2021.09.03

テクノロジーの恩恵を万人に、すべての人々に贅沢を!――『ラグジュアリーコミュニズム』(堀之内出版)

橋本智弘(訳者)ポストコロニアル理論・文学

ラグジュアリーコミュニズム

著者:橋本智弘
出版社:堀之内出版

イギリスで注目の若手論客アーロン・バスターニとは何者か?

本書は、アーロン・バスターニの初の著書Fully Automated Luxury Communism (Verso, 2019)の全訳である。バスターニはイングランド南部の都市ボーンマスで生まれ育ち、現在はロンドンを拠点に活動するジャーナリストだ。2011年にオンラインニュースメディアのNovara Mediaを共同創設し、以来ウェブ上の記事やYouTubeチャンネルを通じてジャーナリズム活動を展開している。また、2015年には、博士論文「ストライキ! オキュパイ! リツイート!――緊縮イギリスにおける集団的アクションと接続的アクションの関係」により、ロンドン大学から博士号を取得している。

Novara Mediaでは、イギリス政治や国際政治に関する解説をおこなう他、様々な左派知識人や政治家へのインタビューを配信している。過去に登場したのは、マルクス主義地理学者として世界的に名高いデヴィッド・ハーヴェイ、『チャヴ――弱者を敵視する社会』や『エスタブリッシュメント――彼らはこうして富と権力を独占する』で知られる左派ジャーナリストのオーウェン・ジョーンズ、『ポストキャピタリズム』で資本主義後の社会像を描き出したポール・メイソン、ギリシャの急進左派連合政権下で財務大臣を務めた経済学者のヤニス・バルファキス、『負債論』や『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』で知られる人類学者でアナーキストのデヴィッド・グレーバーなどだ。

Novara Mediaの他にも、バスターニは「ガーディアン」や「ニューヨークタイムズ」に寄稿し、B‌B‌Cの政治討論番組に参加するなど、若手の論客として活躍している。

激動の時代から噴出する新しいコミュニズム構想

2010年代は政治経済にとって激動の時代だった。2008年のリーマン・ブラザーズの経営破綻に端を発した金融危機は、世界中に影響を拡大し各国の経済を混乱に陥れた。金融危機はやがて政治の二極化を引き起こし、移民排斥や人種差別を公然と掲げる右派ポピュリズムが台頭する一方、左派政治家たちが不満を持った若者たちの間で熱烈な支持を得た。

財政緊縮の煽りをもろに受けた中間層や貧困層のあいだで富裕層への反発心が高まり、ニューヨークではウォール街を占拠するオキュパイ運動が広く耳目を集めた。イギリスでは労働党のなかでは長く傍流だった社会主義者のジェレミー・コービンが若者から強い支持を得て、2015年には大方の予想を退け労働党党首に躍り出た(ちなみに、コービンは何度かNovara Mediaに登場しインタビューを受けている)。

同様に、アメリカでは民主社会主義者を自認するバーニー・サンダースが台頭し、2016年には民主党大統領候補の座をめぐりヒラリー・クリントンに僅差まで迫った。社会主義的政策を掲げ現状との決別を訴える「古風」な左派政治家たちを、不満を抱えた若者たちが熱狂的に支持するという異様な構図が英米で生じたのだ。バスターニもまた、こうした新しい左派運動の流れのなかで頭角を現した人物である。共産主義とはいかにもドグマにまみれた言葉だが、新たな左派言論を担う世代の人物が臆面もなく共産主義を掲げるのは、実にふさわしいことと言えるかもしれない。

バスターニが描く未来とは?

しかし、本書におけるバスターニの議論の射程は、近年の左派の隆盛にとどまらない、はるかに遠大なものである。人類史全体を省みて、新石器革命による遊動性の狩猟採集社会から定住性の農耕牧畜社会への移行を〈第一の断絶〉、そして蒸気機関をはじめとする産業テクノロジーの発展により生じた産業革命を〈第二の断絶〉と呼び、トランジスタと集積回路を中心とする現代のテクノロジーの発展を、先行するこれらふたつと同等の破壊的な変化、すなわち〈第三の断絶〉をもたらすものとして捉えようとしている。

現代のテクノロジーがわれわれをどのような未来に導くかについては、両極端の言説が併存している。テクノロジーにより人類はついに神の領域へと参入するのだと言祝ぐ向きがある一方、A‌Iの台頭により肉体労働のみならず認知労働をも機械が担うようになり、資本主義的生産のなかで人類の居場所はいよいよ消滅すると危機感を煽る者もいる。

テクノロジーの進展はますます加速しているようだが、それがどんな未来をもたらすのかについての定説は存在しない。テクノロジーはわれわれを仕事から解放するのか、それとも新自由主義の潮流のなかで不安定さを増してきた仕事をいよいよ奪い去ってしまうのか――待ち受けているのはもはや仕事をする必要がなくなるユートピアなのか、あるいは機械に人間が従属するディストピアなのか、判然としないのだ。

