2011.08.29

「テロリズム」の内生化 ブレイビクが守ろうとしたもの  

吉田徹 ヨーロッパ比較政治

国際 #多文化主義#アーネシュ・ブレイビク#オスロ#ウトヤ島#ユナボマー#文化的マルクス主義#スラヴォイ・ジジェク

「十字軍遠征を目指すナショナルな保守主義者」―自らをそう定義したのは、77名を殺傷したノルウェー・テロ事件の犯人、アーネシュ・ブレイビクだ。7月末に起きた首都オスロとウトヤ島でのテロは、大きな衝撃をもたらした。この衝撃は2つの事実からきている。

ひとつは、ヨーロッパ人による自国民を対象にしたテロという点だ。事件直後、反イスラムで盛り上がるネット上だけでなく、専門家達までもが「ジハード」を口にした。その数時間後、オスロの政府機関中枢を爆破させ、与党労働党の集会を攻撃用ライフルで襲撃したのは、「生粋」のノルウェー人だったことが明らかになった。しかし、このテロ事件が、ムスリム系によるテロであれば、ヨーロッパにはまだ救いがあったかもしれない。

もうひとつは、世界でもっとも豊かな国のひとつ、ノルウェーでテロが起きたということ。ノルウェーはこれだけの経済危機のなかでも、ヨーロッパで健全財政を保っている数少ない国だ。北海に莫大なガス田をもち、その輸出で外貨を稼ぐ環境に恵まれたこの国は、経済的にも豊かな、寛容と融和の精神に貫かれた平和な社会を築き上げてきた。ブレイビクのウトヤ島で射殺した68名(1分に1名を殺した計算になる)という数は、ノルウェーの年間殺人件数の2倍強だ。安定した社会をつくり上げてきたはずのノルウェーで、自国民を標的にした残虐なテロは大きなショックをもたらした。ノルウェー当局は「人道に対する罪」でブレイビクを裁くことも検討していると報道されている。

この未曾有の7.22のテロをどのように解釈すべきだろうか。

多くの事実はこれからの公判でも明らかになるだろう。しかし、筆者自身はテロリスト・ブレイビクを、極右勢力を脱藩した「ロンリー・ウルフ(一匹狼)」とみなすのも、彼のテロ行為を社会からの承認を求める、あるいは社会への復讐を目的としていたとみなすのも、正しくないように思われる。

まずは、ブレイビクのような存在を生み出し、犯罪行為にいたらせた構造的な要因を探る必要がある。

「イスラム」と「多文化主義」の同盟への攻撃

周知のようにテロリストのブレイビクは、犯行直前に1518ページにものぼる「論文」を関係者に送りつけている。「2083年-ヨーロッパ独立宣言」と題されたこの論文は、ヨーロッパのイスラム世界との対立の歴史から現在にいたる状況といった歴史的考察(第1部)、そのような状況をつくり上げた文化的背景と現状分析(第2部)、「ユーラビア」(「ヨーロッパ」と「アラビア」の合成語)と名づけられたヨーロッパの現状から脱するための「先制攻撃(=テロ)」の詳細なステップと手段(第3部)から成っている。丁寧にも、ブレイビクは社民主義政治家やジャーナリスト、知識人などをABC戦犯にランク分けし、イスラム駆逐戦争は2083年までに死者4万5000人、負傷者100万人を超えてはならないと明記している。

この宣言書やyou tubeに投稿された自己インタビューからは、2つのことを読み取ることができるだろう。

ひとつは、論文が多くの箇所が切り貼りからなる、思想的な一貫性を欠いたコラージュだという点。なかでも、アメリカで小包爆弾テロを完遂した思想犯通称「ユナボマー」(本名セオドア・カジンスキー)による犯行動機の論文(「工業社会とその未来」)を模写した痕跡が指摘されている。ユナボマーの反左派思想やフェミニズムに対する敵視もそのまま受け継がれているが、また、カジンスキーに影響され、95年にオクラホマ・シティーの連邦政府ビルを爆破したティモシー・マクベイにも多く言及している。

ユナボマーの場合と同じく、多くの哲学者や社会学者、思想家の名前が引用されているものの、その多くは独立系の極右・反イスラム主義のウェッブサイトからの受け売りもあり、あまりにも自意識過剰な文章には論理的整合性の欠如や飛躍が多分に認められる。つまり、インテリ階層の一員だったユナボマーとは異なり、論文をみるかぎりでは、ブレイビクの知識水準は特別に高いということはない。

他方で、ブレイビクの態度には一貫したものも認められる。文章を注意深く読めば、彼自身、人種差別主義者でも、ましてやネオナチやファシストでもなく、むしろ「ヨーロッパのイスラム化」を憂える、ヨーロッパ中心主義者であることが理解できる(ブレイビク自身、個人的にはイスラムの友人もいれば、イスラム自身に敵意をもっているわけでもないと断っている)。

