2021.10.07

動物を殺す社会と殺さない社会、あなたはどちらがいいですか?――『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』(ナカニシヤ出版)

浅野幸治社会哲学、動物倫理

ベジタリアン哲学者の動物倫理入門

著者:浅野幸治
出版社:ナカニシヤ出版

皆さんは、「殺処分ゼロ」って聞いたことがありますか? もう少し正確に言うと「殺処分数ゼロ」になります。「殺処分数ゼロ」というのは、保健所などで殺される犬猫の数をゼロにしようという考えです。2000年度に日本では約53万匹の犬猫が殺されていました。それに対して、2001年度に熊本市が殺処分ゼロの取り組みを始めました。その動きが全国に広がって、2019年度に全国の保健所などで殺された犬猫は約3万3千匹にまで減りました【注1】。激減と言っていいでしょう。

皆さんは、どう思いますか。毎年50万匹以上の犬猫を殺す社会と犬猫を殺さない社会と、どちらが良い社会でしょうか。犬猫を殺さない社会のほうが良い社会だと私は思います。では、どうして多数の犬猫を殺す社会のほうが悪いのでしょうか。理由は簡単です。犬猫を殺すのは酷いことであり、殺される犬猫がかわいそうだからです。

他方で、日本では2020年に約105万頭の牛、約1669万頭の豚、少なくとも9億羽の鶏が殺されています【注2】。一見して明らかなように、殺される犬猫の数よりも殺される牛や豚や鶏の数のほうが遥かに膨大です。ここで質問です。これだけ多数の牛や豚や鶏を殺す社会と牛豚鶏を殺さない社会と、どちらが良い社会でしょうか。

犬猫を殺す社会よりも犬猫を殺さない社会のほうが良い社会であるならば、同じ論理で牛豚鶏を殺す社会よりも牛豚鶏を殺さない社会のほうが良い社会です。犬猫と牛豚鶏の間に違いはないからです。犬猫を殺すのが酷いことであり殺される犬猫がかわいそうであるのと同じように、牛豚鶏を殺すことも酷いことであり殺される牛豚鶏もかわいそうです。

ひょっとしたら、犬猫を無益に殺すのは酷いことだけれども、牛豚鶏は、人間が食べて有効利用するので、殺しても酷いことにならないのでしょうか。ならないことはないでしょう。牛豚鶏を殺すことが人間のためになされるからといって、その行為が酷い行為でなくなりはしません。人間の行為が人間のためになるかどうか、すなわち人間が動物を殺して食べるかどうかは、殺される動物にとってどうでもよい事柄だからです。ですから、たとえ牛豚鶏を殺すことから人間が利益を得るとしても、牛豚鶏を殺すことが酷いことに変わりありません。

ひょっとしたら、殺した牛豚鶏をただ食べるのは酷いことだけれども、感謝して食べればよいのでしょうか。牛や豚や鶏を食べる前に両手を合わせて「いただきます」と言い、食後にも両手を合わせて「ごちそうさまでした」と言えば、よいのでしょうか。よくよく考えてみましょう。

そもそも牛や豚や鶏を殺して食べる必要があるのでしょうか。あるいは、それほど多くの牛や豚や鶏を殺して食べる必要があるのでしょうか。2019年度に日本では1人当たり6.5kgの牛肉、12.8kgの豚肉、13.9kgの鶏肉、これらの合計で33.2kgの肉を消費しています。しかし1960年度には1人当たり牛肉が1.1kg、豚肉が1.1kg、鶏肉が0.8kg、これらの合計で3.0kgの肉しか消費していませんでした【注3】。

さらに遡って1877年(明治10年)では1人当たり牛肉の消費が0.13kgと推定されます【注4】。豚や鶏については統計がないので、養豚や養鶏が産業としてまだ成立していなかったと考えられます。つまり1877年の時点では肉の消費は限りなくゼロに近かったということです。言うまでもなく、肉食が天皇によって解禁されたのは、1871年(明治4年)です。もう1度、問います。膨大な数の牛豚鶏を殺して食べる社会と牛や豚や鶏をほとんど殺さない社会と、どちらが良いでしょうか。

少し別の仕方で、こう考えることもできます。私たちは、犬や猫を狭い場所に閉じ込めて、ひたすら餌を食べさせ、肥え太らせて、数ヶ月で精肉に変えてしまう──こういうことをしません。やろうと思えばできるかもしれませんけれども、そもそもそういうことをしようとは思いません。では、犬や猫にしようと思わないことを、どうして牛や豚や鶏にはしようと思うのでしょうか。犬や猫と、牛や豚や鶏で、何が違うのでしょうか。

