ロヒンギャ難民問題――現地調査から見えてくる現状と課題

はじめに――ロヒンギャ難民問題の背景

 

2017年8月、ミャンマー西部ラカイン州から、ロヒンギャと呼ばれる人々が、迫害を逃れて隣国のバングラデシュに大量に移動した。その背景には、長年にわたるミャンマー人のロヒンギャへの迫害があったが、契機になったのは、ロヒンギャの人々によって組織されるアラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)による襲撃事件と、ミャンマー軍の報復攻撃がある。

 

ここで簡単にARSAについて説明をしておく。ARSAは、2012年にパキスタン人のアタウッラーがミャンマーのロヒンギャと創設した武装組織とされる。その後ARSAは2016年10月に、国境検問所など3カ所を約400人で襲撃している。その際にアタウッラーは、バングラデシュ内にすでに置かれていたナヤパラ難民キャンプに潜入し、ロヒンギャ難民に軍事訓練を施していた(バングラデシュ人ジャーナリストによる情報)。

 

その結果、ミャンマー軍はARSAの行為に対し、ロヒンギャの村々を焼き払うなどの対応をとり、結果的にARSAの暴力行為の拡大を招くこととなった。そして2017年8月、ミャンマー軍のロヒンギャ住民に対する掃討作戦が行われ、難民が大量にバングラデシュへと移動し始めたのである。

 

2017年の難民の大量流出から1年が経過した今も、ロヒンギャ難民はバングラデシュの難民キャンプに居住している。ロヒンギャ難民問題について、報道等を通じて伝わる内容は、要約すると以下のようなものだろう。

 

(1)ミャンマー政府軍や仏教徒に迫害されてきたロヒンギャ

 

仏教徒が多いミャンマーにおいて、ロヒンギャはイスラム教徒が多数を占める。ロヒンギャは政府や軍だけでなく、仏教徒にも迫害を受けていた。それはイスラム教の信仰や儀式を認めないというものも含まれる。

 

(2)迫害を逃れてバングラデシュの難民キャンプへ70万人近くのロヒンギャが移動

 

ミャンマーには約100万人のロヒンギャが居住していたと言われているが、2016年~17年の武力衝突以降、その多くが難民として国外に流出した。隣国のバングラデシュのみならず、マレーシアなどへ海路を通って国外退避する者もいる。

 

(3)国連関係者は人道問題として非難

 

ザイド・フセイン国連人権高等弁務官は、ロヒンギャの人々が迫害されている問題を、「ジェノサイドや民族浄化行為が起きた可能性がある」と述べている(朝日新聞 2018年2月6日)。それ以外にも、ミャンマーのロヒンギャに対する迫害は、国際的な非難を多方面から浴びており、ノーベル平和賞を受賞したミャンマーのアウンサンスーチー国家顧問に対する批判も高まっている。

 

(4)国連機関、国際NGOなどは難民キャンプで食糧配給、医療活動などの人道援助を展開

 

フィリッポ・グランディ国連難民高等弁務官は、ロヒンギャ難民問題について、「90年代以降、世界で最も深刻な危機にある」と評し、「国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が、いま最も重点を置いて対処している問題」と発言している(東京都内の日本記者クラブでの会見時の発言。朝日新聞 2017年11月21日)。

 

ロヒンギャ難民キャンプにおいては、UNHCRのほか、世界食糧計画(WFP)、国際移住機関(IOM)などの国際機関、あるいは国境なき医師団(MSF)、ワールドビジョン、国際赤十字社(日本赤十字社も医師、看護師を派遣)などの国際NGOやバングラデシュのローカルNGOが支援活動を行っている。

 

(5)国際社会(日本政府も)はミャンマーへの早期帰還を奨励

 

国連や関係諸国であるミャンマーとバングラデシュ、そして日本を含む援助国は、難民が難民キャンプからミャンマーに早期に帰還することを奨励し、そのための支援も表明している。例えば日本は、河野太郎外相が、難民の帰還を支援するために、約26億円の支援を行うことを表明した(日本経済新聞 2018年1月12日)。

 

(6)一方で難民は帰還することを恐れている

 

その一方で、当事者であるロヒンギャ難民は、キャンプでの困難な生活を強いられつつも、その大半がミャンマーへの帰還を恐れ、拒んでいる。

 