彼が再三強調しているように、彼が敵視していたのはイスラムそのものではなく、ヨーロッパがイスラムとの歴史的対立を経て形成されたにもかかわらず、そのイスラムの内的定着を許しているヨーロッパの「多文化主義」と「文化的マルクス主義」の同盟である。だからこそ、彼は自国の為政者と、未来のエリート候補者たちを標的にしたのである。ブレイビクが目指したのは、彼自身の言葉を借りれば、キリスト教をバックボーンにしたヨーロッパにおける「保守革命」であり、誇張を恐れずにいえば、彼が自身のテロで、そしてその後につづく者たちに期待したのは、ヨーロッパ内のイスラム的なものを断ち切るための「汎ヨーロッパ・ナショナリズム」の立ち上げだった。

ブレイビクによるキリスト教原理主義と親シオニズムといった原理と反動の奇妙な混合は、「文明の衝突」を訴えるポスト9.11の新たな運動のエッセンスでもある。いずれにしても、彼のモチーフがたんなる移民排斥や反イスラムだけではない所に、事の厄介さがある。

移民問題と極右の影響はあったか?

ノルウェー統計局の数字を確認するかぎり、同国の移民受け入れ人数は年々増加、人口500万人弱のうち移民は1割程度と試算されている。しかし、その過半数はポーランドやスウェーデン、ドイツといったヨーロッパ諸国からであり、アフリカや中東アジアからの移民のシェアは拡大しているとはいえ、それほど顕著ではない。イスラム教徒は、ノルウェー全体では約3%を占めるにすぎず、イギリスやフランスと比較しても多いわけではない。さらに、ノルウェーの相対的な豊かさと寛大な移民政策は、イギリスやイタリア、フランスなどと異なり、社会でのプロ移民-アンチ移民の対立を過小にとどめることができていた。

もっとも、ノルウェー社会の規模の小ささと相対的な同質性は、移民系市民の異質性を浮かび上がらせるような構造になっているのも事実だ。ノルウェー自体、アラブ世界と地理的に離れており、また植民地をもった経験もないから、こうした国とは異なり、移民の流入増大は、認知・体感上の大きなインパクトを与える。また、さまざまな文化の併存と平等的地位を認める多文化主義政策は、移民系市民の自身の文化を維持することを可能にするから、異文化の存在の可視性が飛躍的に高まる。そして、非移民系と移民系市民の経済的不平等が過小であるゆえに、それだけ文化のもつ意味が大きく迫り出してくるのである。

ノルウェーでも、2009年の総選挙で移民受け入れの抑制を強く訴えるポピュリスト政党「進歩党」が22%の得票でもって、野党第1党の地位を占めた。しかし、ブレイビクが10年間党員だったこの政党は、ノルウェー人の資源を移民系市民とシェアすることを拒否する「福祉排外主義」を争点にするあまり、穏健にすぎ、そしてあまりにも一国単位での政策に固執しすぎたために、彼の志向性に合わなくなっていく。このため進歩党は、彼の論文の中ではむしろ批判の対象になっている。

ブレイビクがネオナチ運動や各国のファシズム・極右勢力が主宰する集会やインターネット・フォーラムに熱心に出入りしていたことは解っている。しかし、むしろ彼のイデオロギー的基盤を提供したのは所属していたフリーメーソンやイギリスの反イスラム運動「EDL(English Defence League)」といった、むしろトランスナショナルな使命をもつ文化的保守主義団体や極右勢力だったことに留意する必要がある。彼のテンプル騎士団への固執も、独特のヨーロッパ中心主義を示す証拠のひとつだろう。

ヨーロッパの各極右政党の多くが、21世紀に入って反システム政党の地位を脱して議会での議席確保を目指す「正常化」の道を歩んでいったことと、ブレイビクのような急進主義者が生まれたことは、無関係ではないだろう。ただ、彼の世界観は「国粋主義」というよりは、イスラムの反イメージとしてのヨーロッパの防御に力点がおかれていた点に特徴がある。

ブレイビク自身は、大学中退後にいくつかの起業経験をもち、ヒップホップのDJ趣味とする、彼自身の表現を借りれば「平均的なノルウェーの家庭に育った」若者だ。ヒュンダイ自動車をマイカーに、シャネルの香水とラコステのポロシャツを愛用し、他方でテロ完遂の軍資金調達のためにモンブランの万年筆とブライトリングの腕時計を質屋に入れたことを報告する物質主義的な側面ももち合せている。1歳のときに外交官だった父親と看護婦だった両親が離婚し、少年になってから父親不在の時期があったものの、これも離婚率の高いノルウェーで特段珍しいことでもない。

ちなみに、ブレイビクが「コール・オブ・デューティ」や「ウォークラフト」といった戦闘ヴィデオ・ゲームの愛好者だったことから、その影響を指摘する向きもあるが、それ自体が直接的な影響となったとも考えにくい。

