インラック裁判は何を意味するか―タイ社会の分裂と政治の司法化

タックシン神話と社会の分裂

 

このようにタックシン政権は、民選政権でありながら強権的な支配を行った点で問題であったと指摘される。

しかし、同政権に関して最も深刻な問題は、

(1)「タックシンなら国民を救ってくれる」という神話が、政権が崩壊してから約10年経過した現在も多数の国民の間に残存していること、

(2)タックシン神話によってタイ社会が二つに分裂してしまったこと、そして、その分裂は10年経過しても溝が埋まる気配がみられないこと、これら2点であろう。

 

バンコクのタクシー運転手は、貧しい東北部の出身者が多いが、現在も彼らの中に「タックシンこそが国と国民を救うことができる」と信じているものが多数いる。外国人である筆者にも、いかにタックシンが素晴らしい指導者であったかを熱く語り、もし彼が戻ってくれば国家の収入を増やして、国民にお金を配ってくれるだろうとも語っていた。

 

2006年に首相の座を降りてから長い年月が経過しているにもかかわらず、タックシンのカリスマ性はまだ一定の力を持っているように思われる。2011年7月に実施された総選挙ではインラックが後継者として登場したが、現在に至るまでタックシンと仲睦まじい2ショットの写真を度々流している。また2016年8月に実施された新憲法草案の可否を問う国民投票を前に、同草案と国民投票に反対するグループが開催したセミナーでも、タックシンのイラストが入ったパンフレットなどを持つ参加者が散見された。

 

最近では、2018年に予定されている総選挙を見越して、次のタイ貢献党の党首を誰にするかという話になった際にも、依然としてタックシンの別の女兄弟の名前が候補者として噂された。タックシン政権については、従前から政策の人気が高いと指摘されてきたが、タックシン個人に対する崇拝という形でも、社会に対する影響力が強く残った。

 

タイでは2006年頃から、黄色と赤色に分かれて、バンコクを中心に大規模デモが繰り返えされるようになった。一般的に、赤色はタックシン派、黄色は反タックシン派であるといわれる。2014年5月のクーデタ後、暫定政権が双方のデモを抑え込んでいる状態だが、いずれの色も地下では脈々と生き続けていると指摘されている。

 

2011年7月に実施された総選挙では、タックシン派のタイ貢献党が北部と東北部を、最大野党の民主党が、一部を除くバンコクと南部を中心に議席を獲得した。国内の地理的な分裂が鮮やかに浮かび上がる結果となった。

 

しかし、分裂は国政レベルにとどまらない。タイ人たちは、家族間でもタックシン派と反タックシン派、もしくは赤シャツ派と黄シャツ派に分かれて、政治的意見が対立する事態がしばしば起こるようになったと述べる。友人間でも、政治的見解が真っ二つに分かれてしまい、政治の話題になると意見が全く嚙み合わなくなったという話も聞く。2006年頃を境にタイ社会の隅々まで亀裂が走るようになった。「社会の調和」に価値をおいてきたタイにとっては、とりわけ深刻な問題であろう。

 

社会を二分する対立軸が何であるかについては、民主主義に対する考え方の相違、汚職に対する姿勢の違い、社会階層の違いなど、様々な角度から論じられてきた。いずれも対立軸を形成している一要素だと思われる。赤シャツについては、全てのメンバーがタックシンを崇拝しているのではなく、あくまで民主主義の原則に基づく政治を要求しているだけだとの指摘もある。しかし、ここまで社会の分裂が深刻化および長期化した主たる原因が、タックシンのポピュリスト的統治スタイルにあったことは否定できない。

 

2011年赤シャツのデモ

2011年赤シャツのデモ

2011年総選挙時の民主党の集会

2011年総選挙時の民主党の集会

 

 

政治の司法化、汚職取締の政治手段化

 

タイでは、2006年クーデタの前後から、政争が憲法裁判所や最高裁判所に持ち込まれることが急増し、政治において裁判所が重要な役割を果たすようになった(注4)。 このような状況は「政治の司法化」(Judicialization of Politics)とも呼ばれ、タイだけではなく世界的に広く観察されるようになった現象でもある(注5)。

 

政治の司法化は、複数の要因が重層的に重なって起こった現象であるが、タイの場合、政権がらみの裁判の目的は明快である。それは「タックシン・システム」の排除である。社会に分裂を引き起こしたタックシン・システムを、裁判所の裁定により排除しようとしているのである。

 

タイでは、2006年4月総選挙に対する無効判決を皮切りに、タイ愛国党他2政党解党裁判(2007年)、サマック首相の首相資格喪失裁判(2008年)、人民の力党解党裁判(2008年)、3件の2007年憲法改正の可否に関する裁判(2012年、2013年、2014年)、2014年2月総選挙に対する無効裁判(2014年)、政府高官人事異動に関する裁判(2014年)など、政局を左右しうる政治的裁判については枚挙にいとまがない。いずれもタックシン派に属する政権や政党に対して厳しい判決が下されている。また、タックシンは、2008年と2010年に汚職の罪で有罪判決を下されており、資産の一部を没収されている。

