2016.09.21

インドネシアのイスラーム社会――ムスリム・アイデンティティと消費社会 

青山亨 東南アジア史

国際 #ムスリム#インドネシア

イスラーム世界の現状

「アラブの春」が始まって今年で5年が経つ。チュニジアで始まった市民による民主化の動きは周辺の国々に波及し、独裁政権が次々と倒れたことで、民主的で安定した社会への期待が生まれた。しかし、結果として、多くの国々で民主化の動きは実を結ぶことなく潰え、混乱の中から過激派組織「イスラーム国」(Islamic State、以下ISと略)が姿を現した。

ISは国境を越えて支配圏を伸ばし、さらに域内外の諸勢力が介入することで武力紛争は泥沼状態にはいり、多くの犠牲者や難民が今も生まれている。混乱の影響は中東地域に限定されてはいない。ヨーロッパでは大量に流入する難民が社会に大きな軋轢を生むとともに、世界各地で過激派組織に呼応するテロがイスラームの名のもとで実行されている。

ここで改めて言うまでもないことだが、世界の圧倒的多数のムスリムにとって、ISの主張はイスラームとは無縁であり、テロの拡大は心を痛める事態である。しかし、少なからざるイスラーム諸国が混乱の渦中にあり、イスラームを名目とするテロが頻発することで、ムスリム排斥を求める声に一定の支持が集まっていることも事実である。

イスラームは民主的で安定した繁栄する社会とは折り合わないのだろうか。だが、もしそれが不可能ではないとすれば、どのようなモデルがありえるのだろうか。ここでは、その一つの可能性としてインドネシアに注目したい。

インドネシアの今

インドネシアの首都ジャカルタには日本から直行便に乗って7時間半で到着する。2億5千万人を超える人口の87%がムスリムとされるから、およそ2億2千万人のムスリム人口を抱えていることになる。国別ムスリム人口としては世界第1位である。ちなみに、第2位以下にはパキスタン、インド、バングラデシュと続いてようやく中東のエジプトとトルコが来る。

こうしてみると、世界の大多数のムスリムは、中東ではなく南アジアから東南アジアにかけて住んでいることがわかる。これらの国々をイスラーム大国と仮に呼んでおこう。その中には、インドのようにムスリムがマイノリティ(14%)の国もあるが、インドネシアは国民のマジョリティがムスリムである世界に冠たるイスラーム大国である。

インドネシアの近年の発展には目覚ましいものがある。それは、安定した民主的な社会と堅調な経済成長によって支えられている。簡単に概観するために、いくつかの数値を挙げてみたい。数値は基準によって変わるものだが、参考にはなるだろう。

インドネシアの経済規模は名目GDPで世界第16位である。BRICsに続く新しい新興工業国と目されており、G20メンバーにも選ばれている。他のイスラーム大国と比べると、9位のインドは別格として、18位のトルコ、28位のイラン、38位のエジプトを引き離している。

次に、エコノミスト誌による民主主義指数のランキング(2015年)によると、インドネシアは指数7.03で49位である。これは「欠陥のある民主主義」に区分されるが(ちなみに23位の日本もこの区分)、ASEAN諸国のなかでは最高位であり、他のイスラーム大国と比べた場合、35位のインドには譲るが、97位のトルコ、134位のエジプト、156位のイランとの差は歴然としている。

また、経済平和研究所による平和度指数のランキング(2015年)によると、インドネシアは指数1.769で46位である。これは45位のフランスに続く順位であり、他のイスラーム大国を大きく引き離している。このように、インドネシアは、イスラーム諸国を含む新興国グループの中で、政治的に安定した民主的な国家として経済成長を遂げていることが理解できよう。

過去の困難

もっとも、ここまでにいたるインドネシアの歴史はけっして平坦なものではなかった。東西約5,000キロに広がる1万3,000以上の島々に2億5000万人、300以上の民族が住むという多民族・多宗教国家としての根本的な問題を抱えており、さらに、首都ジャカルタがある経済開発が進んだジャワ島とそれ以外の島々との間の経済的格差という慢性的な問題がある。

1945年に独立宣言をおこなって以来、イスラームを国家理念に求めるダルル・イスラム運動、パプアおよび東ティモールの独立運動、アチェの分離独立運動などが国家の統合を揺るがし続けてきた。このような問題に対して、1965年の9月30日事件を契機に権力を握ったスハルト政権は、軍部と結びついた開発主義政権として、イスラームの政治への影響を制限し、分離独立運動を強権的に抑え付ける一方で、経済開発と上からの国民統合を推進したのである。