こうした議論に対し、バスターニはこう回答する――テクノロジーが誰に利得をもたらすかを左右するのは政治である、と。そして、マルクスが唱えた共産主義とは、まさに現代のテクノロジーの文脈においてこそ真価を発揮するというのだ。

加速主義と「完全自動のラグジュアリーコミュニズム(FALC)」

バスターニの主張自体は空洞から突然生じたわけではない。本書で明言こそされていないが、彼の議論の背景には「加速主義」(accelerationism)と呼ばれる近年の思潮がある。加速主義とは、社会変革を成し遂げるためには、資本主義の外部に逃れたりつかの間の避難所をこしらえたりするのではなく、むしろ資本主義の流れを加速させなければならないとする考えである。

加速主義には様々な潮流が混在しているため整理が容易ではないが、大別すれば右派と左派に分かれる。市場原理の徹底を訴える右派加速主義者たちは、国家の介入をはじめとするあらゆる制約を資本主義の発展から取り払い、個人の自由を最大限拡張させようとする。彼らにとって、人権、平等、民主主義といった啓蒙以来の普遍的な価値観は、個人の経済的自由の追求を邪魔する障害でしかない(注1)。

一方、左派加速主義は、進行している自動化をさらに推し進めることで、もはや労働が存在しなくなる世界を構想する。哲学者のニック・スルニチェクとアレックス・ウィリアムズは、『未来を発明する――ポスト資本主義と労働なき世界』(注2)において、近年の社会運動を概括した上で、それらが「素朴政治」にすぎないと批判する。素朴政治とは、直接行動やローカルな領野を重視する近年の社会運動につけられた総称であり、オキュパイ運動を含む一見ラディカルな運動が資本主義への大局的な批判を欠いていることを揶揄するために用いられている。

社会運動は様々に展開されてきたし、ときに広くメディアの注目を集めもするのだが、現状と根本的に異なる社会を創出することに至ると、どうしてだかみな及び腰になってしまう。左派政治は、完全な自動化、ユニバーサル・ベーシック・インカムの導入、労働時間の縮減といった要求を通じてポスト資本主義の社会を積極的に構想しなくてはならない。バスターニはこの左派加速主義の見方を(部分的な留保や修正を加えつつ)継承し、素朴政治とは一線を画す、現行の資本主義を変革し未来を切り拓く新たな政治として「完全自動のラグジュアリーコミュニズム」を提唱している。

FALCの意義と限界

バスターニのビジョンの新しさと魅力は、資本主義への場当たり的な反発に終始してきた近年の左派運動を刷新し、すべての人々に贅沢をもたらすことを目指すという大胆さにあるだろう。破滅的な危機を避けるために生活水準の悪化を甘受するのではなく、むしろさらなる向上を要求するという意味で、ポピュリズムとも相性が良いようにも思える。だが、その大胆さゆえだろうか、批判点もいくつか浮かび上がってくる。以下、三点を指摘してみたい。

一点目は、テクノロジーがもたらす恩恵についての楽観である。テクノロジーと歴史の関係を整理した終章において技術決定論を慎重に退けてはいるものの、第二部で最先端テクノロジーの数々を通観するバスターニの筆致は、明らかに楽観的である。指数関数的成長によって生ずる「潤沢さ」(abundance)を強調しようとするあまり、テクノロジーの発展がもたらす成果が一様にポジティブであるような印象を与えるきらいがある。

ジェイソン・バーカーはロサンゼルス・レビュー・オブ・ブックスに掲載された辛辣な書評において、電気自動車の普及で需要が高まるリチウムの採掘活動が、世界のあちこちで水を大量に消費し地域の農業や生態系に悪影響を与えていること、また民間企業による際限のない宇宙開発はすでに存在する宇宙ごみをさらに増大させ、宇宙空間における深刻な「環境問題」を生じさせるだろうということを指摘している(注3)。エコロジーの危機の解決策となることを期待されるテクノロジーが、一方では負の影響を生じさせていることは看過されてはならない。

おそらくはテクノロジーの役割に注目した結果として、マルクス主義において重視されていたはずの階級闘争への等閑視が生じている。これが二点目の批判点である。新自由主義と決別しF‌A‌L‌Cを実現するための具体的な施策が第三部で展開されるが、これらはもっぱら国家や自治体レベルでの選挙政治を通じた変革である。企業家たちが一獲千金をねらって次々成し遂げるテクノロジー上の功績が、選挙政治を通じていかにして人々の手中に収められるかは分明に描かれてはいない。

これらのテクノロジーの利得を万民に供するためには生産の領域における変革が必要であり、そのプロセスこそが資本主義の超克をもたらすはずだが、あたかもそれが狭義の政治を通じて可能になるかのような論調になっている。斎藤幸平はこの点を指摘し、バスターニが典型的な「政治主義」に陥っていると論じている(注4)。

マルクスが洞察したように、市場での競争を通じた生産力の増加は、労働者を解放するどころか彼らを資本へのさらなる従属に追いやっていく。この「資本の生産力」は選挙や議会政治だけでは解体できず、生産の現場での階級闘争が何にも増して重要になるはずだ。生産の領域における変革がスムーズに進むかのように想定する点において、素朴政治とは異なるレベルでバスターニの議論は「素朴」であると斎藤は評している。

