英語は「地味」だから居心地がいい――英米文学の味わい方を知る

――「詩」の定義が変わってきたので、なにが詩なのか曖昧になってきたのでしょうか。

 

そうです。ただ、急に具体的なことを言いますが、絶対的にありそうなのは、詩が繰り返しの原理に基づいているということです。たとえば、英文学からの例をあげると、ウィリアム・ブレイクに「虎」(‘Tyger’)という作品があります。

 

Tyger Tyger, burning bright,

In the forests of the night;

What immortal hand or eye,

Could frame thy fearful symmetry?

 

In what distant deeps or skies.

Burnt the fire of thine eyes?

On what wings dare he aspire?

What the hand, dare seize the fire?

 

And what shoulder, & what art,

Could twist the sinews of thy heart?

And when thy heart began to beat,

What dread hand? & what dread feet?

 

What the hammer? what the chain,

In what furnace was thy brain?

What the anvil? what dread grasp,

Dare its deadly terrors clasp!

 

When the stars threw down their spears

And water’d heaven with their tears:

Did he smile his work to see?

Did he who made the Lamb make thee?

 

Tyger Tyger burning bright,

In the forests of the night:

What immortal hand or eye,

Dare frame thy fearful symmetry?

 

この詩のひとつの注目しどころは、Tygerという語が何度も出てくるということです。Tygerの繰り返しこそが威力を生んでいる。同じ言葉を繰り返されたってしょうがない、ちっとも情報が増えないじゃないかという人もいるかもしれませんが、詩というのはまさにそれが売りなのです。

 

つまり、情報は増えないのに、Tygerという語を繰り返していくうちに魔法のように、あるいは呪文のように、Tygerの意味もかわっていくし、何かこちらの心の中にむくむくと変なものが芽生えてくるのです。

 

どうやら詩には、こんなふうに反復を繰り返しながら何かを浮かび上がらせたり、こちらを変な気分にさせたりする力があるようなのです。英語の詩では、何かに呼びかけて、その呼びかけの作用で魔術的な作用を引き起こすものも多いです。

 

実際、この「虎」という詩、聞いているうちにむくむくと変な気分がわき起こってきませんか?

 

 

――はい! すごく力を感じました。こちらの首根っこをつかまえられたような気分です。

 

さっきも言ったように、そもそも詩は紙がないところに言葉を記録するための装置でした。重要な情報を後世に伝えるために、言葉にリズムを与えて、印象に深く残すようにしたのです。日本語には7・5調のリズムがありますし、英語も固有のリズムがあります。

 

しかし、印刷の技術が開発されると事情が変わってきます。言葉が印刷され、いくらでも増刷することが可能になると、繰り返すことよりも、効率よく情報を伝えることが求められるようになる。それとともに、繰り返しがもっていた呪術的な作用も忘れられていきます。

 

散文は繰り返しをすごく嫌います。新聞記事をみても、1行目と4行目に同じことを言っていたら変ですよね。あるいは語尾なども、「~だった」「~だった」なんていうふうに単調に繰り返すのを避ける。散文では、増えたり、展開したりすることの方がいいことなのです。詩では繰り返しが良しとされていたけれど、散文では繰り返さずにどんどん移り変わり、変化することが大事になる。

 

今、ぼくたちは同じことを繰り返す人を、変人だと思います。まちがえて同じ人に同じ話をすると、「それ、昨日言ったよ」といちいち指摘される。でも、何度も同じことを繰り返すような知の形もありうるのかもしれない。少なくとも、昔はありました。昔の人と今の人では、知のルールが違うのだと思います。

 

文部科学省出身で「ゆとり教育」を導入した寺脇研さんが書いた『文部科学省―「三流官庁」の知られざる素顔』(中央公論新社)という本があります。むかし、文科省は三流官庁と呼ばれていたそうですが、寺脇さんはそんな官庁が一流と言われるようになるために改革したんだ、と言う。

 

なぜ文科省は三流だったのか。それは「メンテナス官庁」だったからです。今ある制度を維持しけばいいと思っていた。学校などに予算をいつも通りに配分し、問題があったら修正していけばよかった。ですが、寺脇さんはそれを企画型に変更した。

 

そこに導入されたのは、こんな考え方です。なにか新しいことを言えば、お金をやる、でも新しいことを言わなければお金はやらない、むしろ減らされる、と。おかげで文科省の官僚の方々もどんどん企画を提案するようになったし、その下にある大学もそうせざるをえなくなった。それが現状です。教育が企画型になった。