本稿では、筆者が2018年1月後半に行った、バングラデシュ東部におけるロヒンギャ難民キャンプとその周辺地域における調査をもとに、難民キャンプの状況、難民の帰還に対する思い、そしてホストコミュニティ(難民を受け入れている地域とその住民)の置かれている状況について報告する。その上で、ロヒンギャ難民の帰還と再定住に向けた課題について提言を行う。

 

 

ロヒンギャ難民たちが来た道

 

迫害を受けたロヒンギャの人々は、どのようにしてバングラデシュに逃れてきたのだろうか。

 

第一が陸路である。ただ両国間の陸地は山道が険しいため、第二の方法が、両国の国境線を流れる川の川幅の狭いところから小舟で越境するという方法である。そして第三が、ミャンマー軍の国境警備隊の目をくぐりぬけて、川を下り、海に出たところでバングラデシュの南端に上陸するというルートである。

 

 

 

バングラデシュ南端部。この先に国境警備隊の監視所がある。沖に見える山はミャンマー側。

 

 

バングラデシュ政府は、南端から入境したロヒンギャの人々を、当初は国境地帯から移動させなかったが、一時受け入れ態勢を整えて、難民キャンプへと移送することとした。

 

筆者が訪れた、南端部のサブラン(Sabrang)にある一時受け入れ拠点は、小学校内にオフィスを設置して、軍人が常駐していた。彼らによると、一時受け入れからキャンプへの移送の流れは、以下の通りであった。

 

(1)到着した人が難民なのかどうか調べる(ビスケットなどの簡単な食べ物も提供)。言葉は地元民がわかるので、通訳として雇う。持ち物に違法なもの(武器や麻薬)があるかないかについては、すでに国境警備隊がチェックをしているので、ここでは行わない。

 

(2)この受け入れ拠点の横に常駐しているNGOに、彼らが難民であることを伝達する。

 

(3)NGOは援助物資と引き換えできるクーポンを渡し、まずはナヤパラ難民キャンプに移送する。

 

(4)キャンプに到着後、援助物資をもらう(テントづくりに必要な竹やビニールシートなど)。

 

(5)そこから他のキャンプに振り分けられ、そこに移動する。

 

ここに駐在している軍人によると、ミャンマーにいるロヒンギャは、難民キャンプにいるロヒンギャ難民と連絡を取り合っているとのことである。なぜそれが分かるかというと、入境したロヒンギャが、「知り合いや親戚がいるから〇〇キャンプに連れて行ってください」と言ってくるからだそうだ。キャンプへ先に行った家族の一部が、ミャンマーに残った家族にキャンプでの様子や安全かどうかなどについて、連絡を取り合い、情報を共有しているようである。

 

 

一時受け入れ拠点で勤務する軍人と入境記録の帳簿。記録によると、最後は男性14人、女性12人、子ども24人の計50名が、2018年1月20日に入境した(訪問日は1月23日)。

 

 

ロヒンギャ難民キャンプへ

 

ロヒンギャ難民キャンプは、バングラデシュ南東部のミャンマー国境付近に複数点在する。筆者はバングラデシュの首都ダッカから、飛行機でコックスバザールへ移動し、そこを拠点とし、難民キャンプや国境近辺の視察を行った。

 

コックスバザールから車で進むと、幹線道路上では時折、バングラデシュ軍の検問を通過する。これは難民がキャンプから他の地域に流出するのをチェックするために行っているとのことであった。1時間ほど行くと、ウキヤ郡の難民キャンプの近くに差し掛かる。

 

キャンプに近づくと、国連機関や国際NGOの旗をつけたトラックや、配給物資の集積所をあちらこちらに見かける。援助物資はバングラデシュ軍がいったん集約し、NGOらがキャンプで配給するというシステムを取っていた。これは、難民問題発生当初、難民キャンプに勝手に入って、現金や物資を難民に配給する国内外の団体(例えばイスラム教国のNGOや、国内のイスラム教関係者)が多数いたためだとのことであった。

 

バングラデシュのロヒンギャ難民キャンプは、政府の土地の森林を伐採したところに置かれている。意外であったのが、難民キャンプと地元住民の生活圏が近いことであった。例えば道路を挟んだ一方に地元住民が利用する市場があり、反対側が難民キャンプになっているといった具合だ。両者を隔てるもの(壁や鉄条網のような)ものはなく、難民はキャンプの敷地を自由に出ることができた。買い物をする人もいれば、あるいは外国の援助団体やメディア関係者に物乞いをする人もいた。

 

