創造性に関わる産業を育成しようとするものである。このような動きを担っている若者世代にとって、イスラームの価値観が消費生活と矛盾するものではなく、むしろその実現に有効な価値観であるという認識の広がりは、決定的な意味を持っていると言ってよいだろう。事実、ムスリム・ファッションはインドネシア政府も強く推進している産業分野なのである。高学歴のムスリムの若者たち(その中には、ムスリム・ファッションの例からも分かるように女性も多く含まれる)にとって、ムスリム・アイデンティティーと矛盾することなく、あるいはそれと相乗効果をもつように、創造的な活動に関わっていける環境が整いつつあるようだ。

 

 

インドネシアの標語

 

現在のイスラーム世界を広く見まわしたとき、イスラームが多数派である国において、社会の安定、民主化の進展、経済の発展が実現しつつあるという点でインドネシアは際立っている。むろん、インドネシアに問題が無いわけではない。政治家の汚職腐敗、根絶されない貧困、政治と結びついた暴力、根深い他宗教・少数宗派への不寛容、絶対的少数派とはいえ過激派が引き起こすテロ、と問題は山積している。しかし、若いムスリム世代に、ムスリムとして、消費者として、自分のアイデンティティーを実現する可能性が開かれている一方で、イスラーム以外の宗教との共存が図られている点に、インドネシアの未来への希望を見ることができる。

 

イギリスの離脱が国民投票で決まり、大いに揺れている欧州連合(EU)の標語は、皮肉なことに、「多様性の中の統合」(United in diversity)であるが、実はインドネシアの国の標語も「多様性の中の統合」である。原文では「ビンネカ・トゥンガル・イカ」(Bhinneka tunggal ika)となるこの言葉は、14世紀のマジャパヒト王国で作られた古ジャワ語の叙事詩『スタソーマ』の一節である。作品の中では仏陀の教えとヒンドゥー教のシヴァ神の教えが究極的には同一であることを説く言葉であったが、独立後は、多民族からなる単一の国民国家であることを示す標語として国章の中に書きこまれた。

 

 

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このように、ビンネカ・トゥンガル・イカは、もともとは宗教の違いを乗り越えた共存を意味し、さらには、民族の違いを乗り越えた統合を意味するようになった。とすれば、一人一人の個人は異なることを認めたうえでの共生という意味も持ち得るだろう。ビンネカ・トゥンガル・イカがそのような意味で語られるとき、社会における多様な価値観を認めあい、違いを対話で乗り越えていくことができる成熟した市民社会が訪れるのではないだろうか。インドネシアが今あるところに至るまでに独立後70年近くを要している。2010年に「アラブの春」が始まって5年が過ぎたいま、改めてインドネシアの経験に注目する理由がここにある。

 

 

参考文献

 

インドネシアの民主化の光と影、中央と地方、政治とイスラーム、経済成長と中間層といった諸問題をさらに理解するうえで、以下にあげた日本語による最近の優れた研究成果が参考になる。

 

・岡本正明『暴力と適応の政治学―インドネシア民主化と地方政治の安定―』(京都大学学術出版会、2015年)

・川村晃一編『新興民主主義大国インドネシア―ユドヨノ政権の10年とジョコウィ大統領の誕生―』(アジア経済研究所、2015年)

・倉沢愛子編著『消費するインドネシア』(慶應義塾大学出版会、2013年)

・佐藤百合『経済大国インドネシア―21世紀の成長条件―』(中公新書、中央公論社、2011年

・本名純『民主化のパラドックス―インドネシアにみるアジア政治の深層―』(岩波書店、2013年)

・見市建『新興大国インドネシアの宗教市場と政治』(NTT出版、2014年)

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

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vol.266 

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