2021.08.05

まだ論じられたことのない、自由の三つの新しい始原――『自由原理 来るべき福祉国家の理念』(岩波書店)

橋本努(著者)社会哲学

自由原理 来るべき福祉国家の理念

著者:橋本努
出版社:岩波書店

振り返ってみると、私は「自由」をめぐって、さまざまに書いてきました。ぐるぐると思考をめぐらせて、のたりのたりと考えてきたテーマが「自由」です。「自由」は私にとって、人生をささげるテーマの一つになりました。

なんでそんなに自由について考えるのかというと、最初のキッカケの一つは、大学生のときに「東欧革命」(1989年)が起きたことでした。

東欧の共産主義諸国がなだれを打つように崩壊する事態に、当時の私はうろたえました。それまではなんとなく、共産主義のほうがすぐれているのではないか、と思ったりしていました。おそらく、80年代の日本のニューアカデミズム(=ニューアカ)に影響されていたのでしょう。資本主義社会に対する「アンチ」という態度が、美しい生き方のようにみえました。

しかし、共産主義の諸国は崩壊してしまいます。共産主義者たちは、自由の問題を甘く受け止めていたのでしょうか。私はそういった疑問から、研究の世界に入っていきました。

もう一つには、それから約10年経って、今度はアメリカで「9.11世界同時多発テロ」(2001年)が起きました。ニューヨークでは、二機の飛行機をハイジャックしたテロリストたちが世界貿易センタービルに激突するという大惨事が起きます。私はたまたまそのときニューヨークで暮らしていたので、かなり深刻な打撃を受けました。ニューヨークでは事件後、しばらくのあいだ郵便物に炭疽菌を入れて送りつけるという、無差別テロが続きます。郵便局員を含めて、何人もの方々が亡くなりました。当時はいつ死んでもおかしくない状況だったのです。

いったいアメリカを中心とするグローバル社会は、なぜテロリズムの標的となるのでしょうか。この問題に何とかして答えなければならない。私はいわば、お尻に火がついた状態になりました。

それからさらに約10年が過ぎて、今度は東日本大震災と福島での原発事故(2011年)が起きます。この事件は、私を含めてすべての日本人にとって深刻な影響を与えたように思います。日本社会はこれからどうなってしまうのでしょう。そもそも原子力発電とは、国家による計画経済システムではなかったでしょうか。この出来事をきっかけにして、私は原子力発電と環境倫理の問題に、真剣に向き合うことになりました。

私が「自由」について考えるとき、以上の三つの出来事は、決定的な影響力をもちました。こうした大きな難題を乗り越えるために、私たちは何をすべきなのでしょうか。社会はどうあるべきなのでしょうか。その理念を示すことこそ、私は自分が目指すべき社会哲学の課題であると受け止めました。拙著『自由の論法』、『帝国の条件』、『ロスト近代』の三冊は、それぞれの出来事を受けて、経済思想や国際政治や社会学などの諸領域での研究をまとめたものです。

そして今回、拙著『自由原理――来るべき福祉国家の理念』では、これらの本で展開した思想のアイディアを熟成して、哲学的な次元で体系的に展開しています。拙著『自由原理』は、この数年間の思索をまとめたものではありますが、私の人生を代表する作品になるようにも思います。タイトルを自由の「原理」と名づける以上、私は本書で、この言葉に恥じない内容を展開したつもりです。ここで「原理」というのは、信念や行動や思考を体系的に展開する際に、その基礎となる根本的な真理や命題のことです。

では自由の根本原理とは何でしょうか。歴代の自由の思想家たちは、「政府からの自由」とか、「人格の完成」とか、「自律」とか、いろいろな理念を掲げて、自由の原理的な考察を展開してきました。けれども私は拙著『自由原理』で、まだ論じられたことのない、自由の新しい原理(始原=アルケー)があると主張しています。

私の考えでは、三つの新しい原理があります。一つは、アマルティア・センの「できること(ableness)としてのケイパビリティ」に代わる「潜勢的可能性(ポテンシャリティ)としてのケイパビリティ」です。もう一つは、サーンスティンのリバタリアン・パターナリズムに代わる「アスリート・モデル」、言い換えれば、あこがれを媒介にした活動的生(ヴィタ・アクティーヴァ)です。またこれと関連して、自律していない者たちが社会契約して社会を作る場合の原理です。

第三は、ハイエクのいう自生的秩序に代わる「自生的な善き生」です。この「自生的な善き生」という言葉は私の造語であり、これを説明するには時間を要するでしょう。詳しくは拙著に譲りますが、簡単に言うと、私たちは自分がどんな「善き生(ウェルビイング)」を求めているのか、どんな幸福を求めているのか、実はあまりよく分かっていないにもかかわらず、善く生きることができる。ではそれはどのようにして可能なのか。この問題に答える原理であります。

以上の三つの自由原理は、自由の新しい始原として提出されています。私はそれぞれの原理を、アマルティア・セン批判、キャス・サーンスティン批判、フリードリッヒ・ハイエク批判という、思想的な対峙と超克のなかで明らかにしています。そしてこれら三つの原理は、互いに結びついて一つの思想体系をなしています。それを一言で表すと、「自生化主義」という言葉になるでしょう。ただしこれも私の造語であります。

自由論といえば、バーリンの「積極的自由(~への自由)/消極的自由(~からの自由)」の区別が有名です。しかしこの区別を用いると、なかなか深く考察することができない。自由はもっと、実質的なものとして考察する必要がある。自由の問題を突き詰めて考えて、人間の福祉(ウェルビイング)全般を増大させるための国家の新しいビジョンを提起しようというのが、拙著の狙いです。

これは言い換えれば、天下国家を論じる、ということであります。批判もたくさんあるにちがいません。ただこうした思想研究の醍醐味は、他人の意見に納得することではなく、私たちがコミュニケーションを通じて、互いに自分の意見を掘り起こすことにあります。拙著が国家百年の計を論じる公論のための、一つの捨て石となれば幸甚です。

プロフィール

橋本努社会哲学

1967年生まれ。横浜国立大学経済学部卒、東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、北海道大学経済学研究科教授。この間、ニューヨーク大学客員研究員。専攻は経済思想、社会哲学。著作に『自由の論法』(創文社)、『社会科学の人間学』(勁草書房)、『帝国の条件』(弘文堂)、『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)、『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社メチエ)、『自由の社会学』(NTT出版)、『ロスト近代』(弘文堂)、『学問の技法』(ちくま新書)、編著に『現代の経済思想』(勁草書房)、『日本マックス・ウェーバー論争』、『オーストリア学派の経済学』(日本評論社)、共著に『ナショナリズムとグローバリズム』(新曜社)、など。

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