ところでロヒンギャ難民問題は、今に始まったことではなく、1991年中頃から92年初頭にかけても、25万人以上がバングラデシュに逃れ、クトゥパロン難民キャンプやナヤパラ難民キャンプが設置された。その後、多くはミャンマーに帰還したものの、一部は現在に至るまで残留している。そこに今回の大量の難民流入により、難民キャンプを拡張することになったのである。

 

2017年夏以降にバングラデシュに避難したロヒンギャの人々は、キャンプに到着したのちに難民登録を行い、バーコード付きのIDカードを配布される。このバーコードで、生活物資や食料の配給を管理することになっている。その後、難民たちは、キャンプで木材の骨組みにビニールシートやトタンを張って作られた「家」に、居住することになる。

 

 

IDカード。子どもも含め、一人につき一枚発行される。裏面に配給記録を管理するバーコードがある。

 

難民キャンプの外観

 

難民たちの「仮設住宅」

 

物資の配給所

 

難民キャンプ内の給水活動

 

援助機関の支援による難民キャンプ内の小学校。教師も難民。この日はビルマ語の授業が行われていた。

 

キャンプ内でサッカーをする難民の子どもたち

 

 

なぜミャンマーを逃れたのか?――ロヒンギャ難民への聞き取りから

 

ここで、筆者が行ったロヒンギャ難民への聞き取りをもとに、ラカイン州でどのような経験をし、いかなる経緯でバングラデシュにたどり着いたかを紹介することで、「難民」と一括りにされてしまう人々の姿を見てもらいたい。なお聞き取り調査は、チッタゴン(バングラデシュ南東部の地名、同地域の言語はロヒンギャのものと近い)出身のバングラデシュ人の通訳を介して行った。

 

・アブドゥル・ラーマンさん(22歳、男性)

ミャンマーでは野菜を売ったり、日雇い労働で生活していた。子どもの時に父親を亡くして、残された土地と畑で弟たちを養った。アラーのおかげでいい暮らしだった。

 

ミャンマーではロヒンギャは認められていない。お前たちはベンガル人なのだから帰れと言われた。またロヒンギャはARSAだから出て行けと言われた。本当はアラカン(ラカイン州)にいたかった。生活に必要な大きな刀を持っていると、ミャンマーからARSAだと疑われたりもした。きれいな女性はレイプされたり、若い男は建物に閉じ込められたまま燃やされて殺されたりした。ミャンマー人はモスクを傷つけるなどして、腹立たしい。

 

2017年10月はじめの祭りの後、ムンドゥのボリバザールという村から、妻と子ども二人とともに越境した。6日間、何も食べないで歩いてきた。子どもも抱えて歩いていたので、子どもは死んでしまったかとも思った。最初の1か月は森で暮らしており、その後、難民キャンプへ。今は、アラーのおかげで、ここで暮らせている。

 

・氏名不詳(20代、男性)

2017年9月初めの祭りの後にキャンプに来た。ムンドゥのボディアバザールから来た。ここに来る前は、マドラサ(イスラム神学校)で勉強をしていた。2012年以降は、家庭の事情で学校に行けなくなり、家業の農家を手伝っていた。アラカン(ラカイン州)にもロヒンギャの収容所がある。そこは2012年からあるが、今、帰国しても、そこに行くことになるだろう。今の難民キャンプの方が、そこに比べると行動の自由はある。ミャンマーではいろいろな不安があったが、一つは、若い女性らがレイプされたりした。ロヒンギャの男たちが抵抗すると、ミャンマー人から報復を受けた(家を燃やされるなど)。またコーランを読むことも禁じられた。複数人で集まっているだけで、とがめられた。自由がない。

 

・ジョバイエットさん(男性、18歳)

5人兄弟の長男で、ミャンマー軍に家を焼かれ、ラカインにあるロヒンギャの収容所へ移送された。その後、2017年11月にボートで越境し、難民キャンプに到着した。ミャンマー人に対しては、口では言い表せないほどつらい気持ちがある。

 

・シャー・アロムさん(26歳、男性)

ミャンマーのムスジョンから来た。あちらは平和ではなく、自由に暮らせないから、こちらに来た。あちらでは魚を売る仕事をしていた。父母、兄弟とともにキャンプに来た。ミャンマーは故郷なので帰りたいが、自由がないので、帰ることができない。無理に帰還させようとするなら、こちらで死んだほうがいい。こちらなら、死んでもイスラム教の儀式にのっとって埋葬してくれるから。

 

・ムルボショさん(65歳、男性)