 

でも、果たしてそれでうまくいくのでしょうか。研究だけならまだわかりますが、教育の大事な部分は詩と似ているとぼくは思います。つまり、同じことを繰り返すことで伝える、という知の形がある。さっきの「虎」の詩と同じで、繰り返しているうちに、新しいことが生まれたり、いつの間にか繰り返されていることの意味が変貌したりする。

 

そういう部分はせかせかするのをいったんやめ、心を落ち着けて時間をかけて見ないとわからない知の要素で、でも、人間の生命の安定性を深いところで支えているのもそういうものではないかと思ったりします。新しい提案を打ち出すのもたしかに必要ですが、それだけでは掬いとれない部分にもう少し目をやってもいいのではないかと思うわけです。

 

今の文化は、つねにより新しいものを追い求めていきます。この流れはかわらないでしょう。でもそれとバランスをとるものがどこかで必要になる。詩は昔ながらの知の形としての反復の威力をその芯にもっていますから、前のめりになりがちな今の社会に対する有効なアンチテーゼになるかもしれません。

 

とはいえ、まぁ、あまり勝ち目はないでしょうけどね(笑)。メディアの中で詩が生き残っていく余地はあまり無いだろうなぁと感じています。SNSでどんどん流れていく言葉の活気に慣れると、1分後には違う言葉が出てくる感覚がふつうになってしまいます。そんな流れの中にいつまでも変わらないものがあると、「な~んだ。まだ同じ事を言ってる」となる。気持ちが忙しいのです。

 

急ぎ足の人から見ると、詩集の言葉なんてよどんでいるようにしか見えない。ぼくは普通の人よりだいぶ詩を読んでいると思うのですが、それでもついつい忙しい気分に陥っているので、詩を読むときにはスイッチの入れ替えが必要です。

 

 

――SNSなどを見ていると、仕事の辛そうな人から、投稿が詩的になっていくので、「労働は人を詩人にさせるのだなぁ」と思っていたのですが、私がここで感じていた「詩」は、「成長」「出会い」「感謝」のような定型の繰り返しだったのだなぁと思いました。ちなみに、他人の「詩的」なものをみたときに、意地悪な気持ちがむくむく湧き起ってくる人が多いと思うのですが、なぜなのでしょうか。

 

日本の学校教育で紹介される「詩」は、「自分の大切なものを恥ずかしいけど人前にさらす」タイプのものが多いからかもしれません。「こんな私だけど許してね」みたいに、恥ずかしそうに言葉を差し出してくる。これはロマン派以来の、「独特な私」を示すという詩の作法に沿ったものです。つまり、ロマン派なのです。そして、そこがまさに意地悪心をくすぐる。

 

そうした詩はときに「自分に酔っている」感じを伴い勝ちです。J・S・ミルは、詩はどこかから漏れ聞こえてくる(overhear)ものだと言っています。うまい言い方だなと思います。読者に直接語りかけるのではなく、詩人が自分の世界に浸って語っているものがたまたま聞こえてくるのが詩であると。その酔いにうまく共感できれば力をもらうこともできるけれど、ときに他人の酔いというものは面倒くさいだけだったりしますよね。うるさい、とか。息が臭い、とか(笑)。

 

そんなわけで、詩には書き手の生理が出るので、読むときはその匂いを受け入れることができるタイプのものから手に取ったほうがいいと思います。逆に自分で書く分には、お酒と一緒で量を守ればセラピーになることもあるだろうし、上手にすっきりすることもできるかと思います。

 

まあ、でも、周りの人からみると、変な感じがしますよね。現代人は文章の上であまり感情的になることを許されていないのでしょう。感情を裸で出すことを許されなくなってきた。都合のいい感情、いかにも祝祭的だったり、メディアの定型に合う感情なら、やんやの喝采とともに受け入れられるけど(サッカーでゴールを決めたときの喜びジェスチャーなど)、もっと薄暗い感情とか、おさまりの悪い厄介な感情をうまく表現する場がなくなってきた。聞かされる方がすぐに「こっちは服をきているのに、あいつは裸になってるぞ!」と文句を言うからです。

 

そういうわけで、今はSNSのようなツールが、詩がかつて担っていた領域を肩代わりしてくれるのかもしれません。お金が発生するわけでもないのに、そういう場で人々が自分のことをどんどん書いてしまうのは、感情表現を身体が欲しているからではないかと思います。

 

 

abeKIMIHIKO

 

 

小説を役立てよう!