アジア金融危機を引き金に起きた1998年の政変でスハルト政権が倒れ、インドネシアの政治は民主化へと大きく舵を切った。いわば「インドネシアの春」と呼んでよい出来事である。この後、インドネシアは一人の大統領の罷免と4年間に4回の改憲という紆余曲折を経て民主化に成功した。とはいえ、当初の見通しはけっして明るいわけではなかった。

長きにわたってスハルト政権が強権的に不満分子を押さえ込み、国家統合を維持していたから、政権の崩壊がもたらす大きな反動が懸念された。ソビエト連邦の解体の記憶がまだ生々しかった時期だけに、懸念には現実味があった。さらに、過激派イスラーム組織の活動も表面化し、アル・カーイダの影響を受けた国内過激派による一連の爆弾テロ事件がおこった。しかし、このような過激派の活動はやがて抑えられ、インドネシア全体の分裂は杞憂で終わった(ただし、東ティモールは独立を達成した)。「アラブの春」以降のイスラーム世界を考えるうえで、インドネシアのレジリエンス(強靭性)についてあらためて考えてみる意義があるだろう。

成熟の条件

現在のインドネシアを支えている諸条件は、堅実に成長する経済、経済成長で力を蓄えた中間層の民意を反映する政治、民主的な政治を担保する社会の安定である。加えて、非同盟・全方位外交を展開し、国際社会と良好な関係を結ぶことで、海外からの援助と投資を呼び込むことに成功している点も挙げてよい。

しかし、このような諸条件の前提として、多民族社会の国民統合と多宗教の共存があることを指摘しておく必要がある。

インドネシアを一つの社会集団とみなすナショナリズムの思想は、オランダ植民地支配下にあった20世紀の初めに芽生えて、徐々に形作られ、1945年の独立宣言までには一定のコンセンサスが形成されていた。独立後の国民統合は、ときに強圧的に進められたが、一定の成功をおさめたと言えるだろう。現在のインドネシアはその果実を受け取っているのである。言い方を変えれば、国民統合には世紀単位の時間をかける必要がある。とすれば、「アラブの春」の成功・不成功を今の時点で論じるのは時期尚早ということになろう。

多宗教の共存という点では、独立宣言に続いて出された憲法の前文で、イスラームに特別な地位を与える文面が削除され、特定の宗教を優位におくことはしない、つまり国教を設けない憲法となったことが重要である(なお、唯一神への信仰を国家の基礎とすることは規定されているが、イスラーム以外の宗教、キリスト教のみならず、仏教、ヒンドゥー教、儒教までもが唯一神信仰の枠組みに含まれる「ゆるい」規定である)。

このことで、マイノリティの宗教に対してイスラームが国教の名のもとに押し付けられることは回避された。さらに、イスラームが政治から分離されたことで、どのようなイスラームが正しいイスラームであるかの判断を政治が負わなくてもよくなったことは重要である。信仰はそれぞれの宗教の問題であり、政治権力の問題ではなくなった。

ムスリム政治家にとっては、よきムスリムであることをアピールできることは政治家としての重要な要件である。しかし、それは、インドネシアのイスラーム国家化をめざすことにはつながらない。ダルル・イスラム運動の紛争の経験から、スハルト政権期にはイスラームの政治への介入は大きく制限されていた。民主化後には複数のイスラーム政党が再び政治の舞台に現れたが、総選挙を重ねるにつれて、イスラームの国教化を公約に掲げるイスラーム系政党はおしなべて勢力を弱めっていった。このことは、国民の大多数が、政治と宗教を分けるという現在の仕組みを支持していることを示している。

スハルト政権崩壊直後にはマルク紛争のような宗教間対立による流血事件もおきたが、総じて国民統合が維持されたことは、治安回復の名目で軍部が政治に介入する口実を封じることにもなった。2014年の大統領選挙で、スハルト大統領の娘婿で現役軍人であるプロボウォ・スビアントを破って、有力政治家一族にも属さない庶民出身のジョコ・ウィドドが大統領に選ばれたという事実の持つ意味は大きい。

このように、長い国民統合のプロセスが、民族や宗教の違いを乗り越えることを可能としてきた。だからこそ、強権的政権が倒れたあとも、民主化を円滑に進めることを可能にしたと言ってよいだろう。そして、この民主化を担ったのが、経済成長で力をつけた中間層である。つまり、スハルト政権がもたらした経済成長が中間層を生み出し、生活や政治の場でより自由な活動を求める中間層によってスハルト政権は打ち倒されたということになる。