妻と6人の子どもたち(1男5女)とともに、2017年9月の祭りの後に、ミャンマーのラカイン州のブジドンから逃れてきた。住んでいる家を嫌がらせで破壊された。

 

 

難民キャンプ内の状況

 

●援助物資

 

難民キャンプでの援助物資は、2018年1月の時点では、1か月に1回(難民問題発生当初は半月に1回)食糧配給が行われていたが、その内容はコメ、豆、食用油とのことであった。薪や炭、フライパンやバケツなどの生活用品も配給されている。それらの分量についての不満の声はほとんど聞かなかったが、キャンプ内で商売を営む難民たちは、肉、魚、野菜などは自分で購入しないと手に入らないため、現金が必要だと語っていた。またミャンマーに残した家族と連絡を取るためには、携帯電話の通話料金(プリペイド式)も自分で支払わなければならない。したがって商売や物乞いなどによる現金収入を必要としていた。

 

●キャンプ内で商売をする難民たち

 

難民キャンプに足を踏み入れてまず驚くのが、多種多様な露店が難民たちによって経営されていることである。「難民キャンプ」と言われなければ、アジアでよく見る市場と間違えてもおかしくはないといった様相である。着の身着のままでバングラデシュに逃れた難民たちが、なぜ商売を始められるのか。

 

若い商店主に聞いたところ、彼はキャンプに来た当時は、何の財産も持っていなかったとのことである。しかしバングラデシュ人の支援団体やイスラム僧などが現金を支援してくれて(注:後に外部団体の現金の配布は禁じられた)、それを元手に彼はキャンプ内で商店を開いた。商品は、キャンプ外のバングラデシュ人がキャンプまで売りに来るので、それを仕入れている。彼の店は菓子類などを扱っていた。他にもたらいやバケツなどのプラスチック製品を販売する店や、仕立て屋や床屋を経営している難民もいた。

 

しかしながら、難民が町に出て仕事をすることはできない。ある難民によると、ウキヤの町で仕事をすれば、より高い現金収入も得られるのだが、バングラデシュ軍の検問があるために、そこまでは行けないとのことだった。もっとも、キャンプ近辺のバングラデシュ人の畑で農作業に従事し、日当をもらっている難民もいるとのことであった。これも厳密には認められていない。そして難民たちは、バングラデシュ人より安い日当で雇用することができるため、農作業を手伝って賃金を得ていたバングラデシュ人の中には不満の声もある。

 

 

難民キャンプ内の商店

 

 

●雇用創出プロジェクト

 

経済的自立のために、キャンプ内で商売を行う難民がいるのと同時に、国連機関や国際NGOが難民を雇用して支援業務に従事させる場合や、難民をキャンプ内の特定の労働(キャンプ内の通路の整備など)に雇用し、現金収入を支援するプロジェクトもある。

 

筆者はクトゥパロン難民キャンプで、現地NGOのMUKTI Cox’s Bazaar が行っているプロジェクト“Cash for Work Activities”の活動を訪れた。この活動は、病気や出産などで現金が必要な人のための雇用を作ることを目的とし、ここではキャンプ周囲の道路づくりを行っていた。給与は現金で支払うことになっており、5時間で250タカ(300円程度)とのことであった。

 

筆者が驚いたのは、給与がクーポン券(特定の場所で食料や生活物資に限定して使用できるもの)などではなく、現金で支払われていることであった。政治的暴力によって生じた難民キャンプにおいて現金が流通することは、その現金が何らかの勢力によって吸い上げられ、たとえばARSAのような武装勢力の資金源になることも考えられる。筆者が滞在中に面会した難民問題を取材する現地人ジャーナリストも、難民キャンプが麻薬取引の中継点(難民が運び屋をする)となっていることを指摘していた。

 

 

Cash for Workのバナー

 

Cash for Workの雇用創出プロジェクトの一例(通路整備作業)

 

 

●難民キャンプ内の利権構造と難民の不利益

 

2017年8月以降、1年以上がたった今も、生活環境が劣悪な難民キャンプでの生活は続いており、筆者が調査を行った2018年1月末の時点でも、すでにキャンプ内の難民間でさまざまな問題が噴出していた。

 

ビニールシートを張ってできたテント状の仮設住宅は、互いに非常に隣接している。そのため、騒音、水漏れ、いやがらせ、子どもがトイレ以外で排泄するなどにより、難民同士が衝突することが増えているとのことであった。いさかいが高じて、テント住宅を破壊された難民もいた。しかしそれは、言ってしまえばマイナーな問題である。例えば日本の被災地の仮設住宅や避難所でも、程度の差こそあれ、隣人とのトラブルはあるだろう。