また私たちは、ハツカネズミやドブネズミも数多く殺しています。2004年度には約684万匹のハツカネズミ、約260万匹のドブネズミが動物実験で殺されたと考えられます【注5】。私たちは人間を被験者として実験を行うときには、十分な説明に基づいた被験者の自由な同意が最重要であり、被験者に同意能力がない場合には、被験者にとっての危険性を最小限にしなければならないという原則に従います。

では、ハツカネズミやドブネズミに対しては、どうして──動物自身の自由な同意も得ていないのに──殺害という最大限の危害を加えるような実験を行うのでしょうか。人間は傷つくけれどもハツカネズミやドブネズミは傷つかないのでしょうか。そうではありません。人間の身体もハツカネズミやドブネズミの身体も同じような内臓器官があり中枢神経系があるので、人間が苦しむようにハツカネズミやドブネズミも苦しむのです。

以上、いくつか例をあげました。私たちは、犬猫に関しては殺処分ゼロを達成しようとしています。しかし、牛や豚や鶏、ハツカネズミやドブネズミは、殺処分ゼロから置き去りにされています。どうしてでしょうか。慣行だというのが私の答えです。言い換えると、20年前、30年前、40年前からそうしてきているから、そうしているのです。

肉食について言えば、物心がつく前から肉を食べていたから、今でも肉を食べているわけです。また学生のときから動物を実験で殺していたから、今でもそうしているわけです。疑問に思わなかったのです。でもここで立ち止まって、考えてみましょう。多数の動物を殺処分する社会と殺処分ゼロの社会と、どちらが良い社会でしょうか。

私は拙著『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』の中で動物権利論という立場から、畜産や動物実験のみならず、動物園/水族館や競馬から伴侶動物や介助動物、野生動物や地域猫のような境界動物にいたるまでさまざまな場面での動物倫理について考えました【注6】。

私が考える動物権利論というのは、人間にとって生命権(殺されない権利)と身体の安全保障権(傷つけられない権利)と行動の自由権という3つの基本的権利が絶対に不可欠であるように、他の動物にとってもこれら3つの基本的権利が絶対に必要だという考え方です。そこから人間は他人の基本的権利を尊重するのと同じように、他の動物の基本的権利も尊重するべきだという主張になります。動物倫理というのは人間の生き方の問題なので、本書の最後のほうではキリスト教と仏教という宗教について、また動物権利論の思想的広がり──非暴力の思想──についても触れています。

皆さんは、「動物福祉」って聞いたことがあるでしょうか。「動物福祉」とは、動物の幸せという意味で、要するに、動物を不必要に苦しませないようにしよう、という考え方を表します。ですから、動物を殺す際にはできるだけ動物に苦痛を与えないで殺すようにしようということになります。別の言い方をすれば、動物にできる限り苦痛を与えなければ動物を殺してもよいということにもなります。

皆さんはどう思いますか。動物に苦痛を与えなければ、動物を殺してもよいでしょうか。この点で、動物権利論は動物福祉論と異なります。私が主張する動物権利論は、動物に苦痛を与えることに反対するだけではなくて、人間が動物を監禁することにも傷つけることにも殺すことにも反対するからです。

上で述べたように、私たちの行為の中には慣習的な行為があります。そうした行為を支えているのは、吟味されていない偏見です。この偏見とは、他の動物は人間でないのだから捕まえても傷つけても殺してもかまわないのだ、という見方です。これを「人間中心主義」とも言います。偏見から一度解放されて、私たちの慣習的な行為を冷静に見直してみましょう。別の世界が見えてくるかもしれません。そういう経験を本書が皆さんに提供できれば、幸いです。

【注1】環境省「犬・猫の引取り及び負傷動物等の収容並びに処分の状況 令和2年度版」。

【注2】農林水産省「令和2年畜産物流調査」および日本卵業協会「採卵用めす雛餌付羽数」。ただし、殺された鶏の数は肉用若鶏と廃鶏と採卵用めす雛の合計数です。採卵用めす雛とほぼ同数のおす雛が殺処分されたと考えられます。

【注3】農林水産省「令和元年度食料需給表」。

【注4】中央畜産会『畜産行政史』、742頁および総務省「日本統計年鑑 令和3年」、36頁。屠畜頭数と枝肉生産量と人口からの推定です。

【注5】日本実験動物協会「平成16年度 実験動物総販売数調査」および日本実験動物学会「2004年度(自家繁殖)実験動物使用数調査の結果について」。これらの匹数は、実験動物販売数と自家繁殖動物使用数を足した数字です。

【注6】ただし漁業と捕鯨については著者の力不足から論じていません。

プロフィール

浅野幸治社会哲学、動物倫理

豊田工業大学特任准教授(哲学)。テキサス大学大学院哲学科博士課程修了Ph.D.。研究テーマは、社会哲学、動物倫理など。著書に『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』ナカニシヤ出版、訳書にヒレル・スタイナー『権利論』新教出版社、ジャン・バニエ『人間になる』新教出版社など。

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