中間層の拡大

民主化後もインドネシアで中間層が拡大し続けていることは数値がはっきりと示している。エコノミスト誌によると全人口に占める中間層の割合は2003年の37.7%から2010年の56.5%に増加している。毎年700万人以上の人々があらたに中間層の仲間入りをしたという計算になる。また、中間層の拡大は都市部だけではなく、近年では地方部においてより顕著に起こっているのである。

なお、同誌では一日当たりの所得が2米ドル~20米ドルの階層を中間層と定義している。実際には中間層の中でもっとも大きな部分を占めているのは、中間層の下位に属する一日当たり所得が2米ドル~6米ドルの階層である(全人口の50.2%)。しかし、近年の研究では、このような「疑似中間層」と呼ぶべき階層も、その消費行動は中間層のパターンを取っていることが示されている。

可処分所得が増えた中間層は旺盛な消費意欲をもっている。事実、中間層の消費が国内消費に占める割合は2003年の58.1%から2010年には76.7%に増大している。それはかつてのような一部の特権的な富裕層による贅沢な買い物ではない。その日の食事を得ることで精一杯だった生活から解放されることで、耐久消費財、嗜好品、余暇活動、子ども世代への教育へと消費が拡大している。中間層が民主化を押し進め、民主化がさらに中間層の求める新しいライフスタイルを押し広げているのである。

ジャカルタの交通渋滞は悪名高いが、最近では地方都市でも交通渋滞が普通に見られるようになった。これまで耐久消費財として買われてきたバイクだけではなく、家族を乗せて安全で快適に移動するための手段として自家用車の売れ行きが伸びているのである。ライフスタイルの個性化・充実化という文脈では、日本のポップカルチャーに対する人気をあげることができるだろう。アニメやマンガ、日本の女性アイドルグループAKB48の公認姉妹グループJKT48、コスプレ、フィギュア、日本食へと関心は広がっている。

家計に占める教育支出も確実に増加しており、高等教育への進学率は2008年に初めて20%を越え、2012年には31%に達している。大学進学率が2割から3割を超えると高等教育の大衆化が始まると言われているが、インドネシアはまさに高等教育の大衆化の時代を迎えている。安定した社会、民意を反映した政治、成長する経済という環境に恵まれたインドネシアの中間層は、個人の選択の自由を実現しようとしているのである。

しかし、ここで重要なことは、このような消費生活の拡大は、社会の世俗化を意味してはいないということである。消費経済の進展はムスリム国民にとってのムスリム・アイデンティティーと矛盾せず、むしろムスリム・アイデンティティーを強化する役割をも果たしているのである。

たとえば、イスラームでは女性は髪の毛を包み隠すショール(ジルバブとかヒジャブと呼ばれる)を用いることになっているが、宗教的義務を果たすための手段であったショールを、積極的に女性のファッション・アイテムとして使いこなすムスリム・ファッションが盛んになっている。カラフルなショールを洗練されたファッションで着こなす若い女性たちは、ヒジャブにちなんで自らをヒジャバーズと呼んでいる。ムスリム女性が豊かな消費文化としてのファッションを楽しむことはイスラームの教えと矛盾するものではなく、むしろ、ムスリムとしてのアイデンティティーを積極的に表出する手段なのである。

-ヒジャブを着けた女性たち(撮影:大形里美)
-ヒジャブを着けた女性たち(提供:大形里美)

先ほどのポップカルチャーで取り上げたコスプレの世界では、ムスリム・コスプレという流れがおこっている。たとえば、初音ミクのキャラクターの緑色の髪の毛をショールで巧みに表現するといった、ムスリムであることを活用したコスプレが見られる。これもまた、ムスリム・アイデンティティーの表出である。

 

参考;「イスラム的オタク・コミュニティによると、ヒジャブはムスリム女性がコスプレをする障害にはならない

教育の世界もイスラームとは無縁では無い。インドネシアの教育制度では、教育省の管轄にある一般学校と宗教省の管轄にある宗教系学校の2種類がある。後者のほとんどはイスラーム系で、これが全体の16%を占めている。両者の教育カリキュラムの間では共通化が進んでおり、インドネシアの教育制度を補完しあっている。宗教系学校のなかでも特徴的なのが全国に13,000校あるとされるプサントレンである。