 

しかしロヒンギャ難民キャンプでは、キャンプでの生活が長期化したことにより、いわば「利権構造」ができて、それに起因する問題が生じていることが分かった。

 

広大な難民キャンプは地区ごとに区割りがされており、それぞれのブロックには物資配給や情報伝達など、援助活動を円滑にするための援助機関との「窓口」の役割をする難民のリーダーが選出されている。つまり一つひとつのブロックが自治会のようになっているのである。

 

しかしながら、ある難民は、自分のブロックのリーダーに不平を漏らしていた。彼のブロックでは、リーダーが、本来なら自分のブロックの難民の世帯に配布すべきクーポン券(援助物資と引き換えにする)を難民に配らずに、金銭で売却したり、賭け事に使ったりしているとのことだった。そのリーダーは、ミャンマーにいた頃からそのようなことをしていた男だったという(マフィア的なもの)。彼はバングラデシュの難民キャンプに避難したのちに、リーダー役に手を挙げ、強引にそのブロックの難民に認めさせた。

 

はじめのうちはリーダーとしての役割を果たしていたが、だんだんそのような横領行為を行うようになったらしい。そして援助団体は、そのような権力構造や不正行為を知ることができないのである。このことを話してくれた難民の青年は、リーダーの変更をバングラデシュ軍に申し立てたところ、それは難民側が決める問題であると言われたという。しかしそのブロックの総意を示せないとリーダーを解任することはできない。それは事実上、困難だと語っていた。

 

そのようなキャンプ内「マフィア」は、例えば新しく来た難民に対し、「ショバ代」を要求する場合がある。筆者が訪れたキャンプのあるブロックで、最近(2018年1月中旬頃)になってキャンプに来た難民が語ってくれたのが、以前からいる難民の「マフィア」のボスとその仲間が、ここに家を建てるなら金を出せと要求してきたことである。彼は金がないために断ったが、その結果、その者たちに家を破壊された(屋根のビニールシートをはがされた)とのことである。

 

 

嫌がらせを受けて屋根のビニールシートをはがされた住宅

 

金を要求されたが断ったために家を他の難民に破壊されたロヒンギャの男性

 

 

また17時以降は、援助団体、メディア関係者、そしてバングラデシュ軍も難民キャンプから出ていくことになっている(援助団体スタッフは、コックスバザールなどから毎日、キャンプに通っている)。夜の難民キャンプ内では、レイプなどの事件も発生しているという。

 

このキャンプにいる難民は、ミャンマーの迫害を逃れ、難民とならざるを得なかった弱者である。これについては疑いはない。だが同じ難民同士で、弱い者がさらに弱い者を虐げる現状が、キャンプの中にはある。これもまた、難民問題を早期に解決できないがために引き起こされてしまった問題なのである。

 

●2018年1月19日の難民リーダー殺人事件

 

筆者が調査を開始した2018年1月21日の朝、アシスタントを通じて、キャンプ内の難民のリーダーの一人が、1月19日の夜に複数の人間に襲撃されて殺害された、しかも射殺だったという一報が入った。その後、被害者はムハンマド・ユスフ氏であると分かった。彼はリーダーとして、同時期に難民キャンプを視察することになっていた国連人権特別報告者のヤンヒ・リー氏への嘆願書を書いていたという。

 

その内容は、帰還するには、ミャンマーにおけるロヒンギャの権利が保証されることが必要である旨が記されていたという。筆者と同時期に難民キャンプを取材していたジャーナリストの田中龍作氏は、そのブログ「田中龍作ジャーナル」(2018年1月21日)において、ユスフ氏の妻にインタビューを試みており、事件の状況を記している。

 

では、誰が、何のためにユスフ氏を殺害したのか? ロイターの記事(2018年7月4日)では、難民キャンプで殺人事件が頻発するようになり、バングラデシュ警察の捜査に対し、難民たちは恐れから証言をためらう傾向にあるとしている。キャンプ内の事件に対し、事実確認をすることの困難さを読み取れる。それだけ、目に見えない緊張が潜在的にあるのだろう。

 

