過去を生きた人びとに寄り添って――「島」から学ぶ、歴史社会学

浮かび上がる「物語」

 

―― 石原先生が歴史社会学が面白いと感じるのはどんなときですか?

 

いろいろ面白いですよ(笑)。文献資料を集めたり、インタビューしたりすること自体、もちろん苦痛も伴いますけれども、同時に楽しいです。

 

歴史社会学という、歴史学よりもうちょっと理論志向が強い分野で歴史研究している者として、いちばん面白い瞬間は、それまでの歴史研究ではあまり見えていなかったり語られてこなかったりしてきた、別の歴史的な文脈や物語が見えてきたときですね。

 

たとえば私も当初は、小笠原諸島の人びとの社会史のなかでも、沖縄との比較で敗戦後の米軍占領下の状況に注目したり、戦時期に日本国家の「捨て石」にされていくような状況に関心がありました。でも、あまり研究されていないということで、どんどん歴史をさかのぼって調べていくわけです。

 

そうすると、先ほどもお話したように、最初の先住者は世界各地から来た人びとだということは知っていたのですが、この先住者たちは、広大な地理的・歴史的背景をもった人たちであることがわかってくる。いろいろ資料を読み込んでいくと、最初の移民団は入植を目的にしていたけれども、その後日本が併合するまでに入ってきた住民は、ほとんど捕鯨船や商船や軍艦から、特に捕鯨船から逃げてきた人ばかりだとわかってきたんですね。そして今度は、捕鯨船員の労働史や捕鯨業の経済史・社会史を調べていくわけです。さらにさかのぼって、19世紀の捕鯨船は、16世紀以来グローバリゼーションを引っぱってきた船である外洋帆船の最後の時代にあたるので、帆船をめぐる数百年の労働史や社会史を調べていくんですね。

 

すると、外洋帆船に乗っている人たちって、それこそ最初のグローバリゼーションのプロセスで「もたざる者」として船の労働現場に投げ出された人たちであることに気がつくんです。最初は大西洋のグローバリゼーションのプロセスで、最前線であり最底辺である帆船の労働現場で働いたり、ときにはそこから逃げ出したりしながら、ノマド(移動民)のように生きている最初期のプロレタリアート(もたざる者・貧困者。転じて近代的労働者の意味になる)の群れが現れます。19世紀に入るとグローバリゼーションのフロンティアになった太平洋で、同様の人びとの群れが現れる。そうしたノマド(移動民)の一部が、小笠原諸島に行きついたということがわかってくる。

 

19世紀の太平洋には、「カナカ」とか「ビーチコーマー」とか呼ばれるような人たちがいました。「カナカ」というのは、いまは太平洋各地の民族名称に採用されていますが、19世紀は捕鯨船に雇われた太平洋の先住民を指す蔑称だったんです。「ビーチコーマー」というのは自称「白人」で、太平洋の島々と捕鯨船の労働現場をわたりあるきながら流民的に生きていた人びとのことを指す言葉です。こうした近代的ノマド(移動民)が小笠原諸島に来ている、いまも住んでいる先住者の子孫の人たちはその末裔なんだってわかっちゃったんですね。これはもう、小笠原諸島を日本の辺境の島のひとつとしてみるようなこれまでの観点からは、絶対に見えなかった別の「物語」の系列ですよね。こうした発見はめったにあることではないんですが、こういうことがわかったときには、歴史社会学冥利だなと思いますね。

 

 

「いま・ここ」を相対化する

 

―― 多くの大学生は研究者にならず、いわゆる一般企業に就職します。歴史社会学を勉強することは、彼らにとってどんな意味があると思いますか?

 

今は歴史的な経験というものが、かつてなくないがしろにされている時代だと思うんです。グローバリズムの時代だとか、新自由主義の時代だとか言われますけれども、要するに「いま・ここ」の瞬間で、どれだけ市場における優秀なプレイヤーになれるかという発想にとらわれがちな時代ですよね。そういうときにやっぱり「いま・ここ」ということを少しでも相対化するような営みが必要で、歴史的な視野にたったセンスや想像力というものが、いまほど重要な時代はないんじゃないかと考えています。

 

あと、歴史社会学を学ぶさいには、とりわけ1960年代以降のラディカルな歴史社会学がだいじにしてきた、近代社会や文明社会のなかでマイナー化された人びとに対する感受性のようなものが、非常に大事な側面じゃないかと思います。歴史社会学や社会史の発想には、エリートや自分でなにかを書き残せる立場にある人に焦点を当ててきた「正史」ではなく、さまざまなマイノリティやノンエリートの人びとが、どういうふうに試行錯誤しつつ生き抜いてきたのかということを、非常に細かく地を這うような目線で見ていくようなところがあります。

 

そうした目線でみていくと、そのなかには、「受験歴史」では学ぶことのできない、いろんな生き方の知恵みたいなものが詰まっているんです。非常につらく酷い状況に置かれたときや、国家や地域社会や所属組織の主流から置き去りにされたり排除されたりしたときに、人びとがどういうふうに生きぬいてきたのか。そういう知恵がいっぱい詰まっています。そういうことも、歴史社会学を学ぶことからつかみ取れるんじゃないかなというふうに思いますね。

 

 

―― 最後に、高校生に向けてメッセージをお願いします。

 

大学進学を考えている人に向けた話になりますが、いま大学進学率は先進国のみならず、新興国でもどんどん上がっています。それでも世界的にみれば、大学に進学できるというのは、まだまだ特権的なことですよね。そのなかで、最大限に特権を享受してほしいです。それには、やはり自由であることに「開き直る」ことがだいじだと思っています。最近の日本では大学生の経済状態や就職状況が20世紀よりも明らかに悪くなってきており、遊ぶお金のためではなく生活費や学費を稼ぐために、長時間のアルバイトに従事する学生も増えてきています。それでも、大学生になったら、なんとかやりくりしながら、とにかく好きなことをやっていただきたい、自由という特権を活かして、いろんなことを試していただきたいと思っています。

 

それから最後に、大学というのは、これだけ大学進学率が上がって大学が大衆化しても、依然として「勉強」ではなくて最終的には「学問」をするところであるということを、私は大事にしたいですね。

 

他人が既に調べたり考えたりしたこと、つまり論文や著作に表現されていることをフォローする、これが高校時代までの、そして残念ながら現在は大学でも大部分を占めている、「勉強」といういとなみです。一方で「学問」といういとなみとは、他人が調べたり考えついたりした過去の膨大な知的営みをふまえつつ、1%でも0.5%でも0.1%でもいいので、自分の調査や思考によって新たな知見を付け加えることです。

 

これはもうほとんど私の信念なんですが、大学に進学する以上は、研究やジャーナリズムを目指さない場合でも、せめて最後の卒業論文や卒業研究の段階で、この「学問」をやっていただきたい、ぜひそこに到達していただきたい、というのが私のメッセージです。

 

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.2019.4.15 

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