これは寄宿制のイスラーム学校のことだが、けっしてイスラーム教育だけをおこなうのではなく、一般科目の教育も取り入れており、英語教育やコンピュータなどの情報教育も盛んである。イスラームの専門家になるためというよりは、卒業後に有用な教育を受けるための選択肢の一つとして選ばれている。有名なプサントレンの中には、大学進学率も高く、質の高い教育に子どもが専心できる場として、親の人気が高い学校も少なくない。当然、高学歴は高収入と結びついている。プサントレンに子どもを送る親にとって、子供のムスリム・アイデンティティーの育成と社会的な成功が矛盾なく一体化しているのである。

近年、インドネシア政府は創造産業(Industri kreatif)の支援に力を入れている。広告、芸術、デザイン、ファッションと言った知的な創造性に関わる産業を育成しようとするものである。このような動きを担っている若者世代にとって、イスラームの価値観が消費生活と矛盾するものではなく、むしろその実現に有効な価値観であるという認識の広がりは、決定的な意味を持っていると言ってよいだろう。事実、ムスリム・ファッションはインドネシア政府も強く推進している産業分野なのである。高学歴のムスリムの若者たち(その中には、ムスリム・ファッションの例からも分かるように女性も多く含まれる)にとって、ムスリム・アイデンティティーと矛盾することなく、あるいはそれと相乗効果をもつように、創造的な活動に関わっていける環境が整いつつあるようだ。

インドネシアの標語

現在のイスラーム世界を広く見まわしたとき、イスラームが多数派である国において、社会の安定、民主化の進展、経済の発展が実現しつつあるという点でインドネシアは際立っている。むろん、インドネシアに問題が無いわけではない。政治家の汚職腐敗、根絶されない貧困、政治と結びついた暴力、根深い他宗教・少数宗派への不寛容、絶対的少数派とはいえ過激派が引き起こすテロ、と問題は山積している。しかし、若いムスリム世代に、ムスリムとして、消費者として、自分のアイデンティティーを実現する可能性が開かれている一方で、イスラーム以外の宗教との共存が図られている点に、インドネシアの未来への希望を見ることができる。

イギリスの離脱が国民投票で決まり、大いに揺れている欧州連合(EU)の標語は、皮肉なことに、「多様性の中の統合」(United in diversity)であるが、実はインドネシアの国の標語も「多様性の中の統合」である。原文では「ビンネカ・トゥンガル・イカ」(Bhinneka tunggal ika)となるこの言葉は、14世紀のマジャパヒト王国で作られた古ジャワ語の叙事詩『スタソーマ』の一節である。作品の中では仏陀の教えとヒンドゥー教のシヴァ神の教えが究極的には同一であることを説く言葉であったが、独立後は、多民族からなる単一の国民国家であることを示す標語として国章の中に書きこまれた。

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このように、ビンネカ・トゥンガル・イカは、もともとは宗教の違いを乗り越えた共存を意味し、さらには、民族の違いを乗り越えた統合を意味するようになった。とすれば、一人一人の個人は異なることを認めたうえでの共生という意味も持ち得るだろう。ビンネカ・トゥンガル・イカがそのような意味で語られるとき、社会における多様な価値観を認めあい、違いを対話で乗り越えていくことができる成熟した市民社会が訪れるのではないだろうか。インドネシアが今あるところに至るまでに独立後70年近くを要している。2010年に「アラブの春」が始まって5年が過ぎたいま、改めてインドネシアの経験に注目する理由がここにある。

参考文献

インドネシアの民主化の光と影、中央と地方、政治とイスラーム、経済成長と中間層といった諸問題をさらに理解するうえで、以下にあげた日本語による最近の優れた研究成果が参考になる。

・岡本正明『暴力と適応の政治学―インドネシア民主化と地方政治の安定―』(京都大学学術出版会、2015年)

・川村晃一編『新興民主主義大国インドネシア―ユドヨノ政権の10年とジョコウィ大統領の誕生―』(アジア経済研究所、2015年)

・倉沢愛子編著『消費するインドネシア』(慶應義塾大学出版会、2013年)

・佐藤百合『経済大国インドネシア―21世紀の成長条件―』(中公新書、中央公論社、2011年

・本名純『民主化のパラドックス―インドネシアにみるアジア政治の深層―』(岩波書店、2013年)

・見市建『新興大国インドネシアの宗教市場と政治』(NTT出版、2014年)

プロフィール

青山亨東南アジア史

京都大学卒、シドニー大学PhD。東京外国語大学教授。東南アジア学会会長。専門は東南アジア前近代史。東南アジアのインド化やイスラーム化に関心がある。共著に『画像史料論―世界史の読み方』(東京外国語大学出版会)、『東南アジアを知るための50章』(明石書店)。

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