しかし、筆者が現地調査期間中に、ウキヤ郡警察署長に面会(事件から6日後の1月25日)したところ、署長は捜査中のために詳細は話すことはできないと言っていたが、周囲の難民の証言によると、覆面をしてユスフ氏を殺害事した件の実行者たちは、ビルマ語を話していたとのことである。ロヒンギャの人々は独自の言語を使っているため、覆面をした下手人はミャンマーから送られた者なのであろうか。前述した現地人ジャーナリストも、この事件の暗殺者は殺人のプロであろうと指摘していた。そしてユスフ氏は条件が整えば帰還を希望するリーダーだったことで、この殺人は、難民はミャンマーに帰還するなというメッセージではないかとも語っていた。

 

●同胞から迫害されるロヒンギャのヒンドゥー教徒

 

2017年夏以降のロヒンギャ難民問題は、「仏教徒中心のミャンマー人によるイスラム教徒のロヒンギャへの迫害」という構図で語られることが多い。その結果、ミャンマー政府は、国連人権理事会などからの非難に直面している。もちろん、その構図に間違いはない。ただ見落とされているのは、ロヒンギャのヒンドゥー教徒が、同じロヒンギャのイスラム教徒から迫害を受けているという点である。

 

国際人権NGOのアムネスティ・インターナショナルは、2018年6月1日に発表した国際事務局発表ニュース「ミャンマー(ビルマ):ロヒンギャ武装組織による虐殺行為」の中で、2017年8月にミャンマー軍がロヒンギャの村々を攻撃した際に、ARSAがロヒンギャのヒンドゥー教徒を99人殺害したことを報告している。しかしこれは突発的に起こったのではなく、彼らが難民キャンプに来る以前からも、ロヒンギャのイスラム教徒によるヒンドゥー教徒への迫害は行われていたといわれている。

 

写真家の木村聡氏による記事の中でも、イスラム教に改宗することを強要されたり、イスラム教徒から暴力を受けたりしたヒンドゥー教徒の証言が示されている(「ロヒンギャが直面する想像以上に深刻な対立」東洋経済、2018年1月1日)。

 

筆者がロヒンギャ難民キャンプで出会ったヒンドゥー教徒の男性は、イスラム教徒から受けた暴力について、以下のように語ってくれた。

 

私はミャンマーにいた時に、ロヒンギャのイスラム教徒に金を貸していました。バングラデシュの難民キャンプに来てから、その人から連絡があり、金を返したいので彼のキャンプまで取りに来てほしいと言われました。そこで私は、仲間たち10人とそのキャンプを訪れました。そうしたらいきなり、彼らが私たちに暴力をふるいだしたのです。私の仲間たち7人くらいは逃げることができましたが、私は服を脱がされ、ロープで縛られて、棒や素手で殴られましたた。腕や背中も切り付けられました。彼らは私が死んだと思い、私は森の中に捨てられました。その後、4日間、私は森の中にいました。森の中で意識が戻った後、森を出て、人から服を借りて、自分のキャンプに帰ることができました。傷は病院で治療してもらいました。今、ミャンマーに帰還したら、また同じような目にあうと思います。安全が保障されることが分かれば帰りたいですが、イスラム教徒と同じところには帰りたくないです。私自身は、ミャンマー人からの迫害を受けたことはありませんでした。

 

 

ヒンドゥー教徒のロヒンギャ難民と

 

イスラム教徒から受けた傷跡を見せる男性

 

このように、ロヒンギャの間でも、宗教の違いに起因する対立や迫害が、程度の違いはあっても存在している。したがって、「ミャンマー人に迫害されるかわいそうなロヒンギャ」という見方は間違ってはいないが、十分でもない。ロヒンギャ難民への人権侵害に対して、ミャンマー政府は非難を浴びているが、同時に、すべてのロヒンギャが「イノセント」というわけでもないのである。【次ページにつづく】

 

 

シノドスのコンテンツ

 

●ファンクラブ「SYNODOS SOCIAL」

⇒ https://camp-fire.jp/projects/view/14015

 

●電子メールマガジン「αシノドス」

⇒ https://synodos.jp/a-synodos

 

●少人数制セミナー「シノドス・サークル」

⇒ https://synodos.jp/article/20937

 

 

 

 

1 2
シノドス国際社会動向研究所

vol.256 

・熊坂元大「「道徳教育」はこうすれば良くなる」
・穂鷹知美「終の住処としての外国――スイスの老人ホームにおける 「地中海クラブ」の試み」
・徳山豪「アルゴリズムが社会を動かす」
・鈴木崇弘「自民党シンクタンク史(1)――シンクタンク創設への思いとその戦い」