チェチェン問題とアメリカ ―― ボストン・テロの背景にある問題

不可解なテロと先入観

 

4月15日、アメリカのボストンにて、世界中が注目する国際マラソンにおいて発生した爆破事件は、犯人とされるアメリカ在住のチェチェン兄弟の兄が死亡し、弟が逮捕されたことで収束に向かっている。日本でもアメリカでも、チェチェン問題についてはあまり知られていないので、今回の事件は「チェチェン独立派の中の急進的なイスラーム思想を信仰する勢力が、『イスラームの敵』であるアメリカにおいてテロを行った」と理解されている印象を各種報道から受ける。筆者は、このような先入観をここで覆したい。

 

この問題はもっと複雑である。まず、チェチェン独立派はもはや武装勢力としてほとんど消滅しており、北コーカサスにおいてはその政治基盤すらない。実際に北コーカサスで闘争をつづけているのは、独立派から枝分かれした急進的イスラーム勢力である。しかし、この急進的イスラーム勢力は、その能力においても目的においても対露闘争を最優先事項としており、アメリカを直接の攻撃対象とみなしてこなかった。そして、チェチェンとアメリカの関係は、亡命したチェチェン独立派指導者がアメリカの政治勢力やロビーストと協力関係にあるなど、テロ事件が発生するまで、敵対的というよりもむしろ良好なものであったのである。

 

このような事実を踏まえると、今回のテロに対するわれわれの捉え方は変化する。このテロは本来、チェチェン人にとって何ら利益を生まない行為のように思えるからである。したがって、われわれにとってもっとも衝撃的な事実は、「アメリカがふたたびイスラーム過激主義者によって攻撃された」などという点にあるのではなく、「アメリカがチェチェン人によって初めて攻撃された」という点にあることに気がつくだろう。

 

現在も犯行の動機は明らかではなく、現状の限られた情報ではテロの動機や全容解明は困難である。しかもインターネット上では、民兵会社Craft Internationalの関与やFBI陰謀論も出てきており、今後もしばらく情報は錯綜しそうである。そこで、この小論ではテロの動機や全容解明ではなく、この事件を捉える際に押さえておかなければならない種々の事実 ――つまり、チェチェン紛争に対するアメリカの立場、チェチェン人とアメリカ社会の関係など―― を提示することで、冒頭にあげたようなこの事件への先入観を払拭することに重点をおきたい。

 

以下では、まず今回のテロの犯人とされるチェチェン人兄弟が持つ複雑な経歴を読み解きつつ、読者にとって馴染みのないチェチェン問題についても簡単に説明することからはじめたい。

 

 

ツァルナエフ兄弟が物語るチェチェン問題

 

筆者は現在、中央アジアのキルギス(クルグズ)共和国に滞在している。犯人とされるツァルナエフ兄弟のうち、兄のタメルランがこのキルギス出身だというニュースが流れたとき、少なからぬ驚きをおぼえた。しかし、すぐにこの兄弟はチェチェン人の歴史を体現しているのではないかと思うようになった。読者の中には、「なぜ中央アジア出身のキルギス市民(チェチェン人)がチェチェン紛争によってアメリカに逃れたのだろうか」と疑問を持つ方も多いだろう。

 

2009年の国勢調査によれば、現在、キルギス共和国には1875人のチェチェン人が居住している。人口が約540万の同国において、彼らは非常に小さな割合しか占めていないが、じつはもともとキルギス共和国にはチェチェン人は居住していなかった。彼らは、1944年にスターリンによって、「対独協力をした敵対民族」の汚名を着せられ、他の北コーカサスの民族とともに中央アジアに強制移住させられたのである。

 

強制移住は何の前触れもなく行われ、抵抗する者、身重や病気で動けない者は殺害された。そして集められた人々は、列車に詰め込まれ、休憩や食事も満足に与えられない劣悪な環境で長時間・長距離を移送されたため、多くの人々が命を失った。なお、彼らの自治共和国も廃止され、その領土は周辺の共和国に分割された。

 

このようにして中央アジアに強制移住させられたチェチェン人のほとんどは、フルシチョフが「スターリン批判」をした翌年(1957年)、復活したチェチェン・イングーシ自治共和国に帰還した。それでもカザフスタンやキルギスには少なからぬチェチェン人(1959年の国勢調査で前者には約13万人、後者には約2万5000人)が居住していた。今回のテロ事件の犯人とされるチェチェン人兄弟の兄(タメルラン)も、このような経緯からキルギスで生まれた。

 

兄のタメルランが生まれてすぐにソ連ではペレストロイカ、その後にはソ連の解体と連邦構成共和国の独立という激動の変化が生じたが、彼らの故郷のチェチェンでは民族主義的な勢力が政権を握り、ロシアからの独立を標榜した。キルギスに居住していたときの隣人の話では、ちょうどこの時期(92年頃)に彼らはチェチェンに帰国したようである。その後、第一次チェチェン紛争(1994〜96年)が近づくと身重の母はダゲスタンに逃れ、そこで弟のジョハルが生まれた。じつは、このジョハルという名前は、チェチェン(独立派)初代大統領・ドゥダーエフのファーストネームと同じである。ジョハル・ツァルナエフもその名前によって、彼らチェチェン人が当時おかれていた状況を物語っている。

 

アメリカに移住するまでのツァルナエフ兄弟の詳細な足取りは不明だが、彼らの移住は、2002年から03年頃とされている。じつは、この頃は第二次チェチェン紛争(1999年〜?)で苦戦を強いられていた独立派内部の過激派集団が、ロシアに対してテロ戦術を採り始めた時期であり、モスクワ劇場占拠事件をはじめ、チェチェン独立派の犯行とされるテロが頻発した。そして、これに対するロシア側の「テロリスト掃討作戦」も激しくなった。この頃、ロシアは、難民キャンプなどがテロリストや武装勢力の拠点となっているという理由で、チェチェンの隣国イングーシやダゲスタンにあった難民キャンプを閉鎖し、難民をチェチェンに強制送還し始めていた。こうしたこともあり、兄弟はアメリカに逃れたのだろう。

 

このようにしてアメリカに逃れたツァルナエフ兄弟は、なぜアメリカでテロを行うこととなったのであろうか。アメリカは、ある側面においてはチェチェン人たちの擁護者ですらあったのに、である。以下では、チェチェン問題とアメリカの関係に話を移したい。

 

 

 

シノドスをサポートしてくれませんか?

 

●シノドスはみなさまのサポートを必要としています。ぜひファンクラブ「SYNODOS SOCIAL」へのご参加をご検討ください。

⇒ https://camp-fire.jp/projects/view/14015

 

●シノドスがお届けする電子メールマガジン「αシノドス」

⇒ https://synodos.jp/a-synodos

 

●少人数制セミナー&Facebookグループ交流「シノドス・サークル」

⇒ https://synodos.jp/article/20937

 

 

 

 

1 2
シノドス国際社会動向研究所

vol.254 公共性と社会

1.長谷川陽子「知の巨人たち――ハンナ・アーレント」
2.岸本聡子「公共サービスを取り戻す」
3.斉藤賢爾「ブロックチェーンってなあに?」
4.山岸倫子「貪欲なまでに豊かさを追いかける」