三点目は、「贅沢」の概念規定のあいまいさである。バスターニは「共産主義とは贅沢なものだ―でなければ、それは共産主義ではない」と断言し、有用性を超越した潤沢さが共産主義の条件であると論じている。

しかし、共産主義下の贅沢とはどのようなものなのだろう。資本主義の拡大を支えたのは、実に贅沢をもとめる願望であった。絹、香辛料、砂糖、茶、コーヒー、タバコ、貴金属といった、かならずしも生存に不可欠ではない贅沢品への無尽蔵の欲望こそが、植民地主義の飽くなき拡大を駆動し、前資本主義的な生産様式を駆逐し、世界的な資本主義のネットワークを形成してきた。今日のわれわれも、数多の広告を通じて贅沢な消費へと日々駆り立てられている。

バスターニは、資本主義に内在する贅沢への欲望を共産主義へむけた政治的エネルギーに変換しようとしているように思える。しかし、「すべての人々に贅沢を」というかけ声は、贅沢品の価値が差異から生じていることを見すごしているのではないか。例えば、人工肉が普及したとしても、動物の肉は贅沢品として新たに価値化されていくのではないだろうか。

バスターニが構想する共産主義下での贅沢は、おそらく現状のそれとは質的にかなり異なっているはずだ。しかしバスターニの議論において、資本主義下の贅沢と共産主義下の贅沢にどのような断絶と連続性があるのかは明らかではない。

「資本主義リアリズム」からの脱却へ

とはいえ、これらの批判点をもって本書の価値が無に帰するとは私は考えてはいない。バスターニの議論の眼目は、マーク・フィッシャーが「資本主義リアリズム」と呼んで問題化した現代特有の思考様式を乗り越えることにある。資本主義リアリズムとは、資本主義が終焉するより世界が終焉するほうがもっともらしく感じられる世界観である。

資本主義は労働の現場どころかわれわれの思考の隅々にまで浸透してしまったので、ほとんど自然の物理法則のような地位を築き、それに代わる世界を想像することすら不可能になっている。金融危機後の政府による救済措置(=富裕層への社会主義)により新自由主義がその建前すら失った段階でも、「代案は存在しない」というマーガレット・サッチャーの言辞は、いまだ解けない呪いのように人々の思考を規定しているのだ。

どんな未来が望ましいかについて本邦で巷間なされる議論においても、同様の思考様式が幅を利かせている。ちょうどこんな調子だ――A‌Iが未来の子どもたちの仕事を奪ってしまうかもしれない。だから、A‌Iに負けない読解力を身につけさせよう。各国が協調してグローバルな諸問題に取り組まなくてはいけない。そこで、SDGsに対応して持続可能な成長を目指しつつ企業価値を高めよう――。いずれも、資本主義がもたらす多大な危機を脱政治化し既存のシステム内での問題の解消を図る、資本主義リアリズムの亜種とみなすことができる。

新型コロナウイルスの流行のような想定外の危機が新たな社会を導くと考えるような向きもあるが、「ショック療法」に可能性を見る思考では持続的な運動を支えることはできまい。もっぱら前世紀の遺物のように想定される「共産主義」に現代のテクノロジーの観点から意義を見出すことは、すくなくとも現状との決別に向けた方途を指し示してくれるだろう。バスターニが述べるようにF‌A‌L‌Cが地図であるなら、それはいまだ未完の地図である。本書で提示された様々なアイデアが、現行の資本主義に代わるシステムの構築とそれにふさわしい政治運動の手がかりとなることを期待したい。

(注1)‌右派加速主義のイデオローグである哲学者ニック・ランドの思想とその影響については、木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義――現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』(星海社、2019年)に詳しい。

(注2)Nick Srnicek and Alex Williams. Inventing the Future: Postcapitalism and a World Without Work. Verso, 2016. 同書はこのあとがき執筆時点で未邦訳だが、刊行に先立つ2013年にインターネット上で発表された両名によるマニフェスト“#ACCELERATE MANIFESTO for an Accelerationist Politics”の日本語訳が、「加速派政治宣言」(水嶋一憲・渡邊雄介訳)として「現代思想 2018年1月号」に掲載されている。

(注3)Jason Barker, “Artificial Stupidity” (https://lareviewofbooks.org/article/artificial-stupidity/)

(注4)斎藤幸平「気候危機と環境革命―気候ケインズ主義、加速主義、エコ社会主義」(『現代思想』2020年3月号、173〜184頁)

プロフィール

橋本智弘ポストコロニアル理論・文学

青山学院大学文学部准教授。専門はポストコロニアル理論・文学。共著に『バイリンガルな日本語文学』(三元社)、『ノーベル文学賞にもっとも近い作家たち―いま読みたい38人の素顔と作品』(青月社)、『クリティカル・ワード 文学理論』(フィルムアート社)。

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