 

――英文学ならではの魅力はありますか?

 

英文学に限らず、外国語で文学を読むと、言葉の使い方の独特さに敏感になれると思います。日本語だとわれわれは当たり前に読んでしまうので、どうやって書いているのかに無頓着になりがちです。

 

当然のことですが、文章は書き方によって心に響いたり、はっとさせてくれたりします。同じ内容でも、その形によって効果や伝わり方が全然違う。外国語なら、ふだんよりも注意深く読むことができるので、そうした言葉の形をより繊細に感じられるはずです。英語は多くの人にとって比較的なじみのある外国語ですから、まずは英語の文章、とくに文学作品を読んでみるのが、いろいろな意味で英語の「効能」を知るのに便利だと思います。

 

 

――高校生におすすめする英文学の小説はありますか。

 

英文学は時代によって楽しみ方が違います。まず、近代的自我を持った登場人物が描かれはじめたのはシェイクスピアが活躍した16世紀~17世紀だったと考えることができるでしょう。そのシェイクスピアで注目してほしいのは言葉の力です。英語はこんなにも魅力的に響きうるのか、とつくづく思わせてくれるのが彼の文学作品なのです。手始めに、シェイクスピア名台詞集成みたいなのをのぞいてみるだけでも悪くないと思います。ぴしっと、あるいは、ゆるっと決めてくれます。

 

もちろん、翻訳で読んでも面白いです。それから高校生におすすめなのは19世紀の小説です。近代小説が生まれたのは18世紀だと言われていますが、19世紀になるとこれがぐぐっと洗練されます。

 

その読み所はこういうところです。小説の語り手は、本当は分からないはずの登場人物の内面にどんどん踏み込んで、それをあばいていく。他人の気持ちなんてわかりっこない。それでも、まるで見てきたかのように書く。類推したり、想像したり、勝手に決めつけたり。もともとわかるわけのないはずのものですから、外れることもあるし、あたることもある。

 

でも、小説の語りの中で展開される語り手と登場人物のそんな格闘を見ていると、19世紀という時代は人と人が分かり合うことについて徹底的に考えた時代なのだなあということが実感とともに感じられてきます。これだけでも収穫ではないかと私は思うのです。

 

さらに、19世紀のイギリス小説には、個人の欲望と社会の決まりが対立するさまがたっぷりと描かれています。たいていは個人が挫折するのだけれど、それを見ていると、そもそも個人の欲望とはどういうものなのか、どうして社会と個人とは折り合いがつかないのかといったことにも考えが及ぶようになります。

 

思春期はまさにそういうことを考える時期でしょう。自分のやりたいことと制度とがぶつかることが多い。そこに小説的な思考をもっと役立てていいと思うのです。

 

20世紀の小説になると、19世紀にやったことと違うことをしようとやや実験的になっていきます。20世紀のはじめに流行ったのは、無意識にある言葉以前の心の動きを言葉にしていこうとする試みです。そういう小説は、ぱっとみると何を言っているのかわからないということになったりする。最初は難しいかもしれませんが、19世紀小説を読んだ後に読むと、「そうかあ!」と納得できると思います。

 

 

――20世紀よりも、時代の離れた19世紀の方が、読んだら共感するのは面白いですね。

 

日本の純文学の人たちは、「人生をいかに生きるべきかを教えるのが小説である」という考えを強く否定してきました。小説は正しいものばかりではなく悪も書くし、意味不明なものも書く。だから、小説を純粋芸術と見なすような視点がずっと有力でした。でも、もともとは小説は今で言う自己啓発書に近いものでした。別に「自己啓発書として読め」というわけではないのですが、どうやって生きるのか悩んでいる高校生が人生について考えるのに小説を使って悪いわけはないと思います。

 

 

――「役立たないことこそ文学だ!」というお話になると思ったので、意外でした。

 

役に立っても全然いいと思います。文学というのは、暗くて不健康なイメージがあるかもしれませんが、文章を読むことは健康にいいとぼくは考えています。活字中毒なんていう人がいるのも、からだの働きと文章を読む作業がなんらかの形でリンクしているからでしょう。

 