こう考えると、多文化主義政策の正当性を訴えるノルウェーの政治家たちのように、あるいは直接暴力から距離を採ろうとするヨーロッパの各極右政党のように、ブレイビクのことをたんなる「気違い」として片づけるわけにはいかない。ここに、ノルウェーのテロ事件がもつ重大な意味がある。

「再帰的伝統化」の彼方に

超国家的な結びつきを強めるヨーロッパ空間は、ブレイビクが敵視したグローバリズムのミニチュアともいえる。そこでは、「国籍」と「国境」がそれまでもっていた歴史的意味が徐々に、しかし着実に剥奪され、個人のアイデンティティを再編するプロセスが常態的に進行する(ちなみにノルウェーはEU加盟国ではないものの、実際の制度運用はEUに準じている)。

ややジャーゴン的な形容をすれば、こうした地理的、空間的、時間的軸の再編プロセスのもとでは、個人のアイデンティティをつねに意識的に選択しなければならない「再帰的近代」(A.ギデンズ)が徹底される。他方で、再帰的近代が全面化するとき、逆に想像された固有のものとしての「再帰的伝統化」(J.ドライゼク)のプロセスが同時並行して進む。つまり、歴史的なものとされるものが人為的なかたちで発見され、再生産されるのである。のっぺりとした空間で、無数に分断された「文化」にこそ、突出した意味が見出されやすいことは想像に難くない。

もしブレイビクが、表面的なヨーロッパ史だけでなく、古代ギリシャにまで遡っていれば、その文化と哲学が非西洋世界の多大な影響下にあったことを知っただろう(たとえば、ネオコンの祖といわれるレオ・シュトラウスの晩年の作品にはこのことが強調されている)。そして、その世界観は大きく修正されていたかもしれない。しかし「再帰的伝統化」のなかでは、実存的なアジール(避難所)としての「伝統」が再生産されていくことになり、認識的な正しさは追及されない。

もっとも、現代のヨーロッパは、文化的基準でヨーロッパを支配しようとしたナチス支配を否定した所からスタートしているから、「文化」を原理とした空間編成を、少なくとも政治的には採用できない。それは、戦後ヨーロッパそのものを否定することにつながるからだ(ノルウェーもまた、ナチスの傀儡政権をもった経験から、「政治的正しさ」を生んだことを忘れてはならない)。ブレイビクが「文化的マルクス主義」のヘゲモニーの象徴として、「政治的正しさ」を執拗に攻撃した理由もここにあるだろう。

哲学者スラヴォイ・ジジェクは、文化的感情の占める地位を政治から消去しようとすればするほどに、逆に恐怖が政治空間を支配するというパラドクスを指摘している。

わたしたちは、国家権力の実践の支配的な形式とは、脱政治化した行政と利益調整の論理でしかないという、新たな時代におそらく突入している。そこで感情が唯一揺り動かされるのは恐怖だけである。移民に対する恐怖、犯罪に対する恐怖、不審者の倒錯に対する恐怖、国家介入に対する恐怖、環境破壊に対する恐怖、さらにはさまざまなハラスメントに対する恐怖などである。「政治的に正しい」というのはリベラルな形式をまとまった恐怖による政治にすぎない。こうした理由によって2000年代の最初の10年における主たる問題は、反移民の政治が極右勢力だけではなく支配的な政治的言説となったことにある。(ル・モンド紙、2011年2月26日)

イギリス、ドイツ、フランスの指導者は、最近、相次いで「多文化主義の失敗」を口にした。それぞれの国で、移民系市民への反発とこれが政治争点化してしまったことに対する反省の弁だ。しかし、こうした一連の発言は、新たな社会統合の原理を生み出せないままに、市民の自由移動という普遍的理想と、移民流入なしには高齢化を止められないというヨーロッパの現実を調停させることを放棄した宣言でもあった。

ブレイビクが「残酷だが必要不可欠」と形容したテロは、新たな統合原理も、他方で隔離された空間の何れも生み出すことのできないグローバル政治空間が袋小路に陥っていることの証拠でもある。このねじれた歴史的うねりの裂け目に、ノルウェーのテロが生起したと結論づけることは間違いではないだろう。

恐怖の連鎖は、止まることがない。21世紀最初の10年が9.11同時多発テロとつづくイラク戦争ではじまり、ビンラーディン射殺とアラブ世界の民主化で締めくくられようとしている矢先に、「外部」におかれていたテロは転移し、ヨーロッパに内生するようになった。内生するテロは、暴力ではもちろんのこと、ノルウェー市民たちが願うような「より力強い寛容な民主主義」だけでもっても対処するのも困難である。ブレイビクがウトヤ島で連射した炸裂弾によってがごとく、ヨーロッパは文字通り内破させられている。

(このエントリーは2011年8月16日付朝日新聞(夕刊)「共生の裂け目 欧州に試練」を大幅に加筆・補筆したものです)

プロフィール

吉田徹ヨーロッパ比較政治

東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。

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