2020.10.05

教育に期待しすぎる社会――『「生存競争」教育への反抗』(集英社新書)

神代健彦(著者)教育学・教育史

#コンピテンシー#グローバル市場

「生存競争」教育への反抗

著者:神代 健彦
出版社:集英社新書

「教育とは十徳ナイフのようなもの」――わたしの作ったこの比喩、自画自賛と言われればそれまでなのですが、それなりにうまくできているように思うのです。

教育は、個人と社会の現在と未来に対して、さまざまな点で多くの貢献をすることができます。子どもとその保護者の観点からみれば、教育を受けることは、この社会でまっとうな人生を営むために必須のものといえるでしょう。うまくすれば、よりよい学歴を携えて、より有利に社会を生きていくことができるかもしれません。

他方で、社会の側から見ても、教育はなくてはならないものです。一国の経済成長のためには、その国の人々の能力を高めることが欠かせません。また、共同体の秩序を保つために、子どもに社会のルールや規範を教え、共同して物事に取り組む練習をさせることも必要でしょう。教育は人々を有能にし、社会の効率を高め、秩序を生み出すことに一役買っていることを否定はできない。わたしも実際、そう思います。その意味では教育って、また、そのために特別に設えられたものとしての学校って、そんなに捨てたもんじゃない。

しかし、です。教育が持っている、個人と社会の役に立てる「度合い」というのは、実はそんなに大きなものでもない。ちょうど十徳ナイフが、ちょっとした料理には使えるけども、所詮ちゃんとした包丁には敵わない、というのと同じように。この、ちょっと後ろ向きな発想が、しかし大事なところです。

例えば、貧困・格差問題についてはどうでしょうか。貧しい家の子どもにも教育を保障すべきことは、いうまでもありません。教育を受けることは権利だからです。ですが残念ながら、この教育を、貧困・格差問題を解決する「手段」として考えると、少なくとも教育「だけ」では、ちょっと迂遠で効果も疑問です。人が貧困や格差に苦しんでいるのは「いま」なのですから、社会保障や再分配のシステムを工夫する方が先でしょう。

また教育は、その子の能力を高めることによって、例えば将来の就職の確率を高めはするでしょうが、それを確実に保障するものではありません。むしろ教育(学習)には、つねに失敗の可能性がある。

学校教育は「生きる力」をつけさせるものだ、と言われますが、その裏返しで、教育(学習)の失敗が、まっとうに生きることすらままならない状況へと人を追いやるものだとするなら、これほど怖い言い方もない。教育(学習)は大事ですが、その成否に子どもの人生がかかってしまうのは、あまりに危うすぎる。

また、大企業の重役や政治家が、学校に過大な期待をかけているというのも、よく見るところです。曰く「これからは変化の激しい、予測できない、不確実な社会がやってくる。そんな社会を生き抜ける人間を育てるべき」云々。これらの言い方は、子どもたちの今後の人生を憂いているように見えて、「即戦力」不足のままグローバル市場を戦いたくない企業のニーズに過ぎないようにも思われて、少しばかり欺瞞を感じるのですが…。

ともあれしかし、そもそも、「変化の激しい、予測できない、不確実な社会」を生き抜ける「力」という、おそらく言っている本人もよく分からないものを身につけるように、と申しつけられても、ちょっと途方にくれてしまうというのが正直なところです。思うに、グローバル市場経済は、「強いものが勝つ」のではなく、「勝った者が強い」という結果論の世界でしょう。そんな結果論としての勝者の能力を事前に予測しろ、まして、次世代みんなに確実につけさせろというのは、かなり無理があるように思うのですが…。

また、たとえそんな「力」が仮に予想できたとしても――これはいま教育の世界では「コンピテンシー」と呼ばれています――、教育によって社会と個人を救うという「結果」を保障するなんて、どんなに教育を洗練し高度化したところで、教育というものの「本性上」できそうもない。

にもかかわらずガムシャラに「結果」を追い求める教育は、子どもと保護者、また教師たちを追い詰めます。だからわたしたちは、教育をなにかの処方箋とすることに付随する、この弊害にも目を向けるべきでしょう。教育を、輝かしい未来を手繰り寄せる「一発逆転」の方策と信じることが、子どもたちの「いま」を貧しく、また苦しいものとしていないか、ぜひここで問い返してみたい。

蛇足ながら再度強調すると、わたしは断じて、経済・政治・社会の問題を放置しろと言っているわけではありません。ただ、教育が「魔法の杖」のように理解され、教育を少しばかりいじることで、経済や政治や社会の問題が手当て「されたことになってしまう」というのが怖いのです。しかも教育は「カネで買う」ものとなって久しいのですから、そういう状況を無視して新しい○○教育をたくさん準備したとして、でもそれは結局、「最低限の教育は準備された、それで結果を出せないのはあなたのせいだ」という苛烈な自己責任論になってしまいます。

だから『「生存競争」教育への反抗』は、個人と社会の両方からあまりにも期待され過ぎてしまっていて、しかも、愚直にそれに応えようとしすぎて大事なものを捨て去ろうとしている現代の教育を、批判的に捉え返そうという本です。「十徳ナイフとしての教育」の等身大の、しかしとても大事なはたらきを取り戻そう、と主張する本です。本書ではその「大事なもの」を、「子どもを世界と出会わせる」ことと表現しました。そして、生産だけでなく消費を、平日だけでなく休日を準備するものとしての教育、というコンセプトを提案しました。

本書をきっかけに、教育に何を期待すべき/すべきでないか、という上質の教育語りが生まれてほしい、と思うのでした。

目次

第一章 教育家族は「適応」する

第二章 教育に期待しすぎないで

第三章 教育に世界を取り戻す

第四章 そして社会と出会う、ただし別の仕方で

プロフィール

神代健彦教育学・教育史

京都教育大学教育学部准教授。専門は教育学・教育史、道徳教育論。研究テーマは、戦後日本の教育学史。また民間教育研究団体での活動を通じて、授業における教師や子どもの振る舞いから、広く現代の(道徳性)発達にかかわる文化的環境までを読み拓く、〈教育批評〉という批評ジャンルの開拓を試みている。教育科学研究会(通称「教科研」)常任委員。
著書に、現代位相研究所編『悪という希望 ―「生そのもの」のための政治社会学―』(共著、教育評論社、 2016)、神代健彦・藤谷秀編『悩めるあなたの道徳教育読本』(共著、はるか書房、2019)、訳書としてニコラス・ローズ『魂を統治する ―私的な自己の形成―』(共訳、以文社、2016)がある。

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