たとえば、呼吸器をわずらっている作家は、呼吸をすることの苦しみや安らぎが文章に反映されていたりします。日本でいうと、たとえば佐伯一麦さんのような作家がとても洗練された形で呼吸を表現しています。彼の文章など読むと、不思議と、自分の呼吸まで整ってくるように思えたりします。変な文章を読むと、こっちも嫌な気持ちになったりする(笑)。頭よりも、まずは肉体的に気持ちよくさせてくれるのが、気持ちがいい文章というものなのです。そういう文章の肉体的快楽を高校生のうちに味わえるといい。

 

これも、日本語だと読み慣れすぎているので、英語を読んでみるとより意識的に気づけるかもしれません。もっと言えば、音読するとより効果的です。聴覚や、舌のもぐもぐした感覚と、目でみる文字との協同作業で、より肉感的に英語を受け止めることができる。

 

 

――文学は健康に悪いと決めつけていたので、考え方が変わりました。英文学を学ぶと、英語は得意になるものなのでしょうか。

 

文学でもとりわけ詩や小説には情動がつまっているので、英語のノリのようなものを身につけるのには便利です。英語には英語なりのリズムや感情表現のポイントがあります。そこをおさえ、自分の身体におぼえこませることができれば、会話などのコミュニケーションも円滑に進みやすいです。

 

教育の現場でも、英語には英語の、日本語には日本語なりの独特な情動のやりとりの仕組みがあるということをもっと意識させるべきです。日本語で、「今日楽しかった?」と言って、「……はい」と言うのと「はい!」というのでは、同じ「はい」でも伝わり方が違います。

 

このあたりは文法化したり、言葉で説明したりするのがなかなかたいへんです。具体例を通して学ぶのが一番です。で、そうした例のストックができると、英会話でも苦労が減る。

 

そもそも小説を読むというのは、新しい世界と「出会う」という経験でもあります。どの作品にも個別のルールがある。書き手はそれをいちいちこちらに差し出してくる。こちらもそれを理解し、受け入れないと、作品世界に入っていけない。これは面倒くさいところもあるけど、なかなかエキサイティングでもあります。

 

社会で生活していく限り、どうしても同じようなことはあるでしょう。知らない人と出会い、向き合い、その人のルールを学ぶ。この繰り返しです。面倒くさい。でも、ときにはおもろしい。小説を読むという行為は、こうした「出会い」のルールについてあらためて考えるという意味でも、けっこう実践的に役にたつかもしれませんね。

 

 

――最後に高校生に、一言お願いします。

 

将来、どんなことをするにしても、おもしろくないものをおもしろいと無理に思う必要はありません。むしろ、おもしろくないものを正直に「おもしろくない!」と思うところから、おもしろいものとの出会いは始まる。そういう意味では――逆説的な言い方になりますが――若いうちは思いきり退屈な経験をしたり、愚作を読んだり、ひどい目にあったりすることも必要かもしれません。そのことを通してほんとうにおもしろいものやすばらしいものに対する欲求が芽生えるのだし、そうしたものと出会うためのコツも磨けるのではないでしょうか。

 

 

高校生におすすめの5冊!

 

ほんのちょっとでもいいから、高校生にシェイクスピアの英語に触れてもらいたいです。岩波文庫の対訳シリーズはこういうとき便利。

 

 

マラマッドはニューヨークのユダヤ系の人々を描いた短篇で知られる作家です。何ともしみじみした味わいで、暗いものも明るいものも心に染み渡ります。

 

 

現代英語文学の問題作。大学の英文学の教師がセクハラで首になって転落するところから始まる物語ですが、ひどい話なのに語り口が軽妙で実にテンポがいいので、どんどん読んでしまうと思います。クッツェーは南ア出身です。

 

 

英語の詩の読み方を解説しています。なるべく難しい用語などは使わないようにしているので、高校生でも読んでもらえると思います。訳文もついています。

 

 

このインタビューでも話題になった詩と詩でないものの境界線について語る本です。そもそも詩はどこにあるのか? 詩は詩集の中にあるとは限らない、というのが話の出発点になっています。これも高校生でも読めるくらいの内容です。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.277 

・坂口緑「生涯学習論にたどり着くまで──人はいかにして市民になるのか」
・平井和也「ジョージ・フロイド殺害事件から考える米国の人種差別問題」
・野村浩子「日本の女性リーダーたち」
・安達智史「「特殊」を通じて「普遍」を実現する現代イギリスの若者ムスリム」
・太田紘史「道徳脳の科学と哲学」
・石川義正「「少女たちは存在しない」のか?──現代日本「動物」文学案内(2)」