 

これらの裁判の判決内容については、タイ国トップの大学であるタムマサート大学の法学部に所属する公法学者たちから、「法学的に適切な判決内容ではない」との指摘が幾度もなされている。

 

政治における訴訟合戦は、上記の裁判例にとどまらない。例えば最近では、「憲法擁護機関」と名乗るNGOが、インラックの海外逃亡に関して、プラウィット副首相と警察長官を「職務怠慢」のかどで国家汚職防止取締委員会に訴えを提起した。ありとあらゆる事案が、裁判所に判断を委ねられかねない。このような状況下では、裁判所の裁定に対する不満と不信も強く、現在、憲法裁判所判決に対する批判を禁ずる法案が議会での審議に入るところである。

 

タックシンは、インラックの逃亡後、久しぶりに沈黙を破りツイッターでメッセージを発信した。そのメッセージの内容は、「モンテスキューはかつて“法の盾と正義の名の下に永続するものほど凶暴な専制政治はない”と述べた」というものであった。同メッセージは、裁判所の政治的裁定を非難していると思われる。

 

しかし、憲法裁判所や最高裁判所の判決について、法学的見地から問題点を指摘しているタムマサート大学法学部の著名な研究者は、「民主主義は票のみですべてを決することができるわけではなく、あくまで少数派との交渉が重要なのだ。政治問題は、選挙のみで解決できるわけでなく、国会などの場において議論や交渉を繰り返し、妥協点を模索する必要がある」と述べ、更に「そのような交渉プロセスがなければ、少数派の人々は、ルールを変更するために、路上に出るか司法に訴えるしか手段がなくなるだろう」と指摘している。

 

2006年以降の裁判所の裁定については、軍の影響力がささやかれ、裁判所の中立性や公正性については疑問視する声が多い。裁判所が、軍など一部政治勢力の道具となっている側面については否定できない。しかし、2006年クーデタ前後から顕著になった「政治の司法化」も、タックシンが政治的手段として使用した「ポピュリズム」も、現代における代議制民主主義の揺らぎから生じた現象であることを忘れてはならない。

 

 

今後の行方

 

タックシンによるポピュリスト的支配は、クーデタ後に統治する暫定政権をより強権的にしてしまったという負の効果をもたらした。2014年5月クーデタとその後の暫定政権による支配は、王位継承問題とも関係しており(2016年10月にプーミポン国王が崩御)、過去のクーデタと同一視できない部分がある。しかし、その点について考慮したとしても、既に3年超も統治を続ける現在のプラユット政権は、異常に統治期間が長くなっている。

 

プラユット首相は、タックシン首相と同様に、毎週テレビの番組を通じ直接に国民に「幸せを取り戻す」ためのメッセージを発し続けている。クーデタにより樹立された政権ではあるが、国民からの人気を非常に気にしており、ソーシャルメディアを中心にマスメディアの情報統制に余念がない。農村に対する所謂ばら撒き政策も行う。同政権は、先祖返りしたような強権的政権であるが、ポピュリスト軍事独裁政権とも形容することができる。タックシンのポピュリズムにより生み出された分裂を抑え込むため、軍事政権側もポピュリズム的支配により対抗していると解釈できよう。

 

今後のタイ政治の行方は、光がないように感じられるかもしれない。しかし前述したように、タイ政治の歴史を振り返ってみると、いずれの勢力や人物であっても、長期的に権力を独占し続けることはできないのが、タイにおける暗黙のルールである。総選挙実施の見通しは確実ではないものの、閣僚内からもプラユット首相が総選挙後も首相として戻ってきたいのであれば、選挙に出るべきであるとの声も聞かれるようになった。タイは今、社会の分裂を乗り越え、新たな民主主義の形を模索していく時期に差し掛かっている。

 

【註釈】

(注1)外山文子著「タイ民主化と政治家の汚職―コメ担保融資制度に対する訴えをヒントに」

シノドス 2014年3月18日掲載記事 https://synodos.jp/international/7504

(注2)ヤン=ヴェルナー・ミュラー著、板橋拓己訳『ポピュリズムとは何か』岩波書店、2017年

(注3)玉田芳史著「タックシン政権の安定:発足3年目にあたって」『アジア・アフリカ地域研究』4-2、PP.167-194、2005年

(注4)タイにおける政治の司法化の起源については、下記文献を参照。

外山文子著「タイにおける半権威主義体制の再登場―連続性と不連続性」『競争的権威主義の安定性/不安定性(日本比較政治学会年報第19号)』、日本比較政治学会、PP.84-116、2017年

(注5)韓国の事例については、以下の記事を参照。

浅羽祐樹著「韓国という「国のかたち」―朴槿恵大統領の弾劾というケース」シノドス 2016年12月21日掲載 https://synodos.jp/international/18771

 

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