「アッラーを立法者とする法(シャリーア)」からヨーロッパ近代法への問い――ジハードをめぐって

小ジハードから大ジハードへ

 

教えと実践が著しく乖離した例として挙げられるべきが、ジハードであろう。自爆テロなどと結びつき、イスラーム教徒による無差別の武力行使のような印象さえもたれかねないこの言葉であるが、本来は、武力行使を伴うものではなかった。むしろよい態度とよい言葉でイスラームの教えを説いてまわることがジハードだったのである。《だから不信心者に従ってはならない。かれらに対してこの(クルアーン)をもって大いに奮闘努力しなさい》(識別章52)と聖典クルアーンは教える。

 

あまり知られていないことだが、イスラームは、ヒジュラ以前、迫害を受けながらも宣教を続けていたメッカ期においては、人を殺すこと自体を禁じている。むしろ、まさに《善い御言葉》(イブラーヒーム章24)と《英知と良い話し方》(蜜蜂章125)そして《最善の態度(による)議論》(同)により、たとえ《(人が悪をしかけても)一層善行で悪を追い払え。そうすれば、互いの間に敵意ある者でも、親しい友のようになる》(フッスィラ章34)に明らかなように、悪に対しては善を以ってこれに報いよというのが基本的な姿勢である。

 

武力行使を伴うジハードが許されたのは、マディーナ(メディナ)に移った後で、マディーナに成立した政治的共同体の主権、すなわち人民、領域、イスラームによる統治を防御するための戦いに限られたのである。(ブーティー「人権」43頁以下)しかもそれは、私利私欲などのためではなくアッラーの道のための戦いであり、その対象が、「あなたがたに戦いを挑む者」であることが明言され、しかもその際、侵略的になることが禁じられている。《あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え。だが侵略的であってはならない。本当にアッラーは侵略者を愛さない》(雌牛章190)のである。

 

注釈学者によれば、「侵略的であるな」とは、「『先制によって』侵略的であるな」ということであるという(ジャラーライニ)。なぜならば、先制を行えば、自分たちから先に相手方に悪を被らせることになるからである。先制攻撃は、「あなたがたに戦いを挑む者があれば~戦え」という前段の内容とも齟齬をきたしてしまう。

 

戦闘においては、手荒な扱い、戦利品のごまかし、さらに、女性、子供、年寄り、宗教者などの殺害、樹木の焼き払い、無益な殺生といった禁止事項が犯されがちだが、そうした侵略的な行為を禁じたものである(イブン・カスィール)。

 

そのことは、聖預言者の言行によっても裏付けられる。イブン・カスィールは、ムハンマドが軍隊を送る場合に言ったとされる「アッラーの御名によって出征し、アッラーの道においてアッラーに対する不信心者たちと戦え。(その際)侵略的ではなく、戦利品をごまかさず、過酷な扱いをせず、子供たちや僧たちを殺すなかれ」ということばや、聖預言者が「女性や子供の殺害を否定した」という伝承などを、上の聖句の注釈において引用している。

 

その一方で、クルアーンの中には、そうした戦いの一つであるウフドの戦いについて下された聖句があって、《もしかれらが背をむけるならば、ところかまわずかれらを捕え、見付け次第かれらを殺せ。》(婦人章89)と命じる。しかし、これを一般的に武力行使によるジハードの正当性の根拠とすることは難しい。なぜならば、この聖句に言う《かれら》とは、ムスリム軍を重大な任務放棄によって危機的な分裂状態をもたらした偽信者たちのことであるからである。しかも、彼らは悔悛すれば殺されることはないし、《あなたがたと盟約した民に仲間入りしたもの、またはあなたがたとも自分の人々とも戦わないと、心に決めて、あなたのところへやって来る者は別である》(婦人章90)ともしている。したがって、《ところかまわずかれらを捕え、見付け次第かれらを殺せ。》とは言っても、かなり厳しい限定がかけられていることがわかる。

 

このように武力によるジハードが認められたとは言っても、それは、ジハード全体からみれば、非常に限定的である。実際、戦闘を伴う武力によるジハードは「小ジハード」の名で呼ばれ、日々の自分自身と戦いで、すべての信者に課せられる「大ジハード」とは区別される。あくまでも主流は、マッカ期から続く宣教を基調としつつ、宗教や価値観の異なる人々に対しよい言葉とよい態度で人々との間によい関係を作るジハードなのである。

 

 

イスラームの教育を取り戻す

 

テロリズムについては、それを意味するアラビヤ語「イルハーブ」が、聖典クルアーンの中で《かれらに対して、アッラーの敵、あなたがたの敵に恐怖を与えるよう、あなたのできる限りの力と多くの繋いだ馬を備えなさい。》(戦利品60)「恐怖を与える」を表す語として用いられている。これは、一見テロリズムを肯定しているように見えるが、それは《力と多くの繋いだ馬を備え》ることによるのであって、無差別の殺戮行為によるものでないことは明らかである。

 

なおこの聖句は、「バドルの戦役に際して、ムスリム側に十分な準備がなく、いつの世も準備なきところに勝利なきことを知らしめるもの」(サーブーニー『サフワ』480頁)であり、「諸共同体にとってその存在、国威、尊厳、国境、安全、栄誉、繁栄を守るための準備の必要として一般性を有したものとして捉えられる」(ズハイリー『タフシール』10巻52頁)のである。

 

《多くの繋いだ馬を備えよ》とは「時代に合った武器を備えよ」ということで、たとえば、常備軍を配備することであると解され(ズハイリー『タフシール』10巻50頁)、《力を備えよ》に言う「力」とはあらゆる種類の力を指し、物理的な力と精神的な力の両方を備えることであるとされる。「物理的な力とは、イスラーム諸国内で作られた、敵の戦力に見合った、時代に相応しい武器をいい、精神的な力とは、才能や能力を呼び覚まし、人々に戦いへの気持ちの準備をさせ、真のイスラームの信仰と正しい宗教的な倫理で武装させることであり、これがなければ、敵に対する勝利はない」(ズハイリー『タフシール』10巻49頁)。

 

現代を代表するクルアーン注釈学者であるサーブーニーは、この聖句について、「イスラーム諸国に兵器工場はなく、武器の備えもなく、ただ、敵からすべてを買っているという状況の中で、なぜ、敵がイスラームの諸王国を食い物にしないということができるのか?われわれがもし威厳と高貴に満ちた生を望むならば、イスラームの教育を取り戻すほかにない」(サーブーニー『サフワ』481頁)と指摘している。

 

 

 

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vol.2